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「刹鬼」シリーズ
「刹鬼」上巻
第1話:鬼絶ち兄弟
「ほほほ」
飲み込まれてゆく物が見える。あれは、誰だったか。
かつて人の形をしていた物は、怪物の食料として咀嚼されていた。
◆◇◆
「櫓山には、戦国時代の武者の幽霊が出るんだって」
「そうそう、櫓山で狂っちゃった人が居るんだってね」
彼らにとっては、なんと言うことはないただの噂だったが、好奇心旺盛な学生が興味を引くには、十分すぎる話題だった。
季節が夏だったこともあり、すぐさま、肝試し大会と称して仲良しグループによる探検隊が結成される。
尤もらしく語っておきながら、実のところはさほども噂を信じてなど居ないのだろう。そうでもなければ、とてもじゃないがまともな思考ではない。
「私の家は代々霊感が強いの、だから──」
「いやいやマジでやばいって俺こういうの本当──」
「幽霊なんているわけが──」
「でも実際に見たって人が何人も入院して──」
騒ぎ立つクラスメイトたちを横目に、何も無い虚空――いや、実のところそこに居はするのだが、特に何の力を持たない一般人からしてみれば虚空でしかない場所に対して、私は言葉を投げかけた。
「どう思う?」
「どう思うも何も、見てみなければ何もわかりませぬよ」
虚空であるはずの場所に居る、大きな唐傘にぶら下がった小さな老人は続けた。
「なんにしませよ、このところの人里の被害、他に噂も無いところ、その武者とやらの仕業と見るのが自然ではないですかな」
ほほほと、気軽そうに笑う。
彼の名前はウワサガリ。このところ一年ほど行動を共にしている、中堅妖怪である。
「雪枝(ゆきし)くんも来るんだよね?」
クラスメイトの春花(はるか)が声をかけてきた。雪枝というのは私の名前だ。雪の結晶の枝のような、繊細で、唯一無二で、かつ美しい心の持ち主になって欲しいという両親の願いからつけられた。
「うん、私も一緒にいくよ」
「うしし、よかった」
屈託の無い笑顔でそういうと、仲間のほうに走り去ってゆく。
「みんな、雪枝くんもきてくれるってさ!」
小学校の修学旅行で心霊現象に見舞われてからというもの、この手の行事や話には必ずといっていいほど狩り出されるようになった。何でも私を連れて行くと、奇妙な現象に遭遇し易くなるのだと。
別に、私が霊現象を引き起こしているわけではない。
私の力を欲する悪霊や妖怪たちが、私や私の弟晴地(せいじ)に寄ってくるだけで、こと私にとっては、ただ面倒なだけの問題でしかなかった。もっとも、悪霊退治のヒーローのつもりでいる晴地はどうか知らないが。
集合時間は今日の19時。別段遠くに行くわけでもなく、危険な場所というわけでもないため、彼らの両親の殆どもこのプランを承諾するだろう。
が、そう穏便にいくわけが無い、か。私は、これから起こるであろう事件に身構えるように拳を握り締め、気を紛らわせるように、仲間たちの輪に入った。
「行かれるのですな、そうこなくては」
ほほほ、と、気軽そうに、ウワサガリが笑っている。
◆◇◆
常日頃から門限についてとやかく言われている人を除いたおおよそのメンバーと、私の願いもあって同行することになった弟で、神社へ続く舗装された山道を歩いていた。
夏の山ともなれば、虫の十数匹程度群がりそうなものだが、山に近づくにつれ数は減り、ついには、蚊の一匹すらいなくなった。明らかに様子がおかしい。
妖怪の一匹すら見当たらない。風の音、こすれる木の葉の音、肝試し一行の足音だけが、闇夜に吸い込まれてゆく。
「確かになんかいるみたいだな。それも」
「それもあまり、可愛いものではなさそうだね」
弟の晴地が耳打ちしてきた。重ねるように答える。
悪霊や、悪妖がいる場所は、生き物が本能的に避けるらしい。今まで遭遇してきた「悪いモノたち」が居た場所も、同様に生き物たちが見当たらなかった。これ以上このメンバーで先に進むのは、いささかよろしくない。
「先輩方、すみませーん!」
「ん、なになに」
「どうしたの晴地君」
一行は足を止め、精一杯平静の表情を装って、群がってくる。
「実は……」
一行が帰る気になるよう、私を病人に仕立て上げ、晴地が説得を始めた。時折、申し訳ないといった表情で私の顔をのぞきながら。
説得の甲斐あり、一行は「近くの神社までは行く」という条件で、櫓山の頂上まで登ることまでは中止となった。
私も晴地も「神社までなら害も無いだろうし、逆に帰路は安全になるだろう」ということで条件を飲み、私は腹痛の演技をするため、最後尾を歩くことにした。ふと、一行の頭上に何かが浮かんでいることに気が付く。
「ほほほ……いらっしゃいましたな」
「晴地!」
精一杯の声で叫ぶ。一行が此方を向く。
「上!」
緊張の表情から一変、空を見上げた一行は呆けたような表情をしていた。私と、晴地を除いて。
「走るよ!」
私の声で我に返った晴地が、先輩達も急いで、と、声をかける。
私達の行動に異様さを感じたのか、生物としての本能が働いたのか、一行は神社へと、無我夢中で走り出す。
「ほほほほほ……間に合いますかな……?」
気軽そうに、ウワサガリが笑う。こいつには、人の命も、妖怪の命もどうでもよいのだ。
食事さえ、できれば。
鈍足であってくれ、と願っていたが、どうもそうではないらしい。あ、あ、あ、と、どこかのホラー映画で聴いたような声が何処からともなく聴こえ始める。
同時に、嫌、嫌、と、一行からも声が漏れ始める。捕まれば、ただではすまない。鈍感な人間も、流石にここまで来れば理解できる。
あと少し、数十秒で神社までたどり着けるというところで、一際大きな声が聴こえ、同時に、先導していた晴地の姿が消えた。例の武者だろうか。
そうでなくても、私達にとって害あるものの仕業に違いない。
「みんな、境内に急いで!」
ぐぐ、と、拳を握り締め、境内に走り込む一行を横目に立ち止まる。晴地を連れ去るほどの力の持ち主を、彼一人に任せておくわけにもいかない。
次の瞬間、私の視界に映る世界が暗転した。
状況が飲み込めないまま周りを見渡す。
何も見えない。つい先刻までそこにあったはずの鳥居も、みんなの姿も。ここは、どこだ。
「はは……」
弱弱しく、つい声が出た。
「捕まったのは、私、か……」
当然だ。私と晴地以外は、みな境内にいるのだ。
ふぅと、ため息をつき目を伏せる。ただ突っ立っていても始まらない。まずは現状の把握、そしてやるべきことの判断をしよう。
細月のうえ、木々に光を遮断されてしまっている現状、音だけを頼りに、自らの立たされている状況を判断しようとする。
コツコツと何かをたたく音、それに、何かを引きずるような音。それぞれ別の方角から聴こえてくるようだ。晴地か、化け物か。少なくとも片方は化け物に間違いないだろう。
一考の後、私は「たたく音」のする方角に向かうことにした。そう簡単に晴地がやられるはずは無い、あいつは強い。倒した相手を引きずるような残虐性も無い。
ならば、"引きずる音"は化け物の仕業だろう。
呼吸を整え、暗がりの中、弱弱しい足取りで歩を進める。晴地が無事で居ることを願いながら。
◆◇◆
「先輩方、境内までもう少しですからがんばっ……」
あと少しで境内というところだった。化け物が叫んだかと思うと、俺の体は宙を舞った。
咄嗟、体に霊力を込める。鬼断ち兄弟の所以となったその超人的な力を使い、地面をえぐる様に着地した。
「何処だここは……」
辺りを見回す。吸い込まれるような闇が木々の間から漏れるばかりで、先刻まで空に瞬いていた星の光すら、見ることが出来ない。申し訳程度に輝く、細月を除いて。
「はぁんなるほど、化け物の結界の中、ね」
同じような目には何度かあった。悪霊や物の怪を相手にする場合、別段珍しい現象というわけではない。おそらく、術者である化け物はこの空間の中にいるはずだ。
相手が悪かったな、などとつぶやきながら、瞳に霊力を込め、夜目を利かせ、歩を進める。確かに感じる、化け物の気配。近い、もうすぐだ。速いところ蹴散らして、この結界から脱出を――
化け物の姿は直ぐに見つかった。身の丈3mほど。武者の甲冑に身を包んだ、獣のようなもの。こいつが、今回の"敵"か。
どうやら俺の行動には先に気が付いていたらしい。しっかりと、此方を見据えている。
「やっと来たか。鬼断ちの弟よ」
如何にも大物であるとでもあるかのような、厳かな口ぶりで話しかけてきた。
「某はクニモリ。覇者となるため、おぬしの霊力を頂戴しにきた」
「初めから俺が狙いか」
晴地の発言が終わるよりも早く、獣武者は野太刀のようなものをまるで棒切れを扱うかの如く、軽々しく振るってきた。
すんでのところでかわし、自らの拳が届く位置まで間合いをつめる。そこからは速かった。篭手を砕き、武器を払い、胴、足と打撃を加える。
こいつは悪霊ではなく妖怪だから、命まで奪うことも無いだろうと、ぐぅと声を漏らし、獣武者が膝を付いたところで攻撃を止め、話を始める。
「もう解っただろう、お前は俺には勝てない。さっさとこの結界を消して、俺を元の場所に戻してくれ」
ふと、兄さんがいなくてよかったと思った。兄さんがいれば、この程度では済まなかっただろう。
「人ごときが、勝ったつもりか。そもそも、この結界はわしのものではない」
獣武者はあさっての方向に視線を向けると、発言を続けた。
「どうやら、夜目もきかぬ、おぬしの兄も来たようだな。あちらは、某の娘に任せることにしよう」
おかしくて仕方が無いといったようにくくと笑うと、視線を戻し、先刻までのダメージがまるで無いかのように立ち上がった。
しまった、兄さんが捕まるとは。この闇夜の中では、俺のように戦うことは出来ないのに。
「箱入りの甘ちゃん小僧に、世界の厳しさを教えてやろう」
言うやいなや、阿修羅のように腕を生やすと、閃光のごとく攻撃を繰り出してきた。
「やべ……」
全身に霊力を込めて硬質化する。獣武者が振り下ろしたいくつもの野太刀は、晴地の皮膚に触れるか触れないかの状態で固定された。
「ぬっ……?」
「俺が甘ちゃんなのかどうかは、こいつを喰らってから判断しな」
一際強く拳に力を込めると、精一杯の力で敵の体に向かって振りぬく。途端、衝撃破が発生し、大きな体は、いくつもの木々をなぎ倒しながら、はるか後方の岩に打ち付けられた。
「兄さんが居るなら、お互いのためにもモタモタして居られないんでね。しばらくの間、そこで伸びていてくれ」
沈黙する獣を横目に、もうひとつの音のする方へ急いだ。
「恐ろしい力よ……。果たしてその力は何によるものか……」
獣は、走り去る晴地に向けて、鋭い眼差しを向けていた。
◆◇◆
「あぁ……はずれか……」
たたくような音の正体は、どうやら妖怪たちのものだったらしい。篝火の中心で何か術らしきものを唱えている周りで、取り巻きらしき小妖怪が地面を殴ったり、木をゆすったりと、落ち着きの無い動きをしている。
この数では一人で対処することは困難だろう。気づかれる前に離れようとしたが、術者らしき妖怪に声をかけられた。
「鬼断ちの兄よ、ばれておるぞ」
「はは……」
つい声を出すと、小妖怪どもが一斉にこちらを向く。
「わしは、今からおぬしの霊力をもらい受けるツキヒメじゃ」
ほれゆかんかとツキヒメが指示を出すと、私の周りを小妖怪らが取り囲んだ。
「まいったな……」
晴地ならともかく、私は霊力を行使し身体を強化できるわけでも、いつか見た漫画やアニメのように、結界を張ったり、ビームを出せるわけでもない。
ごくりとつばを飲み、相手の行動に身構える。一瞬の油断が命取りだ。
いつまでも動かない私に業を煮やしたのか、小妖怪の一匹が飛びかかってくる。
「ぐっ……あっ……」
避けきれず、左手に噛み付かれる。
このまま怯めば、周りの小妖怪が一度に飛び掛ってくるだろうことを予測した私は、咄嗟に小妖怪の頭を掴み、自らの力を行使した。
噛み付く力が次第に弱くなると、最後は力なく、小妖怪は体をぐったりとさせた。霊力が尽き、自由に体を動かすことすらままならなくなったのだ。
唯一私が行使できる能力、霊力吸収。
悪霊や妖怪やを認識できることから私にはそれなりの霊力があるらしいのだが、実際に霊能力を武器として行使することは出来ない。
出来るのはこうして、霊力そのものである悪霊や、霊力を糧として生きている妖怪などの力を奪うことだけだ。
私は小妖怪を無理やり手から引き離し、ミシミシと音を立てて引き離されたそれを、ごみクズか何かのように地面へ放り出す。
あちらから仕掛けてきたのだ、どうされようと文句は言えまい。捨てた小妖怪を、仲間の小妖怪どもが取り囲む。キィキィと群がるそれらは、どうやら、倒れた仲間の身を案じているようだった。
「私を元の所に返してくれませんか」
できるだけ、穏やかな表情、穏やかな声で話しかける。今この場で、相手の気を逆撫でしては、こちらの身が危ない。
「そ、そんなこと、出来るわけが無かろう」
目線をそらし、戸惑いを隠せないような、意地っ張りな少女のような表情でツキヒメは答えた。
「とにかく、此方には此方の事情というものがあるのじゃ!」
言うやいなや、再度小妖怪をけしかけてくる。ツキヒメが術を使うと、小妖怪どもは目を血走らせ、一斉に飛び掛ってきた。避け損ねた小妖怪に腕や脚などを噛み付かれ、体に激痛が走る。
「いぎっ……」
激痛を堪え、先刻と同じように、小妖怪の頭を掴む。私にはこれしか手立ては無い。
「やらせぬ」
ツキヒメがくい、と扇子を動かすと、見えない力によって手首を固定された。動かない……晴地……誰か……。
「ほほほ……、これまでですかな」
のんきに噂狩りが笑う。
「おまえ……見てないで……」
ウワサガリを睨む。餌が欲しいなら手伝ってくれても良いだろう。
「おや危ない……私めはこれで退散いたします」
そう言うと、彼はすぅと闇の中へ消えていった。
力が抜ける。血でも抜かれているのか。
そうか、これで死ぬのか。
ふと見上げると、私から大量の青白い帯がツキヒメに向かって伸びていた。なるほど霊力を吸い取られているらしい。使えないくせに、私にこんなにも霊力があるものなのか。不思議なものだ。
徐々に体の力が抜け、意識が朦朧とするにつれ、歩んできた短い人生の映像が、逆再生されるように記憶をたどる。これが、走馬灯か。
晴地と二人、さまざまな悪霊を退治してきたこと。
いつしか妖怪たちの間で、「鬼断ち兄弟」と、噂されるようになったこと。
晴地が生まれたときのこと。そして、生まれる前の……。
頭に激痛が走り、走馬灯は途中で途切れ、ぷつりと何かが途切れる気がした。
「お前ら、調子にのるなよ……」
「そんな体でいまさら何をいう。おとなしく私に吸収されよ」
もはやあきれたという体でツキヒメが言い放つ。
何か黒いものに意識が支配され、急に、纏わりつく小妖怪どもを虫けらのように感じた。
「雑魚妖怪ごときが、私に勝てると思うな」
私は体に力を集中すると、ツキヒメに伸びる青白い霊力の帯の流れを逆流させた。霊力の吸収は、私の唯一の特技だ。これで、負けるものか。
「そんな出鱈目な……!」
咄嗟にツキヒメが霊力の帯を切断する。
まとわりつく小妖怪の力も徐々に弱弱しくなり、一匹、また一匹と、地面に転げ落ちていった。どうやら触れている全てのものの力を吸収しているらしい。
「散々痛めつけて、ただで済むとは思わないことだね」
じりじりと間合いをつめる。残るのはあの忌々しい狐巫女だけだ。
「あ……あ……」
打つ手が無いといったように、ツキヒメが後退する。だが怯えた脚では、立つことすらままならないようだ。
「そうだね、ここで誇り高く私に殺されるか、下僕になるか、選ぶがいいよ」
私はツキヒメの髪を掴み、顔を寄せる。
「さぁ、どうする。選んでみてよ」
ツキヒメは恐怖で声が出ないのか、目を見開いたまま硬直している。
実に、イイ。
「答えないなら、殺してしまうよ」
霊力を吸収しながら、何度も蹴りを入れる。
「ぎ……あうっ……」
形成逆転だ。もう負けない。害悪の元であるこいつは、ここで殺してしまおう。
「兄さんストップ!」
何者かによって攻撃が遮られ、髪を掴む私の腕を掴まれた。
「今度はなん……晴地……あ……ごめん……」
ぐったりとしたツキヒメを放し、自らも地面に座り込む。
「こんなこったろうと思ったよ……。程々に頼むよ兄さん……」
焦りから安堵へと表情を変えながら、晴地は続けた。
「どうやら、結界も消えるみたいだ。兄さんが戦っていたそこの子がこの結界の主だったんだろうね」
ほのかに穏やかな空気につつまれ、私は安堵のため息をついたのだった。
第2話:国守りの狐
ふぅと一息ついた晴地だったが、彼は直ぐまた、顔をこわばらせた。
「……誰かの声が聞こえる」
そういうと、神社があるであろう大木の方角を向く目を細めた。釣られて私も神社の方角を確認する。
居る。あれは、初めに見た「もや」だ。あんなにも大きかったのか。もやは、神社の上空全体を覆いつくさんとばかりに広がっていた。おそらく、先刻まで戦いを繰り広げていた妖怪とは、別の存在だ。
「兄さん、みんなは?」
「境内に入ったはずだよ」
「無事ならいいけど……」
そういうと、晴地は神社に向かって走り出した。
「な……ならぬ……」
ツキヒメが弱弱しくつぶやく。
「キミ、もしかしてあのもやが何者なのか知ってるの?」
「……あれは……ぐ……」
流石にしゃべることもままならないか。私は時折、人が変わったようについやりすぎてしまう。
少しでも楽になるよう、私はツキヒメを抱きかかえ、起こしてやる。……自分で半殺しにしておいて、なんと滑稽な行動だろうか。
「これで話せる?」
「すまぬ……。あれはの、我ら一族の里を苦しめている者の一派でな、我ら親子だけでは手も足も出んのじゃ。たかだか人間一人の手に負えるものではない」
「言いづらいんだけど、君はそのたかだか人間に負けたんだけどね……」
負けてもなお人間を見下す思考には感服さえする。よほどプライドが高いのか、なんなのか……。
「父上に比べればまだまだ甘いわ!おぬしもおぬしの弟も、父上にかかればものの一太刀でおしまいじゃ!」
もう回復してきたのか、声を荒げながら、またぷいと顔をそらし、反論する。私が笑っていると、大きな影がぬっと現れた。
大きな影のヌシは、身の丈3mはあろうかという、巨大な狐の武者だった。脚や腹部を負傷しているようで、ずりずりと脚を引きずっている。引きずる音の正体はこれか。
体中怪我だらけの手負いの狐武者は、鋭い目線で此方をにらめつけると、私に抱きかかえられるツキヒメに目線を落とし、残念そうな顔をした。
「父上!」
「なぁにがチチウエ!か、敵に無様に抱きかかえられおって……」
ツキヒメは頬を赤く染め、黙り込んでしまった。
シンクロするように私も沈黙する。「父上」がツキヒメよりも強いのなら、私に勝ち目は無い。
「……鬼断ち兄よ。弟を追わずとも良いのか?」
追いたいのは山々だった。だが先ほどの戦いの反動か、上手く体が動かなかった。これでは、晴地の脚を引っ張るだけだ。
「私は貴方たちを監視しなければなりませんので」
嘘だ。だが虚勢を張らなければ、殺されると思った。だが私は直ぐに、そんな心配は無用だったということに気づかされる。
「……よく見るとまともに動けぬようだな。それでは仕方あるまい。ふむ……」
私とツキヒメを軽くなでると、狐武者はくるりと視線を変え、もやを眺めつつ、何か考えているようだった。
少なくとも、私や晴地を殺す算段ではないだろう。敵意があるとすれば、おそらく、あのもやに対してだった。
「いかにあの鬼断ち弟といえど、一人で奴らの相手は辛かろう。某は助太刀するが、それでも打ち勝つことは出来ぬかも知れぬ。ツキヒメ、お前は動けるか」
「何とか……。おぬしも気合を入れんか」
ツキヒメが気力で立ち上がり、私と父上とやらに術をかけた。体がたちどころに軽くなる。
父上の方も、傷が治ったためか、いよいよ胸を張って立ちはだかっていた。つい先ほどまで殺しあっていたのに、この妖怪たちは気持ちの切り替えがやけに早い。
「ありがとう。なんとか動けそうかな。……ところで、私も弟も、雪枝と晴地って名前があるからね」
「名乗らんおぬしらが悪いのじゃろ」
「まぁ……」
くだらない話を混ぜながら、緊張をほぐし、立ち上がる。おそらく、敵の敵は味方という事なのだろう。今はこの二人も味方のようだ。
「では二人とも、某の肩に乗れ。行くぞ」
ツキヒメと二人で肩に登ると、狐武者は疾風のごとく走り出した。一瞬のうちに神社が目の前まで迫ってくる。
神社は、すでに全体をもやに覆われていた。これでは中の様子がわからない。この小さな神社の結界で、果たして進入を拒めているのだろうか……。
「だれか!」
春花の声だ。次第に声が近づいてくる。
「春花さん!」
「雪枝くん!……なに、それ……?」
ツキヒメたちを見て、春花が一瞬たじろいだ。が、はっとして続ける。
「そ……そう、あのね、神社が、晴地くんがね……」
「!」
間一髪という所で、クニモリが妖怪を遮った。どうやら春花を狙ってきたらしい。私の中で何か黒いものがざわつく、気がした。
「……いい加減に!」
私はクニモリの肩から滑り降りると、妖怪の体に手を当て、一気に力を奪い取った。呆然とする春花に、私は話しかける。
「……それで、晴地がどうかした?」
パニック状態に陥っている春花が、事の顛末をたどたどしく説明する。どうやら、まとめるとこういうことだ。
・恐ろしい声から逃げて、神社に入ったところ、私たちが居なかった。
・声が止まないため、彼女らはお社に進入。止まない声にただ祈りをささげていた。
・しばらくすると晴地の声が聞こえ、外に出てみると、の化け物たちに晴地が囲まれていた。
・どうすることも出来なかったが、徐々に晴地が疲弊していったため、居てもたっても居られず、助けを呼びに一人飛び出してきた。
背筋を冷たいものが走る。なるほど、聞いた限りでは一刻を争う状況のようだ。
「黙り込んでいる場合か」
クニモリは私たちをつまみあげると、もやの中へと突入した。
神社の内部は、もはや地獄絵図だった。
社はもはや木屑と化し、力を使い果たし捕えられた晴地の目の前で、妖怪たちの「人間食事会」が開催されていた。
あるものはソースのようなものをかけながら、あるものはそのまま、クラスメイトたちを食らっている。
「嫌あああああああああああああああ!」
春花が叫ぶと、晴地が目を覚ました。
「……」
だが晴地は、一瞬こちらを向いた後、ただ涙を堪え、また下を向いてしまった。
「ほほほ……やっと来ましたか雪枝」
ウワサガリが傍観していた。こんなところに居たのか。
「お前、お前……ただ見ていたのか!そこにいたなら……」
「わしにその義務はない」
珍しく真剣な顔をしたウワサガリが、私を睨みつけた。まるで、私をカタキのように。そうだ、彼に人間の味方をする義務はない。義務は、ない。再び黒いものが私に流れる。
くちびるをかみ締め、妖怪たちに目線を移した。相変わらず、食らい続けている。
「悪戯に人間を食いおって……許せぬ……」
ツキヒメが盛大なブーメランをかます。私を殺そうとしたのは誰だ。
先ほど私に掛けたものと同じ術だろうか。呪文を早口でまくし立てると、晴地に向かって放った。光に包まれた晴地の霊力が戻る。
「ぐっ……うらああああ!」
再び拳を握り締めた晴地は、拘束を振りほどくと私のクラスメイトにタカる妖怪に殴りかかった。
「まったく……無策の阿呆か」
さらに、クニモリがそれに助力する。妖怪の集団に応戦する二人。だが、流石に数が多いようだ。私も行くしかないか。
「阿呆か!」
ツキヒメに止められる。
「アホとはまた随分な言い草だね……」
「ゆ……雪枝はわしと共に父上らを補佐するのじゃ!」
そういうと、自らと私を霊力の帯で結び、私に力を行使するよう求めた。なぜか頬を染めながら。
「私の力は、触れないと意味ないんだけど」
半信半疑ながら力を行使する。すると、半径5メートルほどの距離に居た妖怪たちがバタバタと倒れ始めた。同時に霊力の帯が淡く光る。
なるほど、私は今、ツキヒメの霊力収集マシーンというわけだ。触れずに力が使えるのも、彼女のおかげなのだろう。
「その娘と弟を殺したくなくば、気を抜くでないぞ」
そういいながら、晴地とクニモリに対し、術を放ち続ける。
「なんであんたが!」
「今は目の前の敵に集中するが良い、鬼断ち弟よ」
晴地とクニモリの共闘は、見事なものだった。晴地も十二分に強いが、クニモリの強さは異常だ。全く持って隙を作らず、次々に妖怪を蹴散らしてゆく。
「止め、よ、オマエタチ」
鼻につくような、驕ったような声がとどろく。それと共に、妖怪たちの動きが止まった。そこに階段でもあるかのように、一歩一歩空から降りてきたそいつは、私たちを一望すると、軽蔑の目で言い放つ。
「ほう……いつぞやの狐もおるようだな……全く持ってシツコイ、シツコイ」
気がつくと、ツキヒメが震えている。クニモリの顔にも焦りが見えた、ような気がした。
「本日の食事は人の子と聞いていたが、これはまた格別な馳走よ」
ぺろりと舌なめずりをし、刀を抜いた。ひぃふぅと再び此方の数を確認した後、妖怪を退かせ、地面に足をつける。抜かれた刀はほのかに紫色に発行し、ゆらりと、空気をゆがませる。体が、引かれているような気がする。
じりと、クニモリが後ずさりする。それを見た晴地も後退した。
「まずはそこのおなごから」
春花に目を落とすと、ゆっくりと近づいてくる。
「いかん……逃げるぞ雪枝」
がたがたと脚を震わせながら、ツキヒメが手を引いてくる。放心状態の春花の手を引き、逃げようとするが、春花が動かない。そうしているうちに、奴が目の前までやってきた。
「まずは、一匹」
ぶん、と、刀を振るう。
気がつくと、春花と私の間に、晴地が割り込んでいた。
「がっ……」
普段どおり霊力の鎧をまとっているはずの晴地の腕に、刀が軽く突き刺さる。刀がいっそう紫色に光り、晴地の力を吸っていく。さらにクニモリが斬りかかるが、振るう前に動きが拘束された。
「そこの馬鹿女どものように、お前もたまには黙れ」
首の向きを変えもせず、奴は片手でクニモリを突き飛ばす。突き飛ばされたクニモリは、力なく、その場にどしりと倒れこんだ。
「……気が変わった。まずはその男から頂こう」
「馬鹿に……するな……」
息を切らした晴地が、奴をにらめつけながら膝をつく。視界が濁る。これもあの刀のせいなのだろうか。ともかく、このままでは晴地が殺されてしまう、何か手を打たなければ。
「ツキヒメ、晴地に術をかけろ。今すぐに」
呆然とするツキヒメだったが、私の顔を見るなり、あわてて術を唱え始めた。
「こしゃくな」
奴がツキヒメに斬りかかるが、私が盾となって止める。どうやら刀身自体はなまくらのようで、晴地のときのように、少しめり込む程度で止まった。だが、痛いものは痛い。激痛に体の融通が利かなくなりそうだ。
だが、助かるためには猶予はない。私は痛みに堪つつ声を上げる。
「晴地……いつものいくよ」
ツキヒメの力で回復した晴地が、渾身の力を込め、敵の背中に拳を入れる。
「な……んだこれは……」
奴の瞳が濁り、血管が浮き出る。
「効いたみたいだね……。……ふふ……今度はこっちの番だよ」
私は奴の刀を奪い取ると、それをそのまま奴自身に突き刺した。が、反応しない。相手の力を吸う道具ではないのか。
「……まぁいいや、私が直接やればいいよね」
奴の腕を掴むと、私は霊力を吸った。敵が叫び声をあげ、うごめく。あぁ、やはりこの瞬間が一番気分がいい。
「兄さん!」
怒ったような声で晴地が叫び、はっとする。まただ、またこの感覚に支配されていた。私の悪い癖だ、いつの間にかおかしくなる。
つい、自分ではなくなってしまう。
ほんの一瞬の隙を作っただけだったが、私たちが力を抜いたそのとき、奴は私が掴んだ手を切断し、空高く跳んだ。
「「しまった!」」
晴地と同時に叫ぶ。
「よくも……よくもこの私に屈辱を味わわせたな!……いいだろう、本気だ、私の本気を見せてやる!貴様らごとき、一瞬で片付くのだ。貴様ら程度に私……がぁぁ!」
そのとき、奴の腹から数本の刃が突き出し、背後からクニモリが現れた。
「ツキヒメ、封印の術を施せ」
「はっ……父上!」
ツキヒメが封印の術を唱える。澄んだ光の帯があたりを包み、じわじわと奴の姿が圧縮されていく。そのときだった。
「無様だな、クチガネ」
黒い槍が空から降り注ぎ、術が解除される。術から解き放たれ、ぐったりとしたクチガネの体が、突如現れた赤黒い球体に飲み込まれてゆくのを、私たちはただその場で眺めていた。声はあの球体から聞こえるようだ。
「ハハハ……今回はお前の負けだ、そのまま此方に戻ってくるがよい」
クチガネの体は、そのまま静かに球体に飲み込まれていった。声は話を続ける。
「……見事なものだ、国守りの尖兵、そして鬼断ち兄弟たちよ。クチガネが油断したとはいえこの様……少々驚いた。次があるとすれば、そのときは此方も万全を尽くすとしよう」
一通り好きに話した後、球体ともやは、その場から霧の様に消え去った。
「なんだったんだ……」
晴地はそういうと、星が瞬くのみとなった空をただ見上げていた。
ひとまず、危険は去ったようだ。とはいえ、今回は犠牲も多く出たのだが。私は、相変わらず呆然としている春花を心配するフリをしながら、噂を貪るウワサガリを眺めていた。
妖怪や悪霊に食われた人間は存在ごと世界から抹消され、人間の記憶には残らないらしい。
おそらく、晴地や春花の記憶からも、戦闘の事実や恐怖の感覚だけを残し、彼らが死んだという記憶、彼らが居たという事実だけは、もうすぐ消えるだろう。
世の中に、妖怪・悪霊についての、根も葉もない噂だけがあり、どの話にも証拠がなく証明することが出来ないのはこのためである。
そして私は、その噂が流れないよう、このウワサガリと行動を共にしている。
こいつが食べた噂は、この世の中から消えてしまうのだ。こいつにとっても、生まれたばかりの噂は新鮮で美味しいそうで、都合がいいのだとか。
「助かったぞ、鬼断ち兄弟」
「助かったのはこっちだっての」
クニモリと晴地が気の抜けたような表情でやりとりしていた。あの様子だと、すでに晴地の記憶からは消えたか。
「おい、雪枝よ」
怪訝な様子でツキヒメが話しかけてくる。
「……何」
私は、私だけが食われた人を忘れることが無い事実に相変わらず心をモヤモヤとさせながら、ツキヒメの声に応える。
「……い、いや、何でもないのじゃ。気のせいであった」
頬を染め、恥ずかしそうにしながら、クニモリの方へ走っていた。妖怪といえど、こうしているとただの可愛らしい女の子のようだ。
「ありがと、雪枝くん、もう大丈夫……」
どうやら春花の記憶からも消えたらしい。今回もこれで大団円。一件落着だ。
まだ夜が長く続くことを示している空高くに望む月を眺めながら、私はひとまずの安心感に胸をなでおろしたのだった。
第3話:魑魅魍魎の住む世界
終業のチャイムが鳴った。普段どおりの時間、普段どおりの授業。
違っているのは、なんとも言えないおかしな空気だけ。存在が消滅し、居なかったことになったとはいえ、元々居たはずの人間が急に居なくなった違和感は、完全には消しきれない。
消えた人間と仲の良かった者はふとしたときに目を泳がせ、何かを探し、おかしなことをしている自分に気がつくと、他の仲間の所へ逃げてゆく。
誰しもが感じている不和の空気の、決定的な情報がここにはない。よくわからない思いを抱えながら、皆過ごしていた。
「ゆーきーしくん!」
春花が普段どおりに話しかけてきた。この子の記憶からも、当然のように仲の良かった皆の情報が消え、昨晩はあんなにも泣き、叫び、心を痛めていたというのに、すでに何も感じていない。
こういうものなのだ、妖怪に食われるというのは。お互いが干渉しすぎないよう、世界は上手く出来ていると思う。弱者は、忘れる事でしか生きてゆけないのだ。
「雪枝くん、聞いてる?」
反応の無い私に、再び声をかける春花。
「ごめん、どうかした?」
「いや、その、雪枝くんお昼もってないなら、その……」
大体先が読めた。これは「お弁当を作ってきたから一緒に食べないか」だ。
「なんか毎度作らせているみたいでごめんね、ありがとう、いっしょに食べようか」
「いや、いいんだよ、私が勝手に作ってるだけ。それにね、今日はちょっと話したいことがあって……出来れば、人の少ないところがいいかな」
ほのかに頬をそめつつ、それで居て不安そうな顔をした春花は、そっと、私の手を握ってきた。クラスのどこかから、私たちをはやし立てる声が聞こえる気がする。
いつになってもこういうものは変わらない、思えば小学生の頃から同じ光景を見ている気がする。
春花と私は声から逃げるように、手をつないだままそそくさと教室を出て行った。そして恋人たち御用達の中庭に来ると、ちょうど校舎の窓から死角になるあたりに座り、いそいそと弁当を広げ、向かい合った。
「えっとね……」
きょろきょろとしながら、口ごもる。どこか普段と様子が違うようだ。
「話っていうのは、今私の周りにいる子達のことなの」
彼女の周りには、普段から動物たちの霊が集まっていた。春花の事だ、おおよそ、道端で見かけた動物の死体をいちいち供養し、感謝され、結果このように纏わりつかれているのだろう。
「……見えるようになったんだ」
「このこたち……やっぱり幽霊だったんだ……」
もっと驚くと思ったのだが、意外に春花は冷静だった。もっとも、付きまとっている霊たちがもっと恐ろしい姿の霊ならば、結果も違っていたのだろう。
動物の霊は、やっと反応した主人の姿に喜び、擦り寄ったり、ひざに乗ったりとはしゃいでいる。
「えへへ……」
春花自身も、とてもうれしそうな様子で、彼らを撫でている。
春花は昔から動物や植物が大好きだった。霊といえど、動物にこうも懐かれれば、とても気分が良いのだろう。
「相変わらず、お墓作ったり、供養してるんだ」
私がそう問いかけると、打って変わって寂しそうな表情をして彼女は答えた。
「うん、もう、なんだかほうって置けなくて、ね」
この際と考え、私は春花に、普段から感じていた事を発言する。
「今はこうして霊が見えるからこそ、懐いてくれているのが解ったり、触れたり出来るけど、今まではそれも無かったわけだし、見返りも無いのに良くやるね……」
動物ごとき、供養しなくても良いじゃないか、という言葉は飲み込んだ。流石に春花に対しては嫌味でしかない言葉だ。
「別に、見返りなんて無くてもいいの。私が、この子達を好きだからやってることだから」
無償の愛、というやつか。このあたり、春花はすこしおめでたい気もする。霊感を持った今、こんな感覚で果たして生きてゆけるのだろうか。
人でないものなんて、いつ、何をするかわからない。一瞬先には、今春花のひざの中に居る猫が、春花ののど笛を噛み切っているかもしれないのだ。
「まぁ、いいことだとは思うよ。社会的にも役に立っているし」
「うーん、いいとか悪いとか、そういう視点の問題でもないんだけどね」
そういうと彼女はにっこりと微笑みかけてきた。私は少々恥ずかしくなり、つい目を逸らし、動物たちに応対する。
春花に対するときと違いよそよそしくはあるが、においを嗅いだり、くるくると私の周りを回って様子を確かめてみたりと、敵対してくるわけではないようだ。
「春花さんは本当、動物が好きだよね」
無言の気まずさから、ついどうでも良いことをつぶやいた。
「もっふもふでかわいいよねぇ……」
うっとりした表情で受け答える春花。穏やかな時間が流れる。妖怪退治なんてやっているよりも、私は此方のほうが好きだ。面倒ごとは好きではない。
「あっ……時間!」
弁当も食べきっていないというのに 、いつの間にか昼休みの時間終了2分前という時間になっていた。
昨晩はとても長い時間に感じたというのに、こういう時間は一瞬だ。楽しい時間は一瞬で過ぎる。いつの日か、今まで歩んできた日々さえ、一瞬の出来事のように、絵空事の中の出来事のように感じる日が来るのだろう。
「はは……もう間に合わないね。二人でサボってしまおうか」
「な……なにいってんの!走ろ!」
顔を真っ赤にした春花が、ぐちゃぐちゃにしまったお弁当を抱えて走り出す。真面目だなぁなどと考えながら、春花から荷物を奪い取り、廊下を駆け抜ける。
「置いていっちゃうよ」
にこりと笑い、始業の鐘が鳴る中、走る足を速める。
「あっ……まって……」
とはいえ、本当に置いていく気はさらさらない。私は春花が追いつける程度の速さに走る足の動きを緩めた。
しばらく走ったあと、私たちは二人そろって教室へと入室した。
教室中の視線が此方に集まる。こそこそと、話し声が聞こえる気がする。だがいつもの大げさにはやし立てる声は無い。
「……?」
春花も異変に気がついているのか、よくわからない顔をしている。違和感があるのは当然、春花が「よくわからない」のも当然。
昨日まで私たちをはやし立てていた彼らは、すでにこの世界には居ないのだ。世界から忘れられた彼らは、もう誰も思い出すことは無いのだ。
「遅いぞ二人!何処に行ってた!」
先生が怒鳴る。すみませんなどといいながらいそいそと椅子に座る。隙間無く不和が充満する教室で、私たちは授業を受けたのだった。
◆◇◆
放課後、私は春花に付き添って帰宅することにした。このあたりはあまり霊も多くないが、「見え始め」の彼女のことは、まだあまり一人きりにすべきではないと考えたのだ。
「まぁ悪い霊とか、出るかもしれないし」
「お、脅かさないでよ~……」
別に脅しではない。悪霊なんて何処にでも出るのだ。
キッとにらみ、今にも飛び掛ってきそうな顔で春花を見つめている小妖怪を遠ざける。このあたりで鬼断ちの名を知らない妖怪はいない。脅しておけば手も出さないだろう。
春花の反応を物珍しそうに除いてくる妖怪たちは多々居たが、手を出してくるような輩は居らず、別段なんということもない帰路だった。
とはいえ、一々不思議そうにしたり、怖がったりと、春花はとてもせわしなかったのだが。
「朝はこんなに居なかったのに、こんなに沢山居るんだね……」
「まぁ、今が夕暮れ時で行動しやすいってのと、春花の行動が珍しいってので、かなり沢山集まっているほうかな……」
「や、やっぱり多いんだ……」
はは、と笑う春花。
「邪魔なら、蹴散らしてこようか」
私も春花にあわせて微笑みかける。
「や、や、や、いいよ、悪いよ」
「そう、気にすること無いのに」
妖怪のことなんて。
「別に、襲ってくるとか、害があるわけではなさそうだし、ね?」
まぁそうか、特に今事を荒立てる必要は無い。
「わかった、ならこのままにしておこうか」
ぐだぐだと話しながら歩いているうちに、春花の家が見えてくる。
「……ありがと、送ってくれて。あの、どうする?ちょっと寄っていく?」
「いや、いいよ、気を遣わなくて。私はこのまま帰るから」
「そっか、わかった、気をつけてね」
にっこりと笑い、小さく手を振ってきた。思わず此方も振り返す。こんな仕草、いつ振りだろうか。なんだか少し、照れくさい気もする。少しの沈黙のあと、私から先に声を出した。
「じゃぁ、また」
「また、あしたね」
「うん」
春花が家に入るのを見守った後、帰路につく。夕焼けの大きな太陽が目にまぶしい。
今日一日で感じた、今までに無い違和感を胸に抱きながら、私は両親と晴地が待つ家に帰るのだった。
◆◇◆
雪枝くんが送ってくれた!
雪枝くんが、家まで送ってくれた……!
家に着くなりせわしなく階段を駆け上った私は、身に着けた重いブレザーを脱ぎ捨てると、今朝布団をめくり上げたままになっていたベッドにダイブした。
「ついに雪枝くんに家まで送ってもらっちゃったぁ……」
天井を見上げながらぼうっとする。
しばらくぼうっとしていると、私についてきている動物たちの「霊」が、私の顔をぺろぺろとなめてきた。
「やだぁ、ふふ、なんだ、こらー」
私は一匹を抱き上げると、苦しくないよう気をつけながら、そっと抱きしめた。
この子たちが生き物でないことは、雪枝くんに聞く前からなんとなく解ってはいたんだ。おかあさんやおとうさんがアレルギーを発祥しないし、そもそも見られもしない。
それに、壁をすりぬけて移動することだってあるんだ。
「せっかくなら、家にあがってくれたらよかったのになぁ」
でも、家に上がってもらったところで、私はどうしたかったんだろう。
どうって、その、どうなの、どうなるの。本当、一体私はどうしたかったの。考えている間に、熱が上がってくる気がした。たぶん、私の顔は今真っ赤だ。
「変な風に捉えられていないといいなぁ……」
ぼうっとしているうちに、お弁当のことを思い出した。そういえば、残っちゃったんだっけ。おいしくなかったかな、多かったかな。
「雪枝くんの好きなものって、お弁当にしづらいんだもんな……」
お漬物、川魚、山菜、木の実。その他、自然派な食品ばかり。育ち盛りの男の子らしく、「肉!」とか言ってくれたら簡単なのに。
「明日はどうしよう」
特別料理が出来るわけでもない私は、多種多様なレパートリーを持っているわけではなく、毎日毎日、誰かがネット上に上げているレシピにお世話になっている。
私はベッド脇のマイパソコンを引き出すと、レシピに目を通す。普段見ないような食材ばかり使われているレシピにため息をつき、手足をばたりと投げ出す。
「そろそろ夕飯かな……」
しばらく聞こえていたリズミカルな包丁の音は消え、窓のサッシから吹き込む風の音だけが聞こえている。沈みかけの夕日が、一日の疲れを溜め込んだ体に染み渡ってくるようだった。
なんだか最近、やたらと慌しい毎日を送ってる気がする。この間だって、櫓山で……櫓山で、何してたっけ……?何か、とても恐ろしい目にあっていたような。
雪枝くんと一緒に、あと弟君も。そういえば、狐の妖怪みたいなのもいたような……?
ぼうっと考えていると、コツコツと、窓のほうで音が鳴っていることに気がついた。窓のほうを向くと、頭に獣耳を生やした、巫女服の不機嫌そうな黒髪の女の子が立っている。
「あ……ツキヒメちゃん、だ」
たしか、雪枝くんがそう呼んでいた気がする。ごそごそと移動し、鍵を開けてあげた。
「や~~っと気がついたか。本当は見えておらんのかと思ったぞ」
「待ってないで、入ってくればいいのに。壁くらい、抜けられるんでしょ?」
「わしをその辺の幽霊と一緒にするでない」
「あた」
ちょい、と扇子で私のおでこをつつくと、ツキヒメちゃんは「妖怪」と「幽霊」について、面倒そうにしながらも、簡単に説明をしてくれた。
私の周りについて来ている動物たち、この子達は霊。生物が死ぬことで発生する場合がある。
目の前に居るツキヒメちゃんは妖怪。妖怪としてこの世に生を受けた者。霊は実体がなく、一部例外を除き、現実世界の物質の干渉を無視できる。妖怪は実体があるため、無視できないそうだ。
「つまりわしらは、春花たち人間と同じように、生きておる」
「見えないのに生きてるって不思議だなぁ……あ、私は見えるけど」
「わしらからすれば、多くが霊力を持たぬおぬしらのほうが不可解じゃがな」
「何で実体があるのに、霊力がないと見られないの……?」
「わしに聞くな、知らんわ」
「そっかぁ……」
しばらくの沈黙。少しだけ気まずい空気が流れているようだった。
「の……のう春花」
「え、なになに?」
ぎこちなく質問され、ついぎこちなく返答する。扇子で顔を軽く隠しながら、ツキヒメちゃんは此方をじっと見つめている。
「その……おぬしと雪枝は、どういった関係なのじゃ」
「どっ……どうって、へ?いや、別にそんな、変なことは全く!」
「いや、何でも無いなら良いのじゃ、おかしなことを聞いて悪かった!」
お互いに顔を真っ赤にしながら受け答えする。絶対ばれた。そして、この反応からすると、きっと、ツキヒメちゃんは雪枝くんの事が……。
ツキヒメちゃんも生きている、実体のある、生き物だから。きっと、そういうことなんだろう。きっと私と同じなんだ、この子も。
雪枝くんは綺麗な顔立ちだし、優しいし、覚悟してなかったわけじゃない。
けどやっぱり、こうやって目の前にライバルが立ちはだかると、急に自分がちっぽけなものに感じられる。
妖怪や幽霊が見られるようになったとはいえ、そのほかは一般的だし、顔が特に可愛いわけでもないだろうし、体だって、モデルさんみたいにスレンダーではない。
それに対して、目の前のツキヒメちゃんの綺麗な顔と、細い肢体。勝てる気が、しないよ……。
「……お菓子、控えよっかな」
「ん?」
「いや、なんでもないの!こっちの、事だから……」
「ふぅむ……」
また少しの沈黙。さっきよりもより気まずく感じるのは、私の心のせいだろうか。
「……それで、何しに来たの」
しまった、きつくなってしまったかも知れない。そんなつもりは無いのに。
「あ、いやすまぬ。特にこれといった用事があったわけではないのじゃが、雪枝とおぬし二人が歩いているのを見たのでな。どういった関係か、気になってな……」
そんなの、直接雪枝くんに聞いてよ、とも思ったが、私だってそんなことは出来ない。軽く唇をかみ締め、言葉を飲み込む。
バツンッ
突如として部屋中の電子機器の電源が落ちた。停電?ブレーカーでも落ちたのだろうか。
「なんじゃ!?……これは結界ではないか……」
きょろきょろと、ツキヒメちゃんが何かを探している。うろうろと部屋を一周した後、呆気にとられた顔で私のほうを向き、近づいてきた。
「おぬしか!」
「わ、私?」
ツキヒメちゃんの突拍子も無い台詞にたじろぐ。結界を張る方法なんて知らない、どうやるか知らないのにできる訳ない。
「そんなわけないよ、私はそんな力なんてないし……」
「いや、ほかには考えられぬ、この小さな結界内にはわしとおぬしの二人しかおらぬ。そこにおる幽霊狸らが出来るわけもなかろうし……」
「ええ、でもこれ、どうしたら良いの……?」
結界を張る方法はもちろん、解く方法だってわからない。
「何も解らずにやっておるのか……?」
「さっきわかんないって言ったじゃん!」
「解らんとは言っておらんかったじゃろ!」
「同じようなもんじゃん、屁理屈!」
つい感情的になって、ツキヒメちゃんに強く当たってしまった。私らしくもない。この子と居ると、私のペースがいつの間にか崩れるように思う。
「そんな言い方をせんでもよいじゃろう!」
私をキッとにらみながらも、ツキヒメちゃんは結界をバチバチとつついたりしながら、解除する方法を探してくれているようだった。
「うーむ……」
「どう?」
「この結界じゃが、わしのものと同じもののようじゃ。術者が解かねば、どうしようもない」
「つまり、私が何とかしないといけないってこと?」
「うむ」
そんなの、どうしようもないって言っているようなものだ。全く知識も経験もない以上、どうしようもない。不安そうな表情を浮かべる私に、ツキヒメちゃんが優しく声をかけてきた。
「案ずるな、わしのものと同じなんじゃ、わしがおぬしに教えることが出来よう」
「あ、なるほど……ってそう上手くいく?」
「上手くいってもらわねば困るぞ!わしは家に帰れんし、おぬしはこのままなーんにも食えず、餓死することになるじゃろうな」
痩せたいとは思ったけど、餓死なんて望んでない。出来る出来ないは確かに関係ない。
◆◇◆
その後、私はツキヒメちゃんに結界の操り方をみっちりと教えてもらった。
感覚的には、なんとなく半日ほど頑張っていた気がしたのだが、結界が解けて時計を見てみても、大して時間は過ぎていなかった。
「この結界の中では、時間の流れがとても緩やかになる」
「なるほど、なにかと便利かもしれないなぁ」
テスト前とか。
「それにしても……」
「腹が減ったの……」
「そういえば、そろそろご飯かも知れない。あ、ツキヒメちゃんも食べていく?」
「……おぬしの親は、わしが見えるのか?」
ああそっか、お母さんたちは見えないだろうし、ツキヒメちゃんとご飯を食べるにも、彼女を認識してくれなくては、ご飯を準備してもらえすらしないだろう。
ぼうっとしていると、1階から、母が私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「それでは、わしは帰るぞ」
「うん、ごめんね、ありがとう」
「ふぅ……礼にはおよばぬ……」
つかれきった表情で窓から飛び出ると、あっというまに姿が見えなくなってしまった。妖怪というのは、みんなあんなに身体能力が高いのだろうか。
「きこえてるの?」
母が部屋にやってきた。
「あ、ごめん、ぼうっとしてた」
「窓なんて開けて、そろそろ寒くなるから締めなさいね」
「はぁい」
母につき、夕食に向かう。私はなんとなく、これから起こる特異な日々を予感していた。
第4話:思惑に乗せられ
「ちょっと兄さん、いつまで座ってんの!また遅刻するよ!」
慌しく卵賭けご飯を流し込むと、晴地は私のかばんを放ってよこしてきた。なんと言うこともない、昨日の繰り返しが始まる。いつ何処で誰が消えようが、その形を崩そうとしない世界。
そして、もしかすると、人間では私だけが、変化を知っている世界。
「あぁ、すぐ行く、大丈夫、すぐいくから」
「そんなこといって、気が付くと学校に来すらしないんだから……」
晴地にぐいと肩をつかまれ、仕方なく腰を上げる。
「行くから離せって……」
「……おうけい。いってきます!」
にこりと満面の笑みを見せた晴地が元気良く家を飛び出す。
「いってきます」
「二人とも、気をつけてね。あと、雪枝はもっとまじめに通うように」
「……はい」
視線の奥に何かを潜ませるような、そんな暗い目つきで私は受け答えた。私の態度について、他の家ならもっとガミガミと言われているところだろう。
だが、そうは言ってこない。うちの両親は、私に対しては後一歩の所を踏み込まず話をする。
まるで、他人の子のように。
別に、貰い子というわけではない。昔、古くから付近に住んでいるという妖怪どもに、私の出生について聞いたことがあった。
泣かずわめかずの静かな子だったそうで、白髪色白紫目という特異な見た目もあいまって、両親は、何かの病気かと焦っていたらしい。
確かに生まれてしばらく病弱ではあったのだが、それについても何か重病だったわけではなく、ただ体が弱かったというだけだった。今になっては、病弱さの欠片も無いが。
「ほほほ……朝っぱらからめんどくさいことを考える奴じゃのう」
ウワサガリだ。しばらく見ないと思ったらいつの間に。
「……なんか久しぶりだね」
「少々、野暮用がありましてな」
「別に興味は無いけど、お前そんな忙しい奴だったんだね……」
「ほっほっほ……これでも中堅、ですからな」
ほほっと軽快に笑うと、さぞ鼻が高いとばかりに胸を張った。普段は、表情豊かで、おしゃべりで、面白い奴だ。
「おぉ、春花様がいらっしゃいますぞ」
「え?」
気が付かなかった。通学路から少し降りた土手の下で、緩みきった表情で猫と戯れている。あのままだと時間に気が付かずに遅刻だな。
私はふぅと息を吐くと、少し急などての斜面を、すべり降りるように下った。
「春花さん」
「ぅわっ」
急に現実に引き戻され、狐につままれたような表情を見せる春花。
「あっ……おはよう!」
「……フフッ……いやおはようじゃなくてさ、ほら、時間だよ時間」
気の抜けた間抜けな顔がなんだかおかしくなり、少し笑いながら私は腕時計をたたくようなジェスチャーをした。
「あっ……あっ……そうだね、急ごう!」
立ち上がるや否や、私に急ぐよう催促する。先ほどの笑いが抜けない表情のまま、私は春花にしたがうことにした。
「まったく遅れそうになってたのはどっちさ……」
「春花様はいつもどこか抜けておられますなぁ」
「お……?どなた?」
ウワサガリの声に気が付いた春花が、空を見上げ、問いかける。一晩で随分慣れたものだ。
「ほ、まさか見えるように。わしはウワサガリと申します。長いこと、この雪枝様のお付きをしておりまして……」
「いやいやお付きでは無いでしょ」
「そうでありましたな、ほっほっほ……」
ウワサガリがゆるく笑う。
「まぁ色々あって、随分長いこと一緒に居るんだよ。だからこいつは、春花さんのことも良く知っているよ」
「え……いつも一緒だったの……?」
戸惑ったように受け答える春花。色々思うところがあるのだろう、気まずそうな表情をして、ウワサガリの顔をうかがっている。
「常に、というわけではありませぬ。多くは、噂の香りがしたときだけですな」
「そう……」
はぐらかされたような返答に、納得のいかない表情のまま、春花は質問をやめた。
つい少し前に「興味が無い」と言ったものの、確かにウワサガリが普段何処で何をしているのか、私すら全く持って知らない。本当に、「ふと」気が付いたときには居ないのだ。
詮索している私の心を読んだのか、ウワサガリがちらりと此方を向いた気がした。
「ねぇ……ねぇ雪枝くん」
「ほう……今度は一体何があったのやら」
二人の視線の先には、目を潤ませた小柄な入道が立ち尽くしていた。小柄といっても、そこらの家よりは大きい。
「おめえがぁ、鬼断ち兄弟んとこの兄ぃさんかな」
「まぁそうだけど……。悪いんだけどさ、そこ、退いてもらえない?」
「よがったぁ……やっとこさみつかったよぉ……」
子入道は、此方の言うことを聞きもせず一層大粒の涙を流して泣き出した。
「おいおい……何があったか知らないけどさ、こっちも急いでいるから、取りあえずどいてくれないかな」
「雪枝くん、この子、何か雪枝くんに用事があるんだよ。取りあえず、話を聞いてみよう?」
春花の瞳は、人助け……いや、妖怪助けに輝いていた。完全に学校のことは頭に無い。彼女はこう言い出したら聞かない。仕方ない、少しだけ話を聞くことにしよう。
「……ふぅ、それで、どうしたの、私に何か、用?」
「おねえさんたちに、何があったか話してみて?」
私の聞き方とは対照的に、やさしい口ぶりで話す春花の声に反応し、子入道は語り始めた。
「おれのおっかあがな、とっ捕まっちまってな、ほんで仲間に聞いたら、鬼断ち兄弟っつうのが、助けてくれるかもしれねっつうからよ……」
「あぁそれは晴地だね。私はそういう面倒なことは……」
「そこんとこどうにかできんか、このとおりだに、このままじゃぁ、おっかあ殺されちまう!」
晴地は時折、妖怪達の世話も焼いていた。鬼断ち兄弟の名前がこんな形でも広がり始めているとは。晴地の手助けとはいえ、私は妖怪達の世話まではしたくない。だがおそらく……。
「やろう!助けてあげよう雪枝くん!」
言うと思った。春花はやる気だ。話を聞き、先ほどよりも俄然やる気を見せている。
「あのさ……それ、やるのは私だよね……?あと、学校は……」
「学校をサボるのはよくないよ、でもこの子のお母さんは殺されちゃいそうなんでしょ?じゃぁ、いますぐ行動を起こさなきゃ!」
「別に人命が関わっているわけでもなし……」
「妖怪だって、生きているんだよ、ねぇ、私も頑張るから!」
両手でガッツポーズを決めた春花は、真剣な様子で此方を見つめている。この調子では、何を言っても無駄だろう。なるほど今ウワサガリが居るのは、このイベントのにおいを嗅ぎつけたからか。
大きなため息をつくと、私は具体的な話を聞くことにした。
「……で、今キミのおかあさんは何処にいて、私達は何をすればいいのかな」
つい今しがたまでこの世の終わりのような表情をしていた子入道だったが、私の言葉を聞くと、少しだけ表情が緩んだように見えた。
「ここからちょっとばかし北にいくと、でっけぇ洞穴があるんだけど、そこには昔から住んどる狸がおるんな」
「それで?」
「そいつがよぉ、急に、こないだから力をつけてきてな、そこらの奴らをどんどん食い殺しとるんな。おれのおっかぁも捕まっちまって、そいで、おれじゃどうにもできんで、こうやって助けてもらえるように探しとったっつうわけで」
つまり、急に調子に乗り始めた狸を懲らしめて、母親を助けて欲しい、と。そういえば、しばらく北へ行った方に開発が途中で止まったトンネルがあるんだっけ。
どうやら「ちょっとばかし北」というのは、入道にとっての話のようだ。かなりめんどくさい。
「はぁ、大体わかったよ。私がどうこうできれば良いけどね」
「頼りねぇんだなぁ……」
頼んでおいてこの言い草、少し腹が立つが、人外ゆえに、此方の心情など解らないのだろう。妖怪どもはお構いなしだ。
「じゃぁ、私を連れて行ってもらえるかな。私たちの足では、その洞穴は遠すぎるようだ」
「すっとんできゃ、すぐそこだに?」
「あのなぁ、お前にとって直ぐそこでも、私たちにとっては距離が……」
「ちょっと、そういう言い方無いんじゃない。……ごめんね、私たちはほら、キミと比べて小さいから、ちょっと時間がかかりすぎちゃうの。悪いんだけど、連れて行ってくれないかな」
春花に声を遮られ、丁寧に言い直される。相変わらず怪訝そうな表情を浮かべていた子入道だったが、春花の言葉に少し声を明るくし、私たちを運ぶ事を快く了承した。
「それじゃ行くに」
クニモリに乗ったときよりも遥かに高いところまで持ち上げられ、まるで飛翔するように移動した。全身を心地よい風が吹き抜ける。
「うわぁ……すっ……ごい!」
心地の良い風に目を細めながら、満足げな顔をする春花。面倒ごとを控えて居るのに、なんて呑気なのだろう。
「春花さん、本当に今から何しに行くか解ってる?」
「わかってるよ、人助け、ね!」
そんな簡単なことではないのに、おそらく何をしようとしているのか自覚が無い。私たちはこれから、もしかすると、その化け狸を殺すことになるのに。あと、厳密には人助けではない。人などではない。妖怪だ。
「私達で絶対に助けてあげようね。ね、約束!」
無邪気な表情で指切りを迫ってくる春花。全く持ってのんきなことだ。
「わかった、約束する」
二人で指をつなぎ、約束のおまじないをする。こんなことをするのはいつ振りだろう。幼い頃、晴地と力を悪いことに使わないって約束をした他は、覚えがないな。
「あれが、さっき言っとった洞窟だに」
ああやっぱり、建設が頓挫したトンネル。色々とよろしくない噂が多く立っているのは、その化け狸の仕業なのだろうか。
「さて……何事も無く済めばいいんだけど」
「雪枝様だけで、というのは、かなり久々に思いますな。晴地様を連れてこなくとも良かったのですかな?」
いまさら晴地のことを言うか。気になっていたのなら、もっと早く言えばいいものを。
「晴地は今学校だから、あいつの邪魔をしたくないしね」
「それに、私も居るし、ね!」
「晴地が居るのと、春花さんが居るのでは、大きく違うと思うんだけど……。こういうのもなんだけど、春花さんは今特に何か出来るわけではないんだから、正直、春花さんの出番はないと思う」
「……ふふふ……見くびってもらっては困るよ雪枝くん。私だって、ツキヒメちゃんに色々と教わったんだからね!」
言うやいなや春花は、手を天に掲げ、結界を張った。……が、あの狐巫女のものと比較するととても小さい。
「……なるほど。他には?」
「えっ……他には、って……」
他には、無いようだ。てっきり、ツキヒメがやっていたような、私の力を行使する対象を広げられる、霊力帯を使った結界が使えるのかと思ったが。
「いや、なんでもないよ。……じゃあ、春花さんには、こいつの母親の面倒を見てもらおうかな」
「え……私一人で?」
「いや、こいつの面倒も頼もうと思う。母親の場所、知っていそうだし」
「もちろん知っとる」
私は子入道を指差し、にこりと微笑みかける。子入道はというと、胸を張って、さも自信満々そうにしていた。
「ん……わかった、そっちも、気をつけてね」
「うん」
「それじゃ、いこ」
「おう」
春花を私と一緒に居させるわけにはいかないだろう。場合によっては、動物愛護団体から抗議でも届きそうな事態も発生しうるのだから。
「私らしくもないな……」
どうせ殺しても、おそらくウワサガリが、都合よい程度に事実を消去し、彼女の記憶からも消えるだろうに。いちいち、春花のことを気にかけて。
そもそも、こうやってここに居ること自体、春花の考えに乗ってきただけだ。私は何故遥かの思惑に乗っているのだろう。私は、私のやりたいことだけ、やっていたいはずなのに。
他人の面倒を見るなんて、もうこれっきりだ。とりあえず今は、早いところこの面倒ごとを片付けてしまおう。
「ほほほ……」
「また心を読んだね」
「いやいやすみません、つい、あなた方二人は面白くて。ほほほ……」
しばらく進むと、いかにもといった派手な装飾の扉があり、低級らしき門番妖怪が2匹立ち尽くしている場所にたどり着いた。気が付くとウワサガリも居ない。ここで間違いないだろう。
「なにもんだ、おめぇ!」
「それ以上近づくんじゃねぇぞ!」
私がさらに近づくと、がやがやと何か言いながら取り囲んできた。
「ふぅん。やっぱりたいしたことはなさそうだ」
私は2匹の体に手を当てると、一気に全ての力を吸い上げた。
「そこで、おとなしくしていてね」
力尽き、地に伏せる低級をよそに、私は、気持ちが良いほど派手な装飾の扉を開けた。
「なにものだ」
腹の出た、置物のような狸。こんな奴が大物なんだろうか。にわかには信じがたい。
「別に、何でもいいでしょう。私はきみを知らないし、きみも私を知る必要は無い」
「名乗らんか、無礼者が」
狸は怒りの仕草を見せると、風船が膨らむかのように膨れ上がってきた。
私は無言でその腹に手をつけると、先ほど低級に対して行ったように、力を一度に吸い取る。毛皮を私に掴まれたままの狸は見る見るうちにしぼみ、私に胸ぐらを掴まれているような形で、私にぶら下がった。
「で?」
「ヒィッ!化け物ッ!」
すっかりしぼんだ狸は、私の手を振り払うと、横穴から逃げ出していった。少しの間静寂が広がったかと思うと、今度は子入道らしき声が何処からか響いてくる。
「で、でたぁ~!」
さっきの横穴の先からか。狸に化かされでもしたのだろうか。何とかあちらの状況をうかがおうとしていると、先ほどの狸の声も聞こえてきた。
「あんちゃん、こんな奴らいいから、さっきあっちにおった化けもん何とかしてよ~」
「まずはこいつらからだ!俺の大事な飯をどこかにやった報いは受けてもらう!」
しまった、浅はかだった。化け狸は1匹じゃない。2匹、いやもしかすると、もっと居るかもしれない。やはり、あの時春花の意見に強く反対すべきだったか。
「ちょ、ちょっとまって!」
春花もすぐそこに居るらしい。このまま放置すれば、春花が、狸に食われて死んでしまう。
「春花さん逃げて!」
「雪枝くん!?どこ!?」
「壁の向こう!とにかく逃げて!」
こんなとき晴地の力があれば、壁なんて壊して助けに行くのに。私は唇をかみ締めつつ、元来た道を急ぎ戻り始めた。
さっきまでほんの少しだと思っていた距離が、急に幾千里もある長い道のりのように感じられる。あとちょっと、あと少しで外……どうかまだ、喰われていませんように。
「春花さーん!」
外に出て、出るだけ大きな声で叫ぶ。
……返事は、ない。
「春花さん!春花さん、何処!」
獣道すらない森の中を突き進む。さっきまで、この辺りに居たはずだ。不意に、大きな手に掴まれ、私の体は宙に浮いた。
「あぁん、なんだぁてめぇは」
声から察するに、先ほどの化け狸。春花を喰った後か、前か。
「あんちゃん、こいつ、さっき言ってた化け物!」
「馬鹿野郎!ただの人間じゃねぇか!」
小さな弟狸は、罵倒され、さらに小さく縮こまった。
「お前、春花をどうした!」
「あん?……あぁ、なるほど、ははん」
化け狸は何か解った様な顔をして、舌なめずりをした。吐息が臭い。死臭がする。
「てめぇの恋人さんは、今、ここよ」
トントンと、自分の腹を指差す。遅かった、か。
全身から力が抜けてゆくのが解る。他の誰かが死んだときとは違う、感覚。今まで感じたことの無い感覚に全身を覆われ、指先から冷たくなっていくような気がした。
「そうか……はは……」
化け物の口が近づいてくる。あぁこれは死ぬ。間違いない。
「何やってんだい、あんた!」
派手な音と共に大入道が現れ、化け狸の顔を殴りつけた。こいつはまさか、あいつの母親か。だが、化け狸は少しよろめいた程度で、一歩もたじろいでいない。
「ノコノコ戻ってきやがったか。こいつのあとでお前も捕まえて喰ってやろう」
春花と助けると誓った、入道の母親まで出てきてしまった。私だけでは、何も成せず、か。
「春花さんとの約束……」
なんてこと無い約束だが、私にはたった2度きりの約束の1つだ。春花との最後の約束。
少しでもあがいてやるとするか。私は拘束された手を何とか回転させ、化け狸の手を掴む。
「あん?」
「ふふ……素手で触ったのが間違いだったね」
「ぐっ……ちからが……」
霊力を吸収し始めたところで、化け物は私を掴んでいた手を離すと、大きく後退した。大入道が追撃を試みたが、力の差がまだ大きく、逆につきとばされ、気絶してしまった。
「へんてこな力を使いやがって、一思いに叩き潰してやればいいんだろう」
化け狸は拳を握り締め、大きく腕を振り下ろす。結局これまでか。
「ごめん、春花……」
ぶん、と空を切る音がした。そのときだった。
「雪枝くん!」
聞き覚えのある滑らかな響きの声が私の頭に響いた。ほぼ同時に視界が黒く暗転し、空気の振動が一瞬にしてとまった。徐々に暗闇に慣れ、かすかに視界が戻る。
「雪枝くん、よかった。よかったよ間に合って」
小さな空間は、春花の結界だった。結界の中には、春花、そして、中途半端に結界にとらわれ、身動きが出来なくなっている、あの化け狸の手。
「春花……さん、生きてた……?」
「えぇ、何で死んだことになってんの。ちゃんと生きてるよ!」
冷え切っていたように感じていた手足に、熱が戻ってくる。つまり化け狸のあれは、私を騙す狂言。嘘偽りだったということ。私は彼女の手を強く握った。熱が、生きているというエネルギーが伝わってくるようだ。
「ちょ、ちょっと、なになに、やだ、ちょっと、雪枝くん、今落ち着いてる場合じゃないよ!」
ほほを紅潮させた春花が、慌てふためいている。
「わかってる」
私はもがき続ける化け狸の手に、自分の手を軽く添え、霊力を吸収した。膨大な力が体に流れ込んでくる。なんとなく、懐かしさを感じた。
見る見るうちに小さくなった手は、ついに、私の手のひらに納まるほどまで小さくなった。
「もうよさそうかな……」
春花によって、結界が解かれる。私達は再び、日光にさらされた。
「おお、おめえら!」
子入道が、両手に狸を掴んでいる。そして傍らでは、ウワサガリが噂を食べていた。
噂を食べているということは、この二匹はただの狸になり、妖怪としての存在が消えたという事だろう。ウワサガリは、噂の母体を失った噂しか食べないのだから。
狸たちは、もはや人語を話すことすら出来ず、逃げようともがくだけだった。完全に、霊力が尽きてしまったのだろう。
「はて、こいつら、どうしたもんかなぁ」
「逃がしてあげられないかなぁ。もう、害も無いんでしょ?」
春花がとても甘い提案をする。彼女ならそうするだろうとは思っていた。
「ほんじゃまぁ、そうだな、なんもできんし、にがしてやるか」
子入道の手の力が緩められ、ぽてりと、狸の兄弟が地面に落下した。そうして、狸たちは一瞬のうちに、森の中へ走り去ってしまった。
「なんとかなって、よかったね」
「ふふ、うれしそうだね、春花さん」
彼女の笑顔に、なんとなく穏やかな気持ちになり、此方まで笑顔になる。こんなに安心したのは、初めてかもしれない。
「……雪枝くんが、死んじゃうかと思った」
うつむいて、ぼそりとつぶやく春花。彼女も私と同じように、安堵の気分を味わっている。
「私も、春花さんが食われたかと思って、気が気じゃなかったよ」
空気が張り詰めている気がする。命のやり取りをするときとはまた違う、別の。
「ごめんね、こんなこと、巻き込んじゃって」
余裕が無いような、そんな声。音が細かく震えている。私は春花の手を握り、精一杯優しげな声を作って、穏やかに発言した。
「大丈夫だよ、私は馴れているから」
そして、今日、私が初めて気が付いた、私の感覚を言葉として付け加える。
「……春花さんのためなら、頑張れるから」
それは、所謂告白のような意味を持つ言葉だった。
私は、いつの間にか春花に恋をしていたのだ。いつからかは解らない。人は知らない間に、自分の大切なものを築き上げる。
「もう無理はさせないから。もう危険なことしないから……」
私は、懺悔のようにつぶやき続ける春花の頭を軽く抱き、大丈夫だからと言い続けた。
いつの間にか真っ赤に染め上がった空と、吹き抜ける冷ややかな風が、私達二人だけを世界から切り離し、長い時間を一瞬にした。
そして私達は永遠を誓い、恋人になった。
ほほほと、普段よりもより一層愉快そうな、ウワサガリの笑い声が響いていた。
第5話:縁(えにし)
眠い。金曜日だから疲れが溜まっているのか、昨晩の夜更かしが原因なのかはわからない。とにかく、今にもまぶたが閉じてしまいそうなほど重い。昨晩家に帰った後直ぐに、春花からメールが入っていた。
私は、心の奥がなんとなくむずむずするのを感じながら、絶え間なく届く返信に対応し続け、結局その後、電話をした。
お互いに何も話題は無かったが、なんとなく、くだらないことばかりしていたような気がする。気が付くと、私は携帯電話を握り締めたまま、だらしのないポーズで朝を迎えていた。
私の世界は、昨日までとは完全に違っていた。
出会う妖怪たち一匹一匹が、私を、私達を脅かすような気がした。
今まで懲らしめてきた妖怪が、急にまた牙をむいて、私たちに歯向かってくる気がした。
その辺りに転がっている石ころすら、私と春花のために、呪いが掛けられている気さえした。
そこらじゅうに転がるありふれた物が、今はただ怖かった。
今まで私は、弟の為を除き、誰かのことを本気で気に掛けることなどは無かった。せいぜい、社交辞令的に、表面上気にするそぶりをするだけ。社会的に必要なことだ。
晴地の事を心配するにしても、あいつは私よりも遥かに強く、今私が感じているような心配など、全くする必要などは無かった。
私は今、性対象を自分の手で守り抜きたいという、本能的衝動をもてあましているのだ。
「考えすぎだよ、雪枝くん」
そういって微笑む彼女は、とても暖かく、それもまた、私の今までの感覚を塗り替えていった。
「ごめん、なんと言うか、慣れなくて、変な感じで」
昨日までと全く変わらない行動しかしていないのに、何かとても悪いことをしているような感覚だった。普段の私は居らず、ただ、あたふたとしてしまう。
手をつなぐことさえ出来ない私達は、お互いに歩幅を合わせながら、ただゆっくりと、学校へと続く道を歩き続けていた。
「おい!雪枝!春花!」
校門をくぐった所で、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「あれ、ツキヒメちゃん!わーどうしたのそんな格好して!」
そこには、制服姿のツキヒメが仁王立ちしていた。よく見ると、いつもの尻尾と耳が無い。それに、何処から制服を調達してきたのだろうか。
制服が人間側の作ったものだとすると、この場合、一般人にはどう見えるんだろう。
「人間社会というものを学ぶ為に、学校に通うことにしたのじゃ!ほれ雪枝、見ろ。わしも今日からお前と同じ学生じゃ!」
此方を見つめながらくるくると回りながら、ツキヒメは自分の服装を見せ付けてきた。私達の学年には居ないくらいの、長い、すねまであるスカートが、ひらひらと舞っている。
「お前、妖怪の癖に人間社会に入り込んでくる気?そもそも私達以外には見えないでしょ」
落ち着きの無いツキヒメに、渾身のでこピンを加えてやる。
「のごっ……ふ、ふふ……」
不適な笑みを浮かべ、動きを止めるツキヒメ。
「ちょ……ちょっと、でこピンしなくても……。でもそっか、確かに私達以外には普通見えないよね、どうするつもりだったの?」
「そこは問題ない!人にも見える傀儡の体に入っておるからな。……あぁそうそう雪枝、そういうわけじゃから、霊力を吸い取るで無いぞ、崩れてしまうでな」
「へぇ~……耳と尻尾が無い以外、普通の体に見えるけど、これ、作り物なんだ……」
「やっ……ひっ……ひひっ……指先で触るなくすぐったい!」
つんつんと触れる春花の指先がくすぐったかったらしく、体をくねらせ逃げるツキヒメ。
「えへへ、ツキヒメちゃん可愛いねー」
「やめんかー!」
逃げ惑うツキヒメが面白かったらしく、今度はくすぐること自体を目的として追い回す春花。この二人は、いつの間にこんなに仲良くなったんだか。
「春花さん、そろそろ教室に行こう」
潤沢に時間はあるが、ツキヒメには転校初日の準備などがあるだろう。それになんとなく、せっかくの春花との時間が少し、惜しかった。
「お、おい……雪枝……」
「あ……ちょっと雪枝くんまって……」
◆◇◆
「ふふふ……さすがに、人名としてはちょっと珍しいもんね、私達は妖怪だって知ってるから違和感無いけど、みんなにはちょっと珍しかったかもね」
「そうは言っても、ではどうすれば良いと言うんじゃ」
「完全に偽名にすればよかったじゃないか」
ツキヒメちゃんは、ふてくされたように、頬を膨らせ、隣では雪枝くんが呆れている。
自己紹介で、ツキヒメちゃんは自分の名前を「里山 月姫」と名乗った。一般的に、人の名前が漢字で決められていることが多いということで、そうしたようだ。
苗字は良いとして、「ツキヒメ」という響きが少々人名としては珍しく、クラスのみんなの興味を誘った。そして、ちょっとした時間を見つけては、クラスメイト達はツキヒメちゃんに質問を投げかけた。
私達二人、いや少なくとも私は、ツキヒメちゃんの人間離れした回答やしゃべり方に、正体がばれるのではないかと内心ひやひやしていたのだった。
その後、雪枝くんは少し渋っていたけれど、お昼ご飯はツキヒメちゃん含め3人で食べることにした。いや、むしろ私が強行したといったほうが正しいかもしれない。
転校(?)初日の質問ラッシュにたじたじのツキヒメちゃんを、私は放っておくことができなかったのだ。
そんなことをしたからか、今朝、教室でふたりきりで話をしていた時とは打って変わって、雪枝くんの機嫌が少しばかり悪い気がした。
まぁ、仲良く話をしたといっても、私も、雪枝くんも、恥ずかしくて上手く会話なんて出来やしなかったんだけれど。
「これは春花が作ったのか?」
「ああ、うん、そうだよ。ごめんね、お口に合わない?」
「いや、とても美味いぞ。わしの村で食べる何よりも美味い」
「えっ……そ、それは……デヘヘ……」
お弁当は、雪枝くんとツキヒメちゃんに食べてもらうことにした。
私の分はというと、雪枝くんが購買でいつも直ぐに売切れてしまう伝説の「生クリーム&カスタードとイチゴのサンド」、あとオマケに「桜クッキー」を買ってきてくれたので、それをいただいている。そんなに早く行動したわけではないのに、どうやって手に入れたんだろう。
「まぁ、春花さんの料理は、そこらの子には負けない味だと思うよ」
雪枝くんまで、私をおだててくる。いや、ほめてくれる。正直なところ、とても嬉しい。
こうして恋人という形になったからなのか、今日はやけに、雪枝くんが話をしてくれる気がする。普段は口数が少ないクールキャラだから、少し違和感を感じる気がするけれど。
「料理くらい出来たほうがいいかの……」
「できると魅力的ではあるよね」
「ふむ……」
ツキヒメちゃんが学校に来たのは、おそらく雪枝くんと仲良くなりたかったからだと思う。それは、今の私にとって、とても複雑な事実だった。
私はつい先日、ツキヒメちゃんに対して「雪枝くんとはなんでもない」と伝えたばかりだ。それなのに今、雪枝くんと私は、恋人同士になってしまった。これは、ツキヒメちゃんに対する裏切り行為なのではないだろうか。
雪枝くんと二人でご飯を食べたり、一緒に遊んだりしたいとは思っていた。でも、今そう出来ていないのは、いつもの私の悪い癖と、あと、きっとこの罪悪感の仕業だろう。私の心は、欲望と罪悪感がせめぎあい、普段以上にいっぱいいっぱいになっていた。
「どうしたんじゃ、大丈夫か」
よほどおかしな態度をとっていたのだろうか。ツキヒメちゃんが私を気に掛けてくれていた。だがそれがまた、罪悪感を後押しする。私はどうしたらいいのだろう。
「大丈夫だよ、どうかしたの?」
「なんとなく、つらそうな気がしただけじゃ。すまぬ」
謝ること無いよ、あなたは悪くない。それに私は今、確かに辛い気持ちなんだ。言ってしまいたい、でも怖い。こんなに健気でやさしい子を裏切ったかと思うと、そんなこと。
「妖怪でも、人間の体調とか気にするんだね」
「当たり前じゃろ、何を言っておるんじゃ」
「てっきり、私達人間のことは、食料くらいにしか考えていないのかと思ったよ」
「そんなもの一部の馬鹿妖怪だけで、殆どはわしと同じ、ゼンリョウな妖怪じゃ」
「善良ねぇ……。私と晴地を襲っておいてそれ堂々と言える?」
「あ……あれは理由があってのことでな、話せば長くなるが……」
「いや、いいよ、そこまで興味ないし」
「……そうか」
私の焦燥感をよそに、二人の会話が弾む。私は、雪枝くんと恋人になってはじめてのお昼休みに、一体何をやっているんだろう。恋人と、その恋人のことを好きな女の子を目の前に。
「はぁ……」
「どうしたの、元気ないみたいだね」
「やっぱりおかしいぞ、どうしたんじゃ、話してみろ、ほれ」
「別に……、特に無いよ、ちょっと気分が悪いだけ」
態度を隠し切れなくなった私は、倦怠感を理由にし、あたかもだるそうに、ぼんやりと辺りを見つめた。
ふと見上げると、ツキヒメちゃんが居るためか、2階の渡り廊下から、雪枝くんと同じような、白髪の男の子が此方を見つめていた。確か、いつも女の子を侍らせている子。今日は取り巻きの子達は居ないようだ。
私の視線に気が付いた男の子は、はっとした様子で、コソコソと姿を消した。
「やっと居なくなったか」
「あれ、気が付いてたの、ツキヒメちゃん」
「うむ、学校に来てからというもの、何度か此方を見ていたようじゃった。全く落ち着かん」
全く持ってうんざりといった表情で、大きなため息をつくツキヒメちゃん。窮屈な気分は、どうやら私だけではなかったようだ。
「……ふふっ」
「んん?」
「いや、ごめんね、本当、ツキヒメちゃんは、可愛いよね」
「な、いや、そんなこと言われても、何も無いぞ!」
頬を真っ赤に染め、怒った様な仕草を見せる。私もこのくらい、素直に全てを表現できたら、きっと、もっと楽になれるのだろうか。
「暑いな……」
「まだまだ夏真っ盛りだからねぇ……この辺りは、夜涼しいのが救いだけど……」
このところ、お昼に中庭に来ているが、この辺りは空気が流れないため、かなり暑かった。普段はもっと涼しいところでご飯を食べたりしているのだが、前回は内緒の話があったし、今日はツキヒメちゃんがいる。
暑さで人が居ないこの中庭は、今の私達にはぴったりだった。
「人里は暑いところが多くてかなわん……流石にこの暑さは堪えるぞ」
「まぁあまり起伏の多い地域は、多くの人間には生きづらいからね。物好きな妖怪なんかとは違うんだよ」
「雪枝は妖怪が嫌いなのか?」
「別に、嫌いなわけではないけど」
妖怪のことをわざわざ差別化する雪枝くんの言い方が気にかかったのか、不安そうな顔でツキヒメちゃんが雪枝の表情を伺っていた。
妖怪が嫌いとなれば、雪枝くんとツキヒメちゃんが仲良くなるのは難しい。気になるのは当然だろう。
「雪枝くんはなんで、妖怪にはそうやって厳しいこと言うの?普段は、人には優しいじゃない」
幽霊や妖怪が見えるようになって、初めて気が付いた雪枝くんの一面。
普段やさしい雪枝くんも、妖怪や幽霊に対しては容赦なく、また、とても冷酷だった。私は、今まで見てきた姿とのギャップに、少し、怖さを感じていた。
「……特に理由は無いんだけど……自分でも解らないな。知らないうちにそうしている」
本当にわからないのか、表面上そうしているだけなのか、判断が付かない澄ました様子で、さらっと返答が返ってきた。
でも、そもそも雪枝くんはいつもこうだったから、そこまで気にすることは無いだろうとも思った。人間に対する優しさも、どこか冷たい、そっけない感じを受けるからだ。
私は、そんなクールな感じが好きなことも事実だし、これで良いんだ、きっと。
「あ、そろそろお昼が終わるね。今度は遅れないように教室に戻らなきゃ」
「またジュギョウが始まるのか……もうわしは疲れた……」
「ばれたくなければ、もっと色々と勉強しておきなよ……。まぁ、ちょっと面白かったけどね」
「なんじゃとー!」
雪枝くんが見下したような笑顔で言い放ち、ツキヒメちゃんがそれに応戦する。
ツキヒメちゃんは、人間の文化に疎く、全く授業についてこれていなかった。幸い私の隣の席になったので、色々とフォローは入れてあげられるのだけど。
「じゃぁ、春花さん、そろそろ戻ろうか」
ツキヒメちゃんにでこピンを放ち続けながら、さわやかな笑顔で微笑む雪枝くん。あまりにも自然に打ち解けている二人に、私は、少し胸の奥が痛む気がした。
「うん、戻ろう」
私は負けじと、雪枝くんの手を取ると、手をつないだまま教室へ向かった。
◆◇◆
その後の授業も、散々なものだった。
相変わらず頓珍漢な回答や行動を繰り返すツキヒメちゃんに、私はハラハラとしっぱなしで、フォローに徹するあまり私まで笑われてしまった。
「ふぅ、今日はたいへんだったね……」
「すまぬ……」
「ふふふ。まぁ、しょうがないけどね」
今日一日で失敗ばかりを繰り返し、すっかり自信を失ったツキヒメちゃんは、今にも結界に閉じこもってしまいそうなどんよりとした表情をしていた。
雪枝くんも流石に可愛そうに感じたのか、お昼以降、その話題でいじったりはしなかった。
ちなみにその雪枝くんはというと、日ごろの生活態度のことで、今日は教務室に呼ばれていた。話が長くなりそうだということで、私は、ツキヒメちゃんと二人で帰ることになった。
「はぁ……雪枝に嫌われたかのう……」
雪枝くんが居なくなったことで、より素直にしゃべり始めるツキヒメちゃん。
「あの……さ」
意を決した私は、例の話をすることにした。このままずるずると、ツキヒメちゃんを騙し続けることは出来なかった。誰より、私が耐えられなかった。
「その雪枝くんのことなんだけどさ、実は、昨日から、私達、その……」
「なんじゃ、何を言うんじゃ」
感づいたのか、此方に視線を合わせてこない。
いや、実はもっと前から気が付いていたのかもしれない。空気が重い。後には引けないけれど、とても言いづらい。
「その、恋人に、恋人同士になったんだ」
私も、結界に閉じこもってしまいたかった。でもそんなことは許されない。好きな人を奪ったのは私。奪われたのは、目の前のツキヒメちゃんだ。
逃げることが許されるとすれば、それは私ではなく、ツキヒメちゃんのほうだ。
「そうか」
重苦しい空気の中、ツキヒメちゃんはそれだけ口にした。
横目で覗き込んだツキヒメちゃんの唇は、小刻みに震えていた。意を決して行動を起こした初日にこの仕打ちだ。痛いほど、私にもその気持ちが伝わってくる。
締め付けるような空気に、私とツキヒメちゃんの二人とも、涙をにじませていた。
私達は、ただ無言のまま、帰り道を歩き続けた。妖怪が何匹かいたが、皆、私達を見るなり逃げていった。それほどまでに、張り詰めた空気をかもし出していたと思う。
ツキヒメちゃんが今住んでいるといっていた山へと続く道への分かれ道はとっくに通り過ぎたが、彼女は結局、私の家まで着いてきた。
「春花……」
傾いた遠い日差しが逆光となり、彼女がどんな表情をしているかはわからなかった。でも、相変わらず震えているその声は、彼女の今の感情をまっすぐに伝えてきた。
「ごめん……私」
「かまわぬ、そういうものじゃ」
言いかけたところで、ツキヒメちゃんに言葉を遮られた。彼女は数歩私に近づくと、やさしく手を握り、うつむいたままで話しかけてきた。
「明日、時間をくれ。おぬしがどんな人間なのか、もっと知りたい」
どういう意図なのかはわからなかった。何故かツキヒメちゃんは、雪枝くんではなく、私ともっと関わりたいと、そう言ってきた。
「え、でも、私は……」
「お願いじゃ、頼む……」
「わ、解った。じゃぁ、明日うちに来てくれる?」
必死に懇願する彼女に、私は戸惑いながらも了承した。明日は恋人になってはじめての休日。雪枝くんと会おうと考えていたけれど、今私には、ツキヒメちゃんを放置する権利は無いと思った。
「では、日が昇ったらまたここにくるからの、起きたら出てきてくれ」
「呼び鈴鳴らしてくれればいいよ」
私はインターホンを指差し、これを押すんだよと、ツキヒメちゃんに教えた。ツキヒメちゃんは、わかったとだけ言うと、そのまま帰ってしまった。
山から下りてくる冷たい空気が、私達二人の心境を表現しているような気がした。
◆◇◆
次の日、ツキヒメちゃんは、結局呼び鈴を鳴らさずに外で待っていた。いつから待っていたのかは解らない。汗をびっしょりかいて、制服姿で座っていた。
「呼んで良いっていったのに!」
「まだ起きていなければ迷惑かと思ったんじゃ、他人に起こされたくは無いじゃろう!」
虚勢を張っているのか、ツキヒメちゃんは昨日よりもずっと元気な様子だった。
「……あと、たぶんその格好で出歩くのは、ちょっと、目立つかもね」
「な、何かまずいのか」
「いや、まずいってことはないし、そういう人も要るけどね。うーん、ちょっと来て」
私は彼女の手を引くと、家の中へ引き込んだ。お風呂の使い方を教え、汗を流させると、私が昔着ていた服を引っ張り出し、ツキヒメちゃんに着させた。
「これは屈辱的かもしれない……」
「何を言っておるんじゃ?」
細身で小柄なツキヒメちゃんは、中学生ごろの私の服を、難なく着こなしてしまった。胸のサイズは大幅に私が勝っているものの、ウエストや脚の細さは、全く持って敵わない。
「っていうか、ブラつけてなかったんだね。これは、サラシって言うんだよね?」
「うん?」
ブラやらなんやら、用語がわからないんだろう。よくわからない様子で、首をかしげている。
「よし、決まった。今日はツキヒメちゃんの服でも見に行こう。あ、でもお金がないのか……」
「お金ならある!」
ツキヒメちゃんは、ジャラジャラと小銭が沢山入った麻袋を出してきた。古銭のようなものまで混じっている。これは使えるんだろうか。
「え、これは何のお金?」
「遺物じゃな。妖怪に食われた人間の。あの制服もそうじゃ」
さらっと怖いことを言い放つ。妖怪に食われたって、そりゃあるのかもしれないけど、やっぱり、妖怪であるツキヒメちゃんは平気なんだろうか。いやいや、妖怪も人間も変わらないはずだ。
きっとこれは、経験の違いなんだろう。
「バチが当たらないかなぁ……」
「別に悪霊が居るわけもなし、おかしなことは起こらんじゃろう」
「だといいけど」
私には恐ろしくて遺物なんて使えないけど、ほかには無いから仕方ない。私は、使えそうなお金だけを選りすぐり、小さなポーチにお金を移してあげた。
麻袋を持ち歩く女子高校生というのも、なんとなくおかしな気がしたからだ。
「使えそうなのはあまり無いね。それに、……うーん、まだお店はあいてない時間かなぁ」
まだ時刻は8時ごろだった。お店があくのは10時ごろだろうから、今家を出ても早いだろう。
「ふーん、少し早かったのか。悪かったのぅ」
私の部屋の中で、少し沈黙が流れる。普通にしていても、やっぱりお互い、昨日のことを引きずっていた。そう直ぐには元通りには戻れない。
「あのさ」
空気が固まってしまう前に、私から声を掛けた。
「その、別に、私達が恋人になったからって、ツキヒメちゃんが、雪枝くんを諦めなきゃいけないなんて事は、ないんだからね」
「別にわしは雪枝のことなんて知らん。何を言って居るんじゃ」
そっぽを向いたまま、つん、と、答える彼女だったが、動揺しているのは手に取るように解った。こんなこと、隠しきれる訳は無い。
「もちろん、別に私も、諦めるなんてことは言ってないからね」
「……知っておる」
そう、ツキヒメちゃんと私は対等なんだ。同じ生きている存在で、同じように雪枝くんの事が好きなだけだから。
今は私が恋人だけど、いずれはわからない。ぐすぐすと、鼻をすする音が聞こえる。泣いているんだろうか。
「ちょっと早いけど、散歩しながら行こっか」
「うむ」
このまま部屋に閉じこもっていても、昨日の二の舞だと踏んだ私は、気晴らしに散歩を提案した。バスの場所までゆったり歩くのも、楽しいかもしれない。
外では、ツキヒメちゃんが色々と話をしてくれた。彼女も、私の事を気に掛けてくれていたのかもしれない。人間社会に居ては知りえない色々な事を、彼女は私に沢山教えてくれたのだった。
◆◇◆
雪枝と仲良くなるには、少しでも関わる事が出来る環境に自分の身をおくことが、最も手っ取り早い手段だと考えた。
だからわしは、面倒な傀儡作りを行ってまで、雪枝達の学校に入ったのだ。だが雪枝はわしの知らんうちに、春花と恋仲になってしまっていた。
こうなってしまっては、もはや自分の入る隙は無い。本当はきっぱりと諦め、二人の前から姿を消すべきなんじゃろう。
だが、わしはどうしても、そうすることが出来なかった。諦めることが出来なかった。初めて出会ったときから、逃れようの無い気持ちに、支配されてしまっていた。
わしは、何でも良いから理由を付け、雪枝の近くに居たかった。ただ、春花の邪魔をしたいわけでもなかった。
「はぁ~……」
「どうしたの、もう疲れたの?」
わしは今、春花につれられ、様々なものが入り混じった巨大な建造物につれてこられていた。春花はわしの服装が気に入らないらしく、あれこれと、着替えるように指図し続けている。
「別にそうではない、次はなんじゃ、これを着れば良いのか」
「ごめんね、もう何でも似合うから、私のほうが楽しくなっちゃって、ついつい……」
「い、いやっ……かまわぬ、あまり褒めるな、照れる……」
「なーに?可愛いじゃーん」
「やめろー!」
春花と居ると調子が狂う。わしはもともと、クールアンドビューティな性格のはずじゃ。何でこのように、手玉に取られなければならないんじゃ。
ただ、不思議と悪い気分にはならん。やはり、この娘の優しさゆえなのだろうか。
絶えずニコニコとしている春花を見ていると、雪枝が惹かれた理由もわかる気がしてくる。この娘は、わしには無いものを沢山持っているのだ。
「今まで着た物で、何が一番よかったかの……」
「んー、どれも似合うよねぇ。そうだなぁ、自分では、何か無いの?」
「むー?そういわれても、うーむ、難しいのー……」
「あ、それじゃぁねぇ、ツキヒメちゃんはスタイルがめっちゃ綺麗だし、これとこれ、どう?どうよ!」
春花が、体に引っ付くような窮屈な上着と、小さな布切れを示してくる。そもそもこれは服なのか。直ぐに局部が見えてしまうではないか。いったい、何を考えておるんじゃ。
「……それは、本当に服なんじゃな?手ぬぐいなどではないじゃろうな?」
「やーだ、普通だよこんなの、ほら、その辺にも居たでしょ、似たような服着た人!」
確かに、道中何人か同じような服装の人間とすれ違った。初めは、下半身丸出しで歩いているのかと思ってびっくりしたが、春花曰く「これもファッション」という事らしい。
「まぁ、おぬしが一番良いと言うなら、それにしてみようかの……」
「うん、まぁそれに、ちょっと手持ちのお金が少なすぎて、選べるものが少ないってのもあるんだけどね……。うーん、シャツだけだと寂しいし、この安いアウターくらいなら買ってあげてもいいかな……」
めちゃくちゃに積み上げられた服の中から、しわだらけになった服を拾い上げ、春花が一人でぶつぶつと何か唱えている。
「よし!決めた!」
「よいか……?もう終わって良いか……?」
「えへへ、ごめんね、じゃぁこのセットにしとこう。あとはまぁ、今着ている服と、私のお下がり、家に帰ったらあげるよ」
「いや、そんなに迷惑はかけられん、気を遣わんでくれ」
「いーよぉ、だって、あれもう、小さくて私は着れないし……。うーん……私も痩せたいなぁ……たはは……」
悲しげな笑顔を浮かべつつ、自身の腹の肉を掴み、ぷにぷにとやって見せる春花。確かに決して細身とはいえない体に、わしはフォローを入れることが出来なかった。
「……その服でね、雪枝くんに会いに行ったら、良いと思うよ」
店員にお金を支払いながら、相変わらず笑顔のまま、春花の声のトーンが少しだけ寂しげになった。辛いのならば、言わなければよいというに。
「……だから、わしは雪枝の事などなんとも思っておらんと言って居るじゃろう」
わしもどうしたらいいか解らんのじゃ、これ以上、言わないで欲しかった。本当に欲しくなったらどうするんじゃ、お前を裏切って、奪えとでも言うのか。出来るわけが無かろう。
「ふふ、ごめんね。さて……一番の用事は済んじゃったし、何処かで休憩でもしよっか。確か3階にチェーン店のラーメン屋があったと思うし、あそこでアイスでも食べよう」
「なんだかよくわからんが、わしの金は足りるのか?」
「大丈夫大丈夫、すごく安いから、今持ってるだけで足りるよ」
「いや、わしは我慢できるから良いぞ」
「いいじゃん、せっかく来たんだし、楽しもうよ、私だけ食べるってのも、ね。お金がもったいないなら、私が払ってあげようか?」
「いや、いい、お金がある限りは、わしが払う」
「なら行こ。あそこ上ったらすぐだから」
そういって、春花はわしの手を引き、さらに上の階へと上った。
◆◇◆
「ごめんねぇ、こんなお店しかなくて。ここ田舎だからさ、カフェとか無いんだよねー……ってツキヒメちゃんにはどれも珍しいから関係ないか」
「若干見下されているような気分になるが、まぁそのとおりじゃ」
わしらは、先ほど言っていた3階にある飯屋の場所に来ていた。せめぎ合うようにおかれた簡易的な机と椅子が並べられ、壁一面に飯屋が並んでいる。
わしは春花の薦めで、ソフトクリームなるものを食べていた。
「甘い!気持ち悪いほどに!」
「ごふっ……なにその感想!やっぱりツキヒメちゃんは面白い子だねぇ」
「変な食いもんじゃのう」
「普段はどんなもの食べてんの?」
「んー、その日によるが、多くは魚じゃな。ニジマスや、ヤマメかのう。たまに雉なども食うぞ」
「……生?」
「ふはっ……流石に火は通すわ。まぁ生で食らう妖怪も沢山居るが、わしは焼かんと食えんな」
深刻そうな顔で大真面目に聞いてくる春花に、つい笑ってしまった。なんじゃその先入観は。
「ふぅん、生は苦手なんだ?私もお刺身とかはそんなに好きじゃないかなー」
「春花はいつもこんなものを?」
「やだなぁ、これは主食じゃないよ、普段は普通のご飯……えーと、種類がたくさんあっていつもどれとはいえないけど、主に……コメとパン?」
「ほー……コメか。父上はコメを食わんからのぅ、わしも食ったことがない」
「お父さんって……えーと、私は見たことあったような……」
記憶が消えかけているのか。あの時は人間が食われたり、雪枝についていたおかしな妖怪が、記憶改変をしていたようだったし、無理も無い。
「おぬしと初めて会ったときじゃ。でかい鎧を着た狐の姿の妖怪がおったじゃろう、あれが父上じゃ。父上は、この国が出来たときからずっと、国を守っておる、大妖怪なんじゃぞ」
「えぇ、国が出来てからって、すごく昔の話じゃん、妖怪って、みんなそんな長寿なの?」
「いや、父上は特に長寿のようじゃ。確かに妖怪は人間よりは長寿じゃが、生きても千年くらいかのう……」
「十分長いよ!やっぱり人間よりずっと長寿なんだね。いろんな物語に出てくる通り」
大げさに驚いてみせる春花。そんなことを話している間に、二人とも、ソフトクリームを食べ終わってしまった。
「体が寒い」
「動けば直ぐ戻るよ、夏だし。もういこっか」
春花はわしの分まで手早くごみを片付け、戻ってきた。相変わらず、よく気の回る娘だ。
「なぁ春花、質問ばかりで悪いが、あれはなんじゃ?」
「あぁ、がちゃがちゃ?がしゃぽん?って言うんだよ、お金入れてレバーをまわすと、ランダムでおもちゃとかが出てくるの。やってみる?」
「いや、もう帰りの分しか金が無い」
「ふぅ……仕方ない、ならばこの私が出資してあげましょう!」
「いや、いやいや、もう良い、これ以上迷惑はかけられぬ」
こいつは何処まで世話焼きなのだ。これ以上無いくらいに尽くしてくる。きっと、良い嫁になるに違いない。……そう思うと、少し悔しくもあった。
「いいからいいから、ほらほら、どれがいいか選びなよ」
ぐいぐいと引かれ、がちゃがちゃの目の前までつれてこられた。少々強引なのは、相手がわしだからなのか、もともと誰にでもこういった性格なのか。
「で、ではこれにしておく」
「あーお花好き?私も好きだなぁ」
自分の好みを言い当てられると、なんだか少し、恥ずかしい気分になる。
黙っているうちに、春花が小銭を二枚セットすると、わしにレバーを回すよう求めてきた。がちゃがちゃという名称の通り、がしゃがしゃ、ごとんと音を鳴らすと、下部から、球体が姿を現した。
春花はそれを手に取り丁寧に開くと、中身を渡してきた。
「ほい、桜の花のストラップだね。桜、好き?」
特に好きというわけではないが、花はどれも好きだった。
「うむ」
「えへへ、私も桜は大好き」
ちょんちょんと、桜の髪飾りを示しながら、春花は嬉しそうにしている。
「貰ってもよいのか」
「もちろんだよ。そのためにやったんでしょ、がちゃがちゃ」
相変わらず、満々の笑みで微笑みかけてくる。この笑顔の裏に何か考えがあるようには思えないが、あるとすれば、末恐ろしい。願わくば、素直な感情でありますように。
その後わしらは、金欠もあり、春花の家周辺まで帰ることにした。道中、些細なくだらない話を沢山した気がするが、もう何を話したか、はっきりとは覚えていない。それくらい、取るに足らないことばかり、しゃべっていた。
そして気が付くと、いつの間にか日が傾き、夕方を迎えていた。
「んっ……ん……はぁ、今日は随分疲れた気がする」
「後半は散々歩き回ったからの」
やることが無くなったわしらは、ひたすら川沿いをぶらぶらしたり、街中を歩いたりと、ひたすら移動してばかりいた。
人里を練り歩いた経験が無かったわしは、地形を覚えるのに良い経験となったが、わしも春花も、大変疲弊した。
「今日は、ありがとね」
「それは、こっちの台詞じゃ。昨日といい今日といい、迷惑ばかり悪かった」
「いいよ、私は大丈夫」
春花はやさしい。ひたすらに。それに引き換えわしは、わしの都合でばかり今まで生きてきた気がする。春花と関わっていると、なんとなく自分が小物に感じられる。
「そうじゃ、今日のお礼にこれをやろう」
雪枝に渡すはずだった勾玉の宝玉。私が夜通し念を掛けたもの。持っているものの危機を救い、所有者の危機をわしに知らせるもの。今となっては雪枝に渡すことも出来ないし、春花に渡すのも良かろう。
「わっ……なにこれ綺麗……本当にいいの?」
「かまわん。わしの気が変わらんうちに受け取っておけ」
気恥ずかしく、つい目線を逸らせてしまった。どうもこういった行為は苦手だ。
「……ありがとう。大切にするね」
「うむ、友情の印、といったところじゃな」
「ぶっ……ふふ、ありがと、これからは友達ね。変なの、恋敵なのにね」
「しつこいのぅ、だから何度も違うと言っておろう」
「無駄だよ、解るもん」
そんなことを言って、また寂しそうな笑顔を浮かべる春花。此方まで辛くなってくる。わしはもう、春花のつらそうな顔は見たくなかった。
「ではそれでよいから、お前はお前の好きなようにしてくれ。雪枝に関わることで、もうわしを気にかけるな」
「……うん、わかった。はぁー……気が重いなぁ。でも、今日一日でちょっと楽にはなったよ」
「わしも、少し楽にはなった」
「ふふ、じゃぁまた明後日、学校でね」
「うむ、またな。……次遊べるときは、うちに来い。金なんぞ無くても遊ばせてやるぞ」
「うん。また遊ぼう」
春花は手を振ると、くるりと後ろを向き、自分の家へと帰っていった。春花が居なくなり、空気がなんとなく冷たくなった気がした。
「帰るか、ツキヒメ。疲れたろう、肩に乗れ」
いつのまにか、父上が迎えに来ていた。言われたとおりわしは父上の肩に座った。見通しの良い世界が広がり、遠い夕日が、より遠くに見える気がする。
「……父上」
「なんだ」
「わしは、人間が好きじゃ」
「……そうだな」
一呼吸おいて、父上はそれだけ語ると、住処まで走りだした。風に乗って、笑い声がどこかから聞こえた、そんな気がした。
第6話:退治屋
夢を見た。
何処までも続いている暗闇。ずっと遠くには此方をにらめつける沢山の私と、死んでいる沢山の春花。幾人も、同じ顔が全員、同じ表情をして、一様に此方をにらめつける。
張り詰めた空気の中、「本当の私」は、視線から逃れるように、光に向かって走っていった。
「最悪の気分だ……」
不気味な夢になんとなく不安になり、携帯電話から春花にメールを送る。馬鹿みたいだが、春花が夢のように死んでいるのではないかと思い、一分一秒でも早く、生きている事を確認したかった。
「おはよう、昨日は寝てごめん。そういえば今日は、ヒマ?」
送った後で、まだ6時にもなっていないことに気が付く。睡眠を邪魔してしまったかもしれない。私としたことが、うかつな行動だった。
メールを10分ほど待ち、返信が来ない事を確認すると、私は、憂鬱な気分を少しでも晴らす為にカーテンと窓を開け、部屋の空気を入れ替えた。
「く……う……。はぁ~……」
悪夢のせいで早く起きすぎた。寝不足であくびが出る。
こんな気分では二度音をする気すら起きない。かといってここに座っていても、また夢を思い出しそうで気分が悪い。
私は、まだ涼しい今のうちから、簡単な道具と携帯電話だけもって、電波の入る範囲で、山へ入ることにした。そろそろきのこの生えてくる時期だろうし、集めてくるのもよさそうだ。
先日化け物共との争いがあった櫓山の山道。消しきれない瘴気がかすかに残り、普通の人間はまだ近づこうとしない。おかげさまで、手付かずの様子だ。
妖怪たちにとっても普段より生活しやすい空気になっているのか、他の地域よりも小妖怪の数が、それとなく多いような気がする。
きょろきょろと私の動向をうかがう小妖怪たちの直ぐ近くに、まだ幼菌だが立派なのヌメリスギタケが群生していることに気が付いた私は、そこらの小妖怪どもに命令した。
「おい、お前たち、お前らの直ぐ上にあるヌメリスギタケ、こちらに取ってきてくれ」
「へ、へい、鬼断ちの旦那……」
そそくさとそれらを摘むと、私の手元まで運んできた。
「ありがとう、ふぅん、じゃぁお前は後回しにしておくよ」
「へへ、ありがとごぜぇます」
晴地には明かしていないが、どうやら私は定期的に妖力を吸収しなければならない体らしく、理由をつけて妖怪の生活区域に来ては、力をかき集めていた。
全く吸わないでいると、幼い頃のように、体が上手く動かせなくなるのだ。
シモシメジやチャナメなどをちまちまと集めながら先へ進んでいると、やがて、以前あの禍々しいクチガネと戦った神社へたどり着いた。
境内は、相変わらずひどい有様のままだ。そして、流石にここばかりはなかなかに瘴気が濃く、生身の私がやすやすと歩けるような状態ではなかった。
こんなとき、結界みたいなものを張れるなり、晴地のように体に霊力の膜を纏えればよいのだが。
私は境内を迂回するように大回りに進路を取るため、人があまり脚を踏み入れてないような、獣道を歩くことになってしまった。暇つぶしのつもりだったのに、思った以上に骨が折れる。ひとまず今の所、電波は入っているようだから問題ないか。
ふと、何処かしらから人の声が聞こえてくるような気がした。息を殺し、耳を済ませる。その時だった。
「うおおぉぉぉぉぉおおっっ!」
ズシャァ、と派手な音を立て、隈取をした、白髪の男が突っ込んでくる。それと共に、中級妖怪らしきものたちが、大勢追いかけてきた。
「……は?」
「うぉっ……なんでこんなところに人が……とにかく逃げるぞお前!」
「ちょ、ちょっと……」
手を引かれるまま走り出す。確かに私があの数を相手に出来るわけもなく、逃げるのは得策と言えよう。だが、何故こんな状態になっているのか、まずはこの男に問いただす必要性がありそうだ。
そんなことを考えていると、隈取男の方から話しかけてきた。
「……あれ、お前うちの学校の生徒じゃねぇ?なんでこんな所に……っていうかお前、後ろのあいつら、もしかして見えてるわけ?」
よほどの体力があるのか、息も切らしていない。
「……両方ともイエス。……キミこそこんなところで何してたわけ」
「いやぁそれがな……」
彼は要領を得ない口ぶりで、自分と、今自分たちが置かれている状況について語りだした。
彼の名前は次郎。どうやら隣のクラスの生徒らしいが、私は良く知らない。何でも、彼の家、鳶巣家の修行のため、今日は妖怪退治を実際にやらされていたらしいのだが、
うっかり妖怪たちが集会しているところに手を出してしまったらしい。
「……さすがに馬鹿じゃないの……」
「はははっ……そう言ってくれるなってー」
妖怪らを撒いた私たちは、大きな樹の陰で身を潜めていた。ご神木として扱われているこの樹の効力だろうか、
普通に話をしていても付近を通る妖怪は此方を見向きもせず、まるでそこに誰も居ないかのように行動している。
「しかし神木っつうのはすげぇなー……誰一人こっちに気が付かねぇ」
同じことをこいつも考えていたようだ。思考が同じだったことが、少しだけ恥ずかしい。
「あーーー!」
ぼんやりと遠方の妖怪を見つめていると、急に次郎が叫んだ。
「え、何」
「わかった!何処かで見たと思ったんだよお前。確か、妖怪っぽい子と、中庭でイチャイチャしてた奴だろ!」
ツキヒメの事だろう。ひどい言われようだ。別に私は、イチャイチャしていたつもりは無い。
「……あぁ、見てたの。何、覗きが趣味なんだ」
「趣味ではねぇよ。あー……やっぱり妖怪なんだあの子。お前が見えるのもそのせいって訳ね」
爽快な表情をしながら、一人で納得してみせる次郎。
「そのせい、っていうのは、どういう意味さ?」
「は?いやだから、お前が色々と見えるのはさ、あの子と縁が結ばれているからだろ?」
「いやごめん、キミはいろいろと知識があるんだろうけど、私は知らないから解りません。悪いんだけど、縁が結ばれるとどうなるのかって所から教えてはいただけませんでしょーか」
すこしカチンときた私は、必要以上に下手に出ているような仕草で、わざとらしく聞き返した。
私は、私の力の所以を知らない。てっきり、生まれつき霊力のあるなしが決まっているものと解釈していたが、そうではなかったのだろうか。
「……逆に何で知らずに力を持ってるのか知りたいくらいだけけど……まぁいいや、えーとな、まず、人間は、自分だけでは霊力を行使することが出来ないんだ」
彼は一瞬呆気に取られたような表情をしたが、直ぐにもとの表情に戻り、私の嫌味も意に介さないようにペースを崩さず説明を始めた。
「それは霊力を持っていないって意味?」
「いや、確かに殆ど持っていない奴も居るけど、基本的には力自体はあるらしいぞ。使えないだけで、多かれ少なかれ、体の中に溜まっているってこと」
「へぇ……」
「霊や妖怪を見るって行為は、視覚に霊力を込めてるっつーわけ」
「夜目を効かせるのと同じか」
私ももっと上手く使えたなら、晴地と同じように夜目が効く様になるのだろうか。
「そうそう……お前夜目も効くのか、便利だなー……」
「いや、私は使えない、弟が使える」
「へー、弟も使えるんか。使える力が違うんなら、それぞれ縁を結んでる妖怪は別だな。最初に言った縁を結ぶって行為だけどな、これは妖怪側から一方的に行われるんだ」
「妖怪らしいね」
妖怪が勝手なのは、こういうときも変わらないようだ。
「そう、なのかね。……でな、どういうことかっつーと、すごく簡単な話で、俺らに妖怪が興味を持つっていう行為が、縁を結ぶってことになるんだ。で……」
「あぁ、解った。なるほど。それでだったんだ」
合点がいった。最近春花が妖怪や幽霊を見えるようになったのは、おそらくツキヒメが春花に対して興味を持ったからということだろう。
「……ふぅ、で、な、人間が使えるようになる技術なんだが、それは、縁を結んだ妖怪が使うことが出来る物に限られる。且つ、人間が一度に持つことの出来る縁は、基本一つだ」
私に話を中断されたためか、次郎はすこしゲンナリした様子で説明を再開した。春花があの結界を使えるのは、ツキヒメがそれを使えるから、というわけだ。
「なるほどね。ちょうど最近参考になりそうな出来事があったからよくわかったよ」
「ほぉ、何があったん?」
「最近、見えるようになった奴がいるんだよ」
別に誰だとか、恋人だとか言う必要は無いだろう。
「へぇ……そうか」
「だけど、今の説明だと、私の力の所以が解らない」
「何も心当たりがねぇっつーこと?ふーん……」
次郎は察しよく、私の疑問を言い当てた。
「まぁ確かに例外はあるんだよ。ごく珍しいらしいけど、たとえば俺。俺はどの妖怪との縁も持っていない……はず。鳶巣家は、代々神様の加護をうけていて、そのために生まれつき霊力を行使できる」
「はは、嘘くさ……」
神の存在など、妖怪どもからすら耳にしたことがない。私の知る限り、本気で神をあがめ信奉しているのは、ほんの一握りの人間くらいだ。
「……キミのうちはそれで、何で神の加護を受けてるのさ」
「それがもっと嘘臭いんだがな、俺の先祖が、この世界を守るために神託を受けたんだと」
「うわぁ……まさかそれ信じてる?」
身震いするほどのうそ臭さに、肩をすくめて聞き返す。私なら絶対に信じない。
「……まさか。ふふっ」
少しの間のあと、だらしない表情で次郎は笑った。木々の間から太陽が見える。そろそろ昼ごろだろうか。
「しまったメール!」
ごたごたで忘れてしまっていた。そういえば朝、春花にメールを送信したんだった。
携帯電話は、電波の強度をあらわすアンテナマークが圏外という表示に変わり、通信することが出来ない状態であることを示していた。いつからこの状態だったのだろうか。
「この辺は圏外だぞ」
携帯を覗き込む私に、次郎が話しかけてきた。
「もう見たよ……」
「あぁ、なんだ用事があるのか。それならモタモタしてらんねーな……」
次郎は「よっ」と勢い良く立ち上がり、衣服に付着した土を払い落としている。
「ほらお前も立てって、いくぞ」
次郎は私の手を引き、私を強制的に起立させた。
「……行くって、まだ全然妖怪たちが減っていないけど」
「まぁ……何とかなるんじゃないか」
他人事のように言い放つと、懐から紙切れを1枚取り出すと、得意げにふふんと鼻で笑った。
「こういうときは、おとりを使うのがセオリーだよな」
紙切れに自分の名前を書くと、念を込め、解き放った。ふよふよとしばらくその場で浮かんでいたそれは、次郎が方角を指示すると、一目散に飛んでいく。
周りをうろうろしていた妖怪たちは、紙切れを追い、辺りから居なくなった。
「よし!行くぞ雪枝!」
「へ?ちょ、ちょっとまって!」
唐突に走り出した次郎を追う。本当にこいつは大丈夫なんだろうか。
「こんなんで本当に抜けられる!?」
「大丈夫だって!何とかなる、何とかなる!」
次郎の詰めの甘さに不安がぬぐえないまま、私達は、森の中を無我夢中で走り続けた。
◆◇◆
「ハァ……だめだったね」
「返す言葉もございません」
あれから直ぐに別の妖怪たちの集団に見つかった私達は、命からがら何とか逃げ出し、物陰に身を潜めていた。
「相談もなしにいきなり始めるから……私なら絶っ対、あんな案を了承しなかったけどね!」
「だってよー、普段はあれで逃げられてたからさー」
先ほどの言葉とは裏腹に、反省よりも言い訳をする次郎。不思議と怒りは沸かないが、なんと言うか、呆れてしまい、体の力が抜けてゆく。
「へぇ、それで、普段はどのくらいの敵を相手にしてたの?」
「……まぁ、1、2匹の中級くらい?」
「そもそも、逃げるような量じゃないよね」
「へい」
先ほどの神木の周りほどの量ではないが、相変わらず辺りを、憤慨した妖怪たちがうろうろしていた。数は減ったものの、神木の力が無い分、見つかってしまうリスクがある。
私達は、出来るだけその場から動かないよう、じっとしていた。
「つぅかお前、なんかやたら恨み買ってなかったか?」
「……きみには関係ないよ。事情があるんだ。それにあまり首を突っ込まないほうが良い」
「ふぅん、いいけど、あまりそういうの、一人で抱え込むもんじゃないぞ」
大人びた笑顔で、次郎が微笑む。私の心が少し、痛んだ気がした。
恨みというのは、私がむやみやたらと妖怪たちの霊力吸収をし続けていた事についてだろう。自らが原因となることで、人を悩ます事は、あまり気持ちのよいものではなかった。
心の重みを解消する為に打ち明けるにしても、こいつは世話焼きそうだし、こいつにとって、良いことは無いだろう。むやみに他人を、自分の事情に巻き込むべきではない。
「はぁ、どうしようかな」
「そうだなぁ、どうしようかなぁ」
二人でしばしぼんやりとした。このまま待っていれば、さらに数が減っていくだろう。だが、もしかしたら、春花が私を心配し、探しているかもしれない。
晴地にも、ツキヒメにも相談せず、一人で何とかしようとしているかもしれない。そうなったら、彼女の身が危険だ。考えすぎであることは百も承知だが、それでも、私は春花が心配で仕方なかった。
「わりぃなぁ、迷惑かけちまって」
しばらく黙り込んでいると、不意に、次郎が言葉を発した。
「俺がちゃんとしてりゃ、こんなことにはならなかったよな」
どうやら次郎は、責任を感じ、一人で落ち込んでいるようだ。暗い顔をして、ただそれでも笑顔を保ちながら、遠くの妖怪を見つめている。
「大丈夫だよ、私はなれているし」
社交辞令的に、いつもの一言をつぶやく。何度これを言っただろう。以前晴地には、もっとなにかあるだろうと言われたが、今私にはこれ以上に、適切な言葉が見つからなかった。
ははは、とだけ笑った次郎は、相変わらず申し訳なさそうな顔をしていた。一度打ちのめされると、しばらくは立ち直れない性質なのかもしれない。
おそらく、私一人で切り抜けることは出来なくも無いだろう。もしくは私が犠牲になれば、こいつは助かるとも思う。
だが私は、ただ放っておくことも出来なければ、次郎のために命をなげうつことは出来なかった。私は、私が居なくなった後の、晴地と春花が心配だった。
あまりの妖怪たちの多さに妙案も浮かばずどうすることも出来ないまま、ただ時間が過ぎていく。幸いなことに、徐々にだが、妖怪たちが減っていく。
辺り一面がオレンジ色に染まり、冷たい風が吹き初めるころには、元のおよそ半数くらいまで減少した。電波を受信することが出来ない無能の携帯電話を見ると、すでに18時を過ぎているようだった。
そろそろ動かなければ、暗くなり、本当にどうすることも出来なくなる。
「鳶巣くん」
「……ん」
相変わらず暗い気をまとい続ける彼は、力なく此方を向いた。
「さっきの護符みたいなの、まだあるよね。そろそろ行動を起こすよ」
「……あぁ、あるけど、もう無茶は出来ないぞ。もう少し待ったほうがよくないか」
すっかり自信が無い様子で、再度首を垂れ、ため息をつく次郎。失意の中、状況を正確に把握することすら出来ていそうに無い。
「これ以上モタモタしたくないんだよ、私は。それにそろそろ、辺りが暗くなって何も見えなくなる。まさか、明かりをつけて移動するわけにも行かないし」
光を放ちながら移動していては、「ここに居るぞ」と宣言しているようなものだ。私の言葉で、あと20分もすれば沈んでしまいそうな太陽に気が付いた次郎は、はっとして立ち上がる。
「悪い、もうこんな時間か」
「まぁどうも出来なかったし、仕方ないんじゃない」
「さっきと同じ、ほぼ無策か?」
「そうだね。事前に私が知っている以外は。……ん、ああいや、ちょっとまって」
気が付くと、直ぐ傍を顔なじみの妖怪が歩いていた。こいつには以前貸しがある。一役買っていただくとするか。私は小妖怪をすばやく引き寄せ、声を出せないように口をふさいだ。
「やぁ、久しぶり。こんなところで奇遇だね。誰かを探してた?」
私に捕獲されあわてていた小妖怪だったが、自分を捕まえているのが私だと知ると、諦めたようにだらりと力を抜き、おとなしくなった。
「もしやとおもったが、白髪の人間ちゅうのはやはりおまえさんだったか……」
「え、もしかして心配してくれてた?」
どうやら次郎の事は広く広まってしまったようで、こいつもこの辺りの親玉から、「白髪の人間」を探すよう言われていたようだ。特徴が私と同じだったため、なんとか逃がそうと探していたのだとか。
「ぶふっ……ははは、そんな、私がそんなことするわけ無いじゃないか。こいつだよ、こいつ」
「はははなるほど、姑息な雪枝様がそんな大事を起こすわけがないですものな」
「……ふぅん」
気に入らなかったが、手助けを頼んだ手前罵倒するわけにもいかず、私は言葉を飲み込んだ。
「はは……まぁ仰せつかりました。よいでしょう、陽動程度、私に任せておきなされ」
「たすかります!」
次郎が頭を下げる。妖怪は、気にしていないといったように、次郎の頭を二、三回軽くたたくと、辺りの妖怪たちの方へ駆けていった。
「じゃぁ鳶巣さん、さっきの護符、ちょっと離れたところまで飛ばして」
「上手くいくかな」
「まぁ、いかなきゃ死ぬだけさ」
「うひぃ~……」
おとりを遠くに配置し、小妖怪の陽動で離れたおとりの場所に妖怪を集める。あとは走り抜けるだけ。先ほどと大して変わらないが、幾分マシだろう。
「じゃぁいこうか」
「おう……!」
◆◇◆
途中で数匹の妖怪に出会ったものの、私の霊力吸収と、次郎の術で何とか切り抜けることが出来た。
次郎は、私の動きに綺麗にタイミングを合わせ、二人で申し合わせていたかのように華麗に技を決めていた。晴地やツキヒメとは違う心地よいチームプレーに、私は大変関心したのだった。
また、心配していた春花だが、どうやら今日は、ツキヒメと二人で出かけていたらしい。私の携帯には、ツキヒメと遊ぶ旨の連絡と、何件か写真が送信されてきていただけだった。
「ひゃー……なんとかなったなー。助かった、あんがとな」
「いや……むしろ鳶巣さんのおかげだと思うけど……。良くあんな綺麗に技を決めるね」
「あぁ、うちはチームプレーが基本だからな。とはいえ、何もしらないお前に合わせるのは、なかなか肝が冷えたよ……」
たははと笑ってみせる次郎。チームプレーが基本という割りに、何故こいつは一人で居たのだろう。家で居場所が無いとは言っていたが、やはり協力してくれる人間も居ないのだろうか。
「あー……、そう、あとさ、いまさらなんだけど、そのトビスサンっての、やめね?」
「えっ……じゃぁどう呼べばいいのさ」
「まぁ、そうだな、別に次郎って、呼び捨てでいいぜ。はは……」
どこか寂しそうに微笑む次郎。私は、その表情の裏に何があるのかは、わからなかった。
「……うん、わかった。今後会うかは知らないけど、これからはそう呼ぶ」
「おう!よろしくな雪枝!」
「い……った」
そういうと次郎は、私の肩をバシッとたたいた。長身から振り下ろされる手のひらは、わたしの全身を揺らし、なかなかの痛みを伝えてきた。
「あっ……すまん、力入れすぎたわ」
「いや、いいけどさ……」
いつの間にか辺りは暗くなっていた。月明かりと街灯だけが、私達の行く道を照らし出す。
「今日は月が明るいね……」
「はぁ?お前なに言ってんだ?今日は新月だぞ」
次郎に指摘され月を探すと、ほんの申し訳程度に、細月が光っていた。だが、明かりは明らかに明るい。まるで満月の元を歩いているかのようだ。
「えぇ……うそ、今、明るいよね?」
「んな馬鹿な、街灯とお前の携帯以外、真っ暗闇だぞ」
次郎はそういうものの、私の視界は相変わらずクリアだった。考えても見れば、満月といえど、ここまで明るくはならないはず。これは、まさか。
「お前、やっぱり夜目効くんだろ」
「いや、使えないはずだよ、でも今、確かに、これは夜目が効いているんだと思う」
「……もしかして、やっぱりお前、俺と同じなんじゃないか。使えることの出来る技が急に増えるなんて、妖怪との縁とは考えづらい」
そうなんだろうか。だとすると、晴地はともかく、私の親はどうなるんだろう。霊力が行使できるそぶりなぞ、見せられたことが無い。
「……私の親は、そんなこと言ってなかったよ」
「わかんねぇけど、ずっと昔の世代は、俺んちみたいだったんじゃねぇの。それで、お前の世代で力が再発現した、とかよ……」
妖怪の縁にしても、神様うんぬんの話にしても、私には心当たりが無い。だが、後者に関しては、確かに、いつの間にか忘れ去られていた可能性も無くはない。
「だとすると、私も、世界を守るための使命とか、あるんだろうか。……いや、誰も私がそんなことするなんて、思ってないか」
「……じゃぁ、俺とお前は、同じだな」
次郎は私の肩を、今度はやさしくぽんとたたくと、満足げな、それで居て悲しそうな笑顔で微笑んだ。常に抜けない、次郎のどこか寂しそうな雰囲気が、私の心を脅かすようだった。
「じゃ、また学校でな」
そういうと次郎は、何かを振り切るように走り去ってしまった。
第7話:伝説の大蛇
「……ねぇ、次郎くん」
「……のう、次郎よ……」
「……で、こいつそれでも無愛想でよー、周りの子らたぶん引いちまって、」
「……次郎、とりあえずあそこらに居る外野、何あれ」
あれから、次郎は何かと私に関わってくるようになり、自然とお昼も一緒に食べるようになっていた。
春花がどう思っているのか知らないが、ツキヒメだけでも騒がしかったのに、春花との時間を邪魔されるようで、素直に喜べない。
その上今日は、次郎がいつものとりまきを連れてきたものだから、私の気分はより一層悪かった。禍々しい瘴気でも放っているような女子集団が近くから此方を監視しているのだ、落ちついていられるはずも無い。
「あぁ~……ハハ……すまん!ついにここで食ってんの見つかっちまった」
ぱん、と、手を合わせて、此方に向かって頭を下げる次郎。その姿に、心なしか取り巻きの女子集団の周りの空気がよどんだ気がする。
「とりあえず、このままだと私達、何か勘違いされそうで怖いから、なにか釈明してくれないかなぁ……。ね?」
私と春花が恋人になったことは、ここしばらくの間に、すでに広く校内に知られることとなった。
自分で言うのもなんだが、私も人気が無いわけではなかったため、すでに女子内での春花の立場は危うい立ち位置に居るのだ。
その上女子らに絶大な人気を誇る次郎と、毎度ランチを共にしているとなっては、もはや幸せな高校生活など送れなくなるだろう。
「ん~、大丈夫だろ?」
「い、いやいや、お前にはあそこから漂う禍々しいエネルギーがわからんのか……?」
ぶるぶると身震いし、ツキヒメが真顔で次郎をにらめつける。次郎はというと、相変わらずのんきな面構えで、気の抜けたような返事をしている。これはもう、こいつを生贄にささげるしかないだろう。
「……次郎、ちょっと」
私は次郎の襟を引くと、自らの顔に近づけ、誰にも聞こえないよう細心の注意を払いながら、とても小さな声で次郎に耳打ちした。
「霊力空にされたくなかったら、今すぐあっちで飯食ってきてくれない」
「こ……こえー……。わかった、オーケー、離せ雪枝」
私が手を離すと、次郎は手早く荷物をまとめ、女子集団の方向へ向かってゆく。とぼとぼと歩いてゆくその後姿に、寂しげな空気を感じる。
私含む3人は、次郎が大きな集団に飲み込まれて行く様を、ハラハラとした心持ちで見守っていた。
「おお……生贄が……」
「生贄って、アハハ、笑っちゃいけないけど。……はー……、次郎くん大丈夫かなー?」
「まぁ大丈夫でしょ、あいつは普段からあんな環境だし」
女子達の監視の目が弱まり、なんとなく穏やかな空気が戻り始める。そう、せめてこのくらいの空気は保たれていてほしい。
「おお、上手く混ざっておる、やるのう次郎……」
次郎は社交力の塊のような男だ。私見だが、次郎がまともに話が出来ない相手というのは存在しない。どんな相手にでも怯まず話しかけるし、また相手の緊張をほぐすのも極めて上手だった。
「心配無用、って感じだね。それでも、ちょっとかわいそうではあるけど」
先ほどまで張り詰めていた空気はすでに何処にも無く、中庭には、普段どおりの穏やかさが戻ったように思えた。
「あ、それでさ、今度ツキヒメちゃんの家に行く話だけど、雪枝くんは都合つきそう?」
どうも春花は、ツキヒメの住む里へ行く約束をしたらしい。妖怪の里に興味があるわけではなかったが、春花をツキヒメにとられる嫉妬のようなものと、
危険に思う場所へ一人で行かせるのが恐ろしいといった気持ちから、私は同伴することにした。
「まぁ、私はいつもヒマだし、良いよ、ついていく」
「よーし、ではわしが腕によりをかけて、二人分のご馳走を準備してやろう」
「もしかして料理が得意とか?それなら、ツキヒメちゃんもお弁当作ってきたら良いのにー」
春花とツキヒメはとても楽しそうに、二人で盛り上がっている。しばらくその様を眺めていると、なじみのある声がどこかから聞こえた。
「ほほほ……先ほどの話、わしも同行するがよろしいかな?」
ウワサガリが、すぅと空間に姿を現した。餌のにおいを嗅ぎつけたか。
「へぇ、何かあるんだ」
「流石に雪枝様は勘が良いですな。ほっほっほ……」
楽しそうなウワサガリに、私は冷たい視線を送る。楽しい時間を邪魔されたのと、何かが起こると知っていて、春花が危険だと知っていて、それでも楽しそうなその声が癪に障る。
「……春花さん、さっきの話は無しにしよう。その日そこに行くのは止めだ」
以前のような危険な目にはあわせない。私は春花のためには努力や諦めを惜しまない。
「おやおや、怖気づきましたか雪枝」
出会ってから一度も見たことも無いような、冷ややかな声を上げるウワサガリ。
「悪いけど、お前の食事より大切なものがあるんだよ」
「放っておいても、被害は拡大するだけかと思いますが?今回のモノは大物だ。そこの小娘も喰われますぞ」
「は?」
ツキヒメの表情が硬直する。何か思い当たる事があるような、そんな怯えた表情だった。こわばった顔で、唇だけがかすかに振動している。
だが私にとって春花とツキヒメの大切さはイコールではない。脅されても私の意見は変わる事などありえなかった。
「ふぅん、それで?妖怪が妖怪に食われるから何だって?」
「ちょっと、雪枝くん……」
呆然としているツキヒメを支えながら、春花が細々と声をはさむ。だが私とウワサガリは止まらなかった。
「ほ。ふぬけたもんですな、あれほど楽しそうに殺しまわっていたあなた様が」
「別に私は殺しを楽しむ為にやっていたわけではないよ。今までで一度もね」
強い声で抗議する。殺しが好きだとは、私は考えていない。
「ほう、そうですか。だが楽しかったのは事実でしょう。もう一度楽しみませんか」
下賎な声で私をそそのかそうとする。確かに、私がおかしな状態になるのは事実。表現できないような快感に支配されるのも事実。だが、私は「そうしたい」わけではない。
「は、勝手にすれば。とにかく私はかかわらない。妖怪を助ける気もない!」
「雪枝くん!」
急に大きな声を出した春花に肩を掴まれ、ぐいと体を引かれた。
「やっぱりおかしいよ、何で妖怪にはそんなに冷たいの?ツキヒメちゃんが殺されちゃうって言ってるんだよ。友達が死ぬんだよ。何か思わないの?何で人間以外は心配しないの?」
そこまで言うと、春花は首を垂れて、急に涙声になった。
「何で、ツキヒメちゃんを受け入れてあげないの……」
心が揺さぶられる。感情が高まってゆく。ああ私は、この娘には弱いんだ。だが私はそれでも、だからこそ、この子を危険な場所へ遣りたくない。
「……ツキヒメ、その反応さ、何か知ってるんでしょ。そんな怖がり方、普通話を聴いただけじゃしないよね。キミほどの自信家ならば、余程じゃないと」
ツキヒメに目線を移す。ツキヒメは何も語らないが、視線をそらす彼女を見て私は確信した。こいつは何かを知っている。そしてそれは恐らく、私の手には負えないものだ。
「……やっぱり、行くわけにはいかないね」
「私は行くよ」
相変わらず目に涙を浮かべてはいるが、声を荒げたときとはまた違う強い声だ。覚悟した無謀な声。そう感じた。
「前に、危険なことはしないって、そう言った。お願いだから、危険なことは……」
「それとこれとは、別の話だよ」
あまりの気迫に、その場に居る皆が息を飲んだ気さえした。もう、春花の意思は変化しないだろう。
「……分かった。私も行く」
「別に、雪枝くんは来てくれなくて良いよ」
つんと、私を引き離す。普段は穏やかな春花も、今はまるで氷の女王のようだ。
「ちょっとちょっと、どーしちゃったの、俺の居ない間に、ねぇ?」
いつの間にか、次郎が戻ってきていた。気が付くと取り巻きの女子達が居なくなっている。
春花は私に背を向けたまま次郎に事情を説明した。此方にちらちらと視線を向けながら聴いている次郎の表情が、徐々に冷静な表情に変わってゆく。
「……俺も行く」
ひとしきり説明が終わると、一度は次郎の出現で緩みかけた空気も、重々しく戻っていた。
「……じゃぁ、みんなで助けに行こう」
相変わらず不機嫌な春花だったが、次郎が私のフォローをしてくれたおかげで、今はいくらか機嫌が戻っている。次郎に不満をぶつけたことも、一つの要因かもしれない。
「ほほほ……話はまとまったようですな」
「ま、まて!」
沈黙を守っていたツキヒメが、ここにきて声を上げた。なだれ込む恐怖で精神的に限界が来ているのか、それとも私達が勝手に話を進めたからか、切羽詰ったような声で話す。
「無理じゃ。諦めてなどおらんかったんじゃ、奴等は。この先の結末は分かっている。すでに占いの通りに事が運んでいる。外れたことなど無い、我が師匠の占いの通りじゃ……」
全員が何か言いたげにしていたが、ツキヒメのあまりの動揺に口をつぐんだままだった。
「人間が集まったところで、何も変わらん」
そこまで言うと、目の前のツキヒメの体は死んだように膝から前のめりに崩れ落ちた。と同時に、直ぐ後ろにいつもの耳と尻尾を生やしたツキヒメが現れた。
「たのしかった」
声が聞こえ、突風が辺りを突き抜けた。
私達が目を開けると、ツキヒメとウワサガリがどこかへと消え、私達人間だけが残されていた。
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「間に合うよね……」
「大丈夫ですよ、きっと大丈夫」
「うんうん、こいつの言うとおりだ。問題ないさ」
不安がる春花に、やさしく声をかける晴地と次郎。本来こういうのは、恋人である私の役目なのだろうが、先日の口論から私は、上手く春花と話せないでいた。
「おれはあんまりあそこに行きたくないんだけどなぁ~」
「私もこの子を危険にさらしたくない。出来るのはあんたがたを運ぶところまでだ」
ツキヒメの居る里までは、大入道の親子が運んでくれることになった。ウワサガリが語ったあの大山脈の先の里。私達の足では到底たどり着けないが、こいつ等の足なら「すぐそこ」だ。
見る見るうちに、暗雲が眼前に近づいてくる。
「兄さん。この靄は、たぶん……」
「うん、恐らくあの櫓山のときの物と同一だと思う」
子入道が身震いした。全身に動物の死体でもまとっているような、重く、よどんだ空気が辺りを包み込む。晴地も同じように感じているんだろう。咄嗟の出来事に備えているのか、彼はすでに体に霊力をまとわせていた。
春花と次郎は、何かに守られるように、淡い光に包まれていた。誰も言及しないところを見ると、私にしか見えていないのかもしれない。
「もうすぐだ。あんがたを下ろしたら、私らはすぐ逃げるからね」
全員が息を呑む、黒い半球が見える。ツキヒメと同系の結界。もしかすると、ツキヒメ本人のものだろうか。半球を取り囲むように、大勢の妖怪が集まっていた。今回の「敵」だ。
おおよそ二千ほど居るだろうか。おびただしい量の妖怪だった。近づく私達を、すでに見据えている。まだ、敵か味方か判断出来かねているようだ。
私達は、敵の眼前に降り立つと、まずはおとなしく、身を寄せ合った。
「死ぬんじゃねぇぞ」
子入道は一言漏らすと、あっという間に走り去った。地響きが遠ざかるにつれ、辺りの視線が私たちに集まってゆく。
これから行動を開始しようとしたところだった。突然、辺りの暗雲が一点に集まると、紫色の雷が、黒い半球の真ん中に落下した。
「きゃっ!」
「うおっ!」
春花と次郎がしりもちをつく。多きな揺れと轟音が辺りに轟き、それと同時に大きな結界が砕け散った。先ほどまで私たちに注目していた妖怪たちは、一斉に里へと進行を始める。
「いけない!」
まず行動をし起こしたのは晴地だった。中心部まで開けた道の先で、一つに固まる、恐らくツキヒメの仲間であろう妖怪たちに向かって、誰よりも早く駆けていった。
「おい!ちょっとまて!おいてくな!」
次郎が春花を立たせつつ叫んだ。だが、すでに晴地は、声の届かない距離まで離れていた。
「仕方ないさ。とりあえず、私達自身が死なないよう、慎重に行こう」
と言ったものの、春花は直接の戦力にはならないし、次郎もこの間の様子からすると、大して期待は出来ない。私は二人をかばうように、先陣を切って進むことにした。
だが、事は上手く進んだりはしなかった。
私達を敵と認識し、向かってきた一匹の妖怪の霊力を吸い上げ、倒すと、それを目にした妖怪たちが、次々と私たちに飛び掛ってくる。
「まぁ、こうなるわな!」
次郎は素早く武器を取り出すと、横一線になぎ払った。派手な叫び声と共に、妖怪は胴体で真っ二つになり消えた。続いて二度、三度と飛び掛ってきたが、同じようにして次郎によって祓われた。
次郎はどうやら、私が考えていたよりもずっと、戦うことが出来るようだ。
全く歯が立たないと知ったからか、妖怪たちは、私達の様子をじっと見つめるだけとなった。ただ私達も、いつまた向かってくるかも分からない妖怪たちに注意しないわけにも行かず、
じりじりと、ゆっくりと移動する羽目になり、目標地点到達にはかなりの時間を要しそうだ。
「こんなじゃ、間に合わないよ……」
不安そうに春花がつぶやく。
「だけどどうしようもねぇ……」
完全なる力不足だった。誰しもを失わず、この状況を回避することなど、容易ではない。そもそも、本来は晴地と共に進む予定だったのだ。
いまさら晴地をせめても仕方が無いが、目先の事だけにとらわれず、私達が窮するであろうことくらい、考えて欲しかった。
だが、私にも考えが無くもない。
「……春花さん、あと次郎」
無言のまま、二人が振り向く。私は、私が今できる最高の方法を提示した。
「私がオトリになるから、二人で先へ急いでくれるかな」
私は、春花にこれ以上嫌われたくなかった。それに、春花に傷ついて欲しくなかった。良い所を見せたい、ツキヒメを失わせたくない。それを一度に叶える妙案だった。
春花が口を開く前に、まず発言したのは次郎だった。
「お前一人に、任せられるわけ無いだろ。まだ俺のほうがマシだ」
言うやいなや、私と春花が止める間もなく、彼は妖怪たちの中へと突入する。
「ばか、何やって……!」
「良いから行けよ!俺は死なねぇよ!」
まさによくある感動のシーンだった。いや、馬鹿には出来ない、さっきまで、私がこれをやるつもりだったんだから。こうしてみると、なんとも安っぽい演出だ。
自分が行うはずだった行動を目のあたりにしたからか、急に気持ちが冷めてくる。そして、次郎の無謀さに、なんとなく心が穏やかになった気さえする。
冷静になって見回すと、いつの間にか殆どの妖怪が居なくなっているようだ。見かけ上多く見えなくも無いが、つい数分前と比べると雲泥の差だ。これなら、何とかなるのかもしれない。
「……はは、残していくわけないだろ。……春花さん、取りあえずそこで結界張ってて」
「へ?……ちょっと!」
私は春花の肩をトンと押すと、次郎に背中を合わせるように、妖怪たちの中に飛び込んだ。
「は?おい、せっかく俺が犠牲になるって言ってるんだから、早く行けよ!」
「一人だけかっこいい演出はさせないよ」
急に、妖怪たちから伸びる、青白い帯が見えるようになった。……これを掴めば、こいつ等の力を奪えるのではないだろうか。
私は手を伸ばし、その一本を恐る恐る掴む。間違いない。これは、霊力そのものだ。一思いに力を吸い上げると、少しばかり遠くの妖怪が、天日干しされたように干からびた。
「……おまえ、何かやったか?」
「霊力掴んで吸った」
「…………は?」
次郎は真剣な顔のまま、少しだけ口元を緩めて、呆れたような声を出した。
「全部終わったら、後で説明する」
私は、そこらに浮遊している霊力の帯をまとめて掴むと、いつもどおり吸い上げた。見る見るうちに、過半数の妖怪がしなびていく。倒れていく仲間を見て、残った半数が、あわてて逃げ出していった。
残った半数も、次郎によって胴体と頭に切り分けられ、霞のように消えていった。窮地はひとまず脱することが出来たようだ。
「じゃぁ、急ごう!」
結界も張らずに待っていた春花が大声を上げた。遠くでは、戦いが巻き起こっているようだ。
きっとあの中に、次郎やツキヒメ、そしてあの大妖怪……クニモリが居るんだろう。私達は、私たちができる限りの事をする。今一度声をそろえて意思を確認すると、一目散に走り出した。
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怒号、うめき声、巻き上がる血しぶき、重なり合う死体。そこには、まさに、地獄絵図が広がっていた。
春花や次郎には、少々刺激が強かったのか、二人とも口から胃液を垂らし、落ち着かない様子で視線を揺らしていた。
「これで、こんな状態で、見つかるのかよ。……本当に生きてるのかよ……」
嗚咽を漏らすような声で、次郎がつぶやいた。春花は、小刻みに震えたまま、私の腕を強く掴んでいる。
二人とも、とても戦える状態ではなかった。現状が想像と大きく違ったんだろうということは、私にも分かった。私はというと、似たような惨状を幼い頃から見続けてきていたため、いまさら大した感動などは無かった。
瘴気が先ほどよりもずっと濃い。この土地は恐らくこのまま、祟り地になるのだろう。
誰かが祓うには、あまりにも濃すぎる瘴気だった。春花と次郎がこの中でも平気なのは、恐らくこの不思議な光の衣のおかげだろう。
のんきに構えていると、見逃した中級ほどと思われる妖怪が、私の首めがけて刀を振るってきた。
「しまっ……た」
ガキン、と、大きな音が響いた。閉じていた目を開くと、そこには古ぼけた鎧と、黄金色にたなびく毛皮があった。
クニモリだ。腕を阿修羅のようにして、全力の戦闘態勢を取っている
「油断禁物だ、鬼断ち兄」
にやり、クニモリが笑う。そして、現状を語った。
当初から予見されていたこの戦いは、もともと避ける予定のものだったようだ。始めに見た大きな結界があるうちに霊道を通って逃げ延びるつもりだったようだが、
結界のヌシ、ツキヒメの師匠に当たる妖怪が例の紫色の雷に打たれて死んだことから、残っていた妖怪たちが弔い合戦を始めたらしい。
「馬鹿者達だ」
キリリと、より一層眉間に皺を寄せたクニモリは、自らを戒めるようにこぼした。
「ツキヒメちゃんは……?」
「戦っておる。鬼断ちの弟も一緒だ。恐らくまだ無事だろう。某は鬼断ち弟に頼まれて、お前たちを探しに来た。直ぐに肩に乗れ、ゆくぞ」
私達が肩に乗ると、クニモリは辺りの妖怪どもをなぎ払いながら、一閃のように進んでいった。一瞬のうちに、戦いの中心部であろう激戦地までたどり着く。
「みんな!よかった!」
「おぬし等、なぜ……」
次々と飛び掛る妖怪をなぎ倒しながら、晴地とツキヒメが此方に寄ってきた。春花はクニモリの肩から降りるや否や、ツキヒメに抱きついて泣き出した。次郎はツキヒメの代わりに、近寄る妖怪を祓っている。
「よせ、よせ春花……分かった、わしは居なくなったりせぬ……」
春花が何かをしゃべっているのだが、ツキヒメの体に顔をうずめている為声が篭っていて聞こえない。きっと、ツキヒメだけには聞こえているだろう。
ツキヒメは春花の頭をやさしく撫でながら、私に向かって悲しそうな視線を向けた。どうしたら良いのか分からないといったところだろうか。この後、自分が死ぬことは分かっている。
だが、春花を見ていると、死にたくない、と。
「……やるだけやるよ。そのために来たわけだし」
私はいつもどおりの調子をできるだけ保つように答えた。内心私も、現状に動揺していたが、それを悟れられたくなかったのだ。
「保障はしないけど」
やるとは言ったものの、例の占いが確信的なのだとすれば、逃れようは無く、助けられる確信の無さから、私は一言付け加えた。
そもそも、私の目的は春花を、その気持ちを守ることであって、ツキヒメを守ることではなかった。ツキヒメを助ける事が出来れば、それは春花の気持ちを救うことになる。
だがそれは二次的なものであって、そもそも第一に助けたいのは、彼女の命だ。たとえツキヒメが死にそうでも、春花が少しでも危険なら、私はそちらを助けるつもりだ。
「……うむ」
すでに覚悟が出来ているのか、ツキヒメは以前のような恐怖にとらわれた表情はしなかった。事実を事実と受け止め、それを真っ向から受け止める。追い詰められた生物の顔つきだ。
私はその表情に何か破壊的な衝動を抱いたが、ぐっと気持ちを押し込め、「いつもの私」を保ち続けた。
「で、これからどうするつもり?どうしたら、占いの結果から逃れられるかな」
「取りあえずは、占いと異なる状況になっているようですぞ」
唐突に、ウワサガリが現れた。
どうやらウワサガリは、戦が始まるずっと前から、ツキヒメたちの里に潜んで居たらしい。占いの内容には私達は出てこず、攻めてくる妖怪はもっと少数……二、三匹だけだったそうだ。
祟り地になりそうな今の瘴気の張り具合も、内容には無かったことなのだとか。
「なるほど、何とかなるかも知れないんだ?」
「それは、分かりませぬ。なにせ、占いなんてものは、過程はでたらめですからな」
「なんだ、あてになんねぇのか……」
次郎が肩を落とす。とうに泣き止んでいた春花も、それを聞いて再度うつむいた。
「相手方もかなり数が減っておる。このまま、押し切れば良いのじゃろうか……」
「いや、こっちにもう体力がないなら、逃げたほうがいいと思うぜ」
退避の提案をしたのは次郎だった。強い口ぶりから、知識や経験が読み取れる。
「そうだな、背後に居る者が気がかりだ」
クニモリが大きな頭を立てに振って頷く。
「そそ、こんな雑兵みたいな奴等が一致団結してくるなら、そりゃでかい奴が裏に居るってことだ。出てこないうちに逃げちまうのが良作だと思う」
意外と深読みのできる次郎に関心しているのは、私だけではないようだ。ツキヒメと春花も、「ほぉ」とか「へぇ」とか良いながら、羨望の眼差しで次郎を見ている。正直、少し妬ましい。
「ほうほう、シツコイ大狐以外にも、頭の回る奴が居るようだな」
空から声が降り注ぐ。紫色の靄からふわりと、人型が降りてくるのが分かった。櫓山で戦った、確か名前はクチガネ。
「見事な善戦であった。は、は、は。ここからは私と、こいつの二人で遊んでやろう」
紫の靄から、もう一匹、影が降りてくる。同じように紫色の煙をまとった竜のようなものだ。
体が途中から千切れているような、どこか歪な形をした竜は、ゆっくりと辺りを見回しながら降下し、クチガネの隣で留まった。
「オロチ……か?」
クニモリがポツリとつぶやく。オロチというと、七つ首の化け物だろうか。だとすると、奴の体が千切れているように見えるのは、不完全ということだろう。
「流石、知識が、違うようで」
頭をトントンとたたいて挑発するクチガネ。だが、誰もそんな浅はかな挑発に乗る奴は居なかった。皆一様につばを飲んだ。次郎が語ったとおり、裏で手を引く黒幕が出てきたのだ。
逃げるという選択肢は、事実上消滅した。こいつ等を倒して助かるしかない。
「では、参りましょうか」
クチガネがそういうと、オロチは大きな叫び声をあげた。反応するように、相手方の雑兵がその場から逃げてゆく。その瞬間だった。
晴地とクニモリが同時に飛び上がり、クチガネ挟む形で向かいあった。申し合わせたような動きで、全力の攻撃を叩き込む。
「ぬん!」
「うおおお!」
だが、二人の攻撃は、放たれる前に無効化された。
いや、正確には、振られた拳と刃は、最後まで振られること無く、全て途中で紫色の枷に捕らえられ、止められた。
「父上!」
「晴地!」
「馬鹿が、お前達二人の対策をしていないとでも思ったか」
二人は腕と脚を拘束され、地面にたたきつけられた。次郎が駆け寄って何かをしようとしていたが、強い力で押し返され、触れることすら出来ないようだった。
「……!」
春花は無言でツキヒメの手を引くと、結界を展開して黒い球体の中に閉じこもった。だがそれが無謀であることは、誰の目にも明らかだった。
つい先ほど、同様の、もっと巨大で強靭そうな結界が、雷によって破られていたからだ。
「ゆけ、オロチ」
クチガネの指示で静かに結界の上に移動すると、おろちは電気のようなものをまとい始めた。あの雷が放たれるに違いないだろう。すると、中の二人が危ない。
私はオロチの霊力帯を掴み、力を搾取し始めた。思惑通り、オロチの纏う電撃が少しずつ少なくなってゆく。
「ん?なんだそれは。邪魔、だ」
すっとクチガネが腕を振り下ろすと、私の手が振り払われた。霊力帯を再び掴もうとしたが、遥か上空を舞ってしまっていて、今度はつかめそうに無い。
「ふむ……」
クチガネは、私を値踏みするように見つめてきた。やがてしばらくすると、オロチに再び指令を与えた。先ほどと同じように電気をまとい始めるオロチ。今、私に出来ることは、ない。
「春花さん!出てきて、逃げて!そこに居たら危ない!」
必死に叫ぶものの、此方の声は届いていないだろう。あの中は、外部の情報もシャットアウトしてしまう。刻一刻と、雷が放たれるそのときが迫る。徐々にオロチの纏う電撃が大きくなり、派手な音を発し始めた。
「間に合った!そら!」
突如、次郎から複数の護符が飛び出す。飛散した護符は、大きな弧を描きながら、オロチの下方……結界の直ぐ上辺りに集まり、膜を張った。
その瞬間、雷が落下した。小規模なものだったが、恐らくあの結界を破壊するには十二分であろう威力が、結界の遥か上から振り下ろされた。
轟音が辺りにとどろく、爆発による突風が、辺りのものを吹き飛ばした。
私は、何とかその場のものにしがみつき事なきを得たが、晴地、クニモリは、身動きが取れないまま吹き飛ばされ、次郎も近くの木に打ち付けられて気を失ってしまった。
「くそ!みんな!」
砂煙が徐々に晴れる。そこには、黒い球体は無かった。まさか、二人とも死んでしまったのだろうか。
「くっ……」
霧の中から、ツキヒメと春花が現れた。軽く怪我をしているものの、明らかにそこで生きている。次郎の張った護符の膜で威力が弱まったのだろうか。結界が破壊されるだけに留まり、命までは助かったようだ。
「ほうほうほう、やりおる。実に驚いた。だが、ここまでだ。本日の目的を達成しよう」
今度はクチガネ自ら降り立つと、以前も見たような刀を生成し、ツキヒメ向かって振り下ろした。
「くっ……」
最期を悟ったように、ツキヒメが目を閉じ、首をうなだれた。そして、刀はそのまま振り下ろされ──。
刃は、私の体に突き刺さった。
自分でも、何が起こったかを理解できなかった。
私は少しばかり遠くに居たはずで、クチガネの刀がツキヒメに触れるまで、一秒の間も無かったように感じた。
それなのに、私は今、ツキヒメの目の前で、クチガネに対して背を向け、ツキヒメの身代わりをしていた。驚くほどの速さで動けたのは、今の状況から想像がついた。
私の体は、まるで晴地のように、霊力をまとっていた。恐らく強化された力で、一瞬のうちに移動したんだろう。
だが私はそれよりも、私が何故ツキヒメの身代わりになろうとしたのか、私の行動自体の理解が出来なかった。妖怪の事など、死んでも良いと思っていたはずだ。助けると決めていたのは、春花だけだったはずだ。
だが今私は、間違いなく、「ツキヒメのために」身を、呈していた。
「ふん、まぁよいか」
クチガネがパチンと指を鳴らす。同時に、私の腕と脚に、晴地、クニモリと同じような枷がはめられた。それと同時に、私の体から、力が抜けてゆく。霊力が、抜けてゆく。
「雪枝ぃ!」
「雪枝くん!」
二人が、私の体を掴んで叫ぶ。体に体温が伝わってくる。体温が失われつつあった私にとって、それらはとても、とても熱く感じられた。
「邪魔、だ」
再びクチガネが腕を振り下ろす。二人は軽々と吹き飛ばされ、遠くでへたり込んだ。
私が覚えているのはそこまでだった。
ただ最期まで、二人が叫び続けていたことだけは、記憶している。
第8話:転生
古めかしく低い、見慣れた天井がある。
嫌味なくらいに静かだ。ええと、今日は、いつだったろうか。私は日付と時間を確認すべく、手を伸ばそうとした。が、思うように動かない。
「あれ……?」
未だ第二次性長期を迎えていない幼い声が、古めかしい天井に反射して、自分に降り注いできた。ああそういえば今日は、体調が悪くて学校を休んだんだっけ。
ゴホゴホと咳をし、もう一度布団の中にうずくまる。きっとそのうちよくなるんだ。今は我慢して、できるだけ「あんせい」にしておかないと。
元々体が弱かった僕は、小学校に入ったものの、まともに学校には通えていなかった。まだ、学校には数えるほどしか行けていない。
入学式で会った皆は今頃、仲良く遊んでいたりするんだろうか。自分だけが、のけ者だった。
そういえば、僕以外に今、だれかこの家に居るんだろうか。誰も居ないとすると、少し、怖かった。
いつまたお化けが僕をからかいにくるのかと思うと、目を閉じることすら、怖い気がした。
「……のど、かわいたなぁ」
起き抜けの体が水分を欲している。普段水が置かれているベッド脇のテーブルには、水滴だけが残されていた。片付けられてしまったのだろうか。
「自分でやるしかないかぁ」
ひとりぼっちの心細さに、繰り返し自らの意思を言葉にした。随分長いこと、一人で居る気がする。もう随分、長いこと。
再び体を起こし、ベッドの上で方向転換ようとする。だが、力が入らず、上手く動くことが出来ない。
「くそ……」
もどかしさにストレスが溜まってゆく。何で僕の体は、こうも弱いのだろう。弟の晴地はあんなにも元気で健康的なのに。
「わっ……」
余計なことを考えていたからだろうか。僕は、どしん、と床に転落した。
「痛……」
視線がベッドの下の何かと合った。何者かが、僕のベッドの下に、潜んでいる。言葉を発する余裕もなく、また動く力も無く、私は、その何かを見つめた。
何かは、人の首だった。とても卑しく、此方を見下すような、浅ましい微笑を浮かべている。
息を呑んだ。誰も居ない。私は動けないまま、こいつにどうされてしまうのだろうか。きっと、このままだと僕は、死……
「アァーーーハハハハハハハハハ!」
首が突如叫びだした。耳を澄ますと、地面を伝って音が聞こえる。
ドタドタと何かが近づいてきているのが分かった。きっと何かよくないものだ。逃げ出したいが、力が入らない。
何も出来ずただ目を瞑ると、今度は、背後で勢い良く扉の開く音が鳴り、またほぼ同時に、ベッド隣の窓ガラスが砕け散った。
「あっちいけ!」
背後から聞き覚えのある声が轟いた。晴地だ。
晴地は私のベッドに飛び乗ると、窓の外に向かって何かを叫んでいた。気が付くと、目の前にあったはずの首もなくなっている。
私は幼い晴地の助けを借りてベッドに戻ると、晴地が用意してくれた水を飲み、一息ついた。
「危なかったね……」
「うん、ありがと……」
晴地には今までも何度も助けてもらっていた。危機が訪れるたび、何らかの力でそれを察し、すさまじいスピードで助けに来た。
今日のように、大抵の化け物は、晴地の咆哮を聞くだけで尻尾を巻いて逃げてゆくのだ。
「水汲みに行った途端これだもん、全く休んでられないよ……。はやくじっちゃんこないかなぁ」
じっちゃんというのは、ここらの妖怪の元締めのような妖怪である。大変高齢らしいのだが、詳しいところは誰も知らない。
何故だか僕らの味方をし、体調を崩したときは、化け物に殺されないよう結界を張ってくれていた。
いつもなら、もう来ていても良い頃だった。妖怪でも猛暑に参るのだろうか。長いこと待っていたが、やってくるのは蚊ばかりで、妖怪爺が来ることは無かった。
結局この日は、妖怪爺の力を頼ることは出来なかった。晴地は私を守るため、この日は同じ部屋で寝ることになった。
晴地が疲れて寝たことを確認すると、僕はもう一度顔を布団に深く埋め、眠りに落ちた。
虫も鳴かない、静かな夜だった。
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目覚めると、そこは知らない場所だった。
目の前に、晴地が居る。泥だらけで、崩れかけた霊力の鎧をまとっていた。さらにその向こうには、異形の鬼のようなものが居るように見える。恐らく、晴地が私を守って戦っているに違いない。
「……んんっ!」
声を出そうとしたが、猿轡が邪魔をする。状況的に、このままでは晴地が危ないように見えた。
私が目を覚ましたとわかれば、逃げることも可能だろう。だが、僕にはそれを伝える手段が無かった。それに反して、晴地と鬼の会話は、此方まで轟いてくる。
「そこを退けぇ!小僧!わしはそこのクソ野郎を殺さなくてはならん!」
「やだ!おれのお兄ちゃんだぞ!」
「本気で言っているのか?……何度も言わせるな……」
不意に肩を叩かれた。そして、耳元で声がした。
「弟さんを助けたいのですな?愛ですなぁ……ほっほっほ……流石に情が芽生えましたか。では私が、その拘束を解いて差し上げましょう……」
耳元でささやく声がそういうと、突如、私を縛る紐が全て消し飛んだ。不思議と、体に力がこもる。
晴地を、助けなくては。
今までにない速さで駆け抜けると、晴地の目の前に飛び出した。手を掲げ、振り下ろされる自分の体ほどもある拳を受け止める。
拳は、手のひらに優しく乗ったかと思われた。それほどまでに、力なく、ふわりと落ちてきた。
「がっ……おおおおおお!」
鬼が絶叫する、そして、次第に体が満たされてゆくのが分かる。えもいわれぬ快感が、ぞくぞくと全身を駆け抜けた。
勝てる。というか、負けるわけがないだろう。この程度の奴に。全く、無謀な奴もいたものだ。
私は鬼の手を掴むと、より一層強い力で奴の力を奪い取った。筋肉隆々だったはずの肉体は、見る見る内に骨と皮になった。鬼はその場に倒れこむと、まさに「鬼の形相」で此方をにらんでいる。
「気に入らないな」
私はそういうと、悠々と鬼の眼前まで歩くと、奴の顔を踏みつけた。
「死ね」
思い切り力を込めて、踏みしめる、パン、という小さな音を立てて脳みそと頭蓋が四散する。
辺りは、再び静まり返った。虫のささやきが、辺りに戻ってくる。蟋蟀の声が、私の心をなだめるようだった。
「あ……そうだ、晴地」
鬼の事で頭がいっぱいだった私は、晴地の事が頭から抜けていた。振り返り、急いで晴地の所まで駆け寄る。晴地は、放心状態で立っていた。恐怖からだろうか、晴地にしては、珍しい。
「もう倒したから大丈夫だよ。もう、何もいないよ。ね、晴地……」
とんとんと肩を叩きながら、晴地の意識が正常になるのを待つ。
「お……ばけ……頭が……」
「ん?どうしたの晴地、もう倒したよ、僕が」
僕……が……?倒した?体もまともに動かせなかった僕が?どうやって、どうした?
自分自身、先ほどまでの事が嘘のように思えた。ぐるぐると、頭の中で何かが回っている気がする。少し、気持ち悪い。晴地がはっとした顔で此方を見つめる。ごくりと、つばを飲んでいるのが見て取れた。
思えば、晴地は妖怪を殺したことなど無かった。きっと、そう「なってしまった」ことが衝撃的だったんだろう。
「お……おお……恐ろしや……鬼を殺しおった……」
気がつくと、そこには妖怪爺が居た。驚愕の表情を浮かべ、此方を呆然と見つめている。
「なんじゃなんじゃ、わしなど必要ないではないか!逃げて正解だったわ!こんなものの相手をしておっては、命がいくつあっても足らん!」
ひとしきり勝手に言い放つと、一目散にどこかへと消えていった。
なるほど、妖怪爺は今日の鬼の事を知っていたから、僕らに話を伝えもせず、一人で逃げて、こそこそと影からのぞいていたのか。
なるほど妖怪というのは、随分勝手なもんだ。何が待ち受けているのか、危険があることが分かっているのなら、教えてくれるくらいしてくれれば良いのに。
色々と言いたい事はあったが、なんとなく無駄な気がして、僕は言葉を飲み込んだ。そして、晴地の手を引き、まっすぐ、家へと帰った。
この日から、僕に対して、妖怪が襲ってくることは無くなった。
そして、鬼を殺した噂話は瞬く間に広がり、僕ら二人は、妖怪たちの中で「鬼断ち兄弟」と呼ばれることになった。
出会う小妖怪、中妖怪たちには恐れられ、たまに遠方からやってくる、屈強な妖怪の腕試しも受けて立った。そうして、少しずつ、妖怪との戦いに慣れていった。
そしてもう一つ、僕は体がとても強くなった。
以前のように寝込むことが無くなったばかりか、病気になることはなく、怪我の回復だって、人並み以上に早くなった。
もう、誰にも頼る必要は無くなった。そうして僕は、一人きりで行動することが多くなった。
---
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気が付くと、同級生の一人が妖怪に食い殺されていた。
教室で、教壇の上で、さもおいしそうにそいつは、人間を食らった。阿鼻叫喚の絶叫。無理も無い。安全な世界で生きていたはずが、目の前で友人が肉になるのだ。
だが、僕はいまさら、どう思うことも無かった。これまでも何度か同様な光景は見ていたし、何故だか僕は、この光景を昔から目にしていたような気がして、はじめから動揺したりはしなかった。
……その昔、は焦り、動揺して、泣いていたような気もしたが、思い出せない。
妖怪はまだ、次の獲物を探していた。バイキングのメニューを選ぶような目つきで、餌の品定めをしている。
「や……やめて!」
一人の少女が、妖怪の目の前に立ちはだかった。必然的に、次の肉になるだろう。その少女は、ちらりと此方を覗くと、不安そうな表情を見せた気がした。あの子の名前は、たしか、春花。今年から同じクラスになった、やたらと私に纏わり付く……
再び、記憶から情報を取り出せなくなる。何かが、僕の思考を邪魔している気がする。
だが、何故だか心が締め付けられるような気がした。今すぐ立ち上がって、あの子を助けなければならない衝動に支配された。
「あぁ?お前から食えってか?」
「ちがう……ちがうぅ……」
泣き出した春花は、それでも手を広げて妖怪の行く手を阻んでいる。
「いいさ、はは!」
妖怪の爪が振り下ろされる。が、それが春花に突き刺さることはなかった。
妖怪の爪が春花の心臓にたどり着くよりも少し早く、僕は春花と妖怪の間に割り込んだ。体に激痛が走る。血が、力が抜けてゆく、ぼたぼたと、足元に血溜まりができてゆく。
爪は、私の心臓を貫いていた。
「雪枝くん!」
春花が私を抱きしめる。何度も、私の名前を呼んだ。
「ははぁん、愛、だねぇ。ククッ」
妖怪はまた、2度3度と私の体を突き刺した。少しずつ、体がミンチになってゆくのがわかった、
愛。そう、愛情。私が、春花を放っておくわけがない。春花は、私の、恋人なんだから。
恋人。いつから?僕はいつから春花の恋人になったんだろう。まだ、クラスを変えて、ただ席が隣になったというだけ、出会ったばかりだ。
いや、違う。……私はなんで、小学生をやっているんだろう。
この間まで、高校で、春花と一緒に、ツキヒメと、次郎と、みんなと一緒に居たはずなのに。
意識が飛びそうだ、死ぬわけにはいかないのに。……ああでも、ここが今、どこでも、自分が誰でも、春花を守れるのなら、それで。
「イガッ……アアア……」
私は力を振り絞り、妖怪の霊力を全て吸い上げた。そして、私も、その場で力尽きた。
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ここは、どこだろう。
見慣れない景色だった。私の体はとても重く、動くことが出来そうに無い。まどろんだような意識。言葉すら、発することが困難そうだ。
あまりの気だるさに、私は、再び眠りに付いた。
「刹鬼」下巻
第9話:死に損ないの存在感
「おい、いつまで寝てるんだ、そろそろ起きろよ。せっかく、意識を覚醒させてやったんだ」
耳元で怒鳴られたような声で、私は目を覚ました。
相変わらずの知らない景色。私は、病院のベッドに寝ているようだった。近くのテーブルに、見慣れたバッグが放置されている。春花が直ぐ近くに居る証。
私の手から伸びたチューブの先には点滴が吊るされ、胸から伸びるコードは、心拍を記録している機械につながっていた。
「夢、だったのか」
何処から何処までが夢だったのか、起き抜けの頭で考えていた。やけにリアルな夢ばかりだった気がする。たかが夢なのに、はっきりと記憶に残っている。
動かぬ体とは反対に、私の頭は、今まで無いくらいに深層まではっきりとしていた。
「私が始めて力を使った日のあれ、あのしゃべり方は、ウワサガリだよね……」
思い返してみれば、ウワサガリの声は、行動を共にし始める以前から、危機が迫る度に耳にしていたような……。てっきり、噂を食べることだけが奴の目的だと思っていたが、今は違うように思える。
それだけが目的ならば、小さい頃の私に固執し、助ける必要などないのだ。
あと、さっきの声。
つい先ほど私を起こした声は、夢の後半に出てきた、私を殺した妖怪の声だった。あいつは夢の存在じゃなくて、実際に居るのだろうか。それとも、私の妄想か……。
ひとりでぐるぐると考えていると、病室の扉が開き、春花がやってきた。
「あ」
「え?あ……!」
春花は私の顔を見ると、ワタワタと慌てたあと、そのまま廊下に戻っていった。暫くすると春花は、看護師らしき女性を連れて戻ってきた。
看護師は計測器やボードを暫く忙しそうに確認すると、「ちょっと待っててね」と笑い、病室から出て行った。春花と私だけが病室に取り残され、看護師の代わりに、気恥ずかしい空気が入室してきた。
「大丈夫?」
ベッド脇の小さな丸椅子に座り、春花が心配そうに声をかけてきた。出来るだけ元気そうに見えるよう装って、すかさず返答する。
「多分ね。……ごめん。何が、どうなったんだっけ」
「あ……覚えて無いんだ。私の事は、分かるよね……?」
「分かるよ。……春花さん」
笑顔を繕いながら答える。覚えている証拠として、名前をつぶやいた。
事の顛末は、一通り春花が話してくれた。
ツキヒメと春花をかばった所までは、現実だったようだ。晴地やツキヒメ、次郎も、大した怪我なく生きていると聞き、私はひとまず、ほっと胸をなでおろした。
恐らくもうすぐ、ツキヒメもやってくるだろうということだ。春花が居られない間は、殆どつきっきりでツキヒメが私を守っているんだとか。
「妖怪が、寄ってきちゃうんだよ」
そういっていた。私が倒れている事をいいことに、悪戯をする妖怪が絶えないらしい。起きる直前の声も、もしかしたら寄ってきた妖怪かもしれないなとふと思った。
あの時は春花も居なかったし、私に近づくことも可能だっただろう。
私達が話をしていると、扉がゆっくりと開き、晴地と、病院の先生らしき人が入ってきた。
「本当だ、よかった……!」
まず始めに、晴地が声を上げた。続けて、先生がべらべらと、私の容態について説明した。体は衰弱しているものの、とくに目立った病気や怪我も無いため、回復すれば直ぐにでも退院出来るということだった。
ひとしきりしゃべると、簡単な挨拶だけして、先生は忙しそうに部屋を後にした。
「……ひとまずは、よかったよ」
「うん、心配かけたね」
「……ん?いや……」
なんとなく、のどに小骨がつっかえているような表情をした後、晴地は「母さんたちに説明してくる」と、部屋を出て行った。
「雪枝が起きたというに、春花だけか」
窓側から、急に声がした。いつの間にか、窓のサッシにツキヒメが座っている。
「さっきまで晴地くんも居たんだよ。……あれ、どうして雪枝くんが起きたって分かったの?」
「……まぁ、なんとなくじゃ。気にするでない」
「ふーん……」
怪訝な表情を浮かべたまま、私、時計と視線を移す春花。そろそろ帰らなくてはならないのだろう。窓の外では、日が山に隠れ始めていた。
「そろそろ親が迎えに来ると思うから、また明日、ね」
もの悲しそうな表情を浮かべ、「よろしくね」とツキヒメに微笑んだ春花は、そろそろと、病室から逃げていった。私とツキヒメの二人だけが残される。無言のまま、暫くの時間が流れた。
「知らん霊力が現れて、何事かと思うた」
不意に、ツキヒメが話を始めた。何のことか分からず硬直していると、ツキヒメは小さなため息を吐き、話し始めた。
「お前のことじゃ、雪枝。何がどうなっとるんじゃ、以前とチカラの形が変わっておる」
「は?どういうことさ」
「以前よりも弱弱しくはあるが、お前の今の霊力は、以前のものと比べ、とても攻撃的に感じられる。近くに居るだけで、体を縛られているようじゃ」
そういうとツキヒメは、体をぶるっと震わせ、はっきりと此方を見つめなおすと、私の寝るベッド脇に腰を下ろした。
「しかし……」
「ん?」
訝しげに此方の顔を伺うツキヒメ。だが直ぐに、いつもの澄ました表情に戻ると、ぼんやりと外を眺めながら続けた。つられて外を見ると、ちょうど日が沈もうとしているところだった。
「いや、すまぬ、なんでもない。あの時のことを思い返していただけじゃ」
「あの時って、いつさ」
「この間、里が、襲われたときの、な」
目を細め、どこか寂しげなその表情は、仲間を失ったからだろうか。あの日殺された、師匠の事を、想っているのだろうか。妖怪のことなのに、何故だか少し、心が痛んだ。
「ああ、うん。結局あまり役に立たなくて、その、悪かったよ」
「そんな……ことは……ない……」
ツキヒメは、苦虫を噛み潰したような表情だった。また暫くの沈黙。その後も、目もあわせず、私達は言葉を交わし続けた。
毒を吐いたり、吐かれたり、お互いになんとなく以前よりもよそよそしかったが、形だけは、以前どおりを装っていた。
そして、辺りはすっかり暗くなり、看護師が消灯を伝えに来た。
「まだ居るのか」
相変わらずベッド脇に座っているツキヒメに、私は声をかけた。
春花が言っていたとおり、恐らく一晩中ここで、毎日私を守っていたのだろう。分かってはいたが、私はどこか心細く、わざとらしく声をかけた。夢の中の寂しさが、まだ残っていたのかもしれない。
ずっと、一人ぼっちだったような、そんな気持ちだった。
「他に、誰がお前を守れる」
ぴくぴくと耳を震わせると、ツキヒメはそれだけ答えた。電気が消えた病室に、細月の光が差し込んでいる。
「別に、守らなくてもいい」
私は、それまで無下に扱っていたツキヒメに守られる事が後ろめたく、素直になることが出来ずに、ぶっきらぼうに応答した。ツキヒメはというと、相変わらず外を眺めたまま、黙り込んでいる。
私は沈黙に耐えられず、一人、しゃべり続けた。きっと、心細さもあったのだと思う。細月を見ながら、「初めて会ったときも細月だったね」とか「春花とは仲良くやっているのか」とか、一方的に続けた。
話題もなくなり、暫くした後、ツキヒメはやっと此方を向くと、諦めたような表情で、ゆっくりと口を開いた。
「このまま、ずうっと放っておけば、わしの方が春花よりも長くお前と……。じゃがわしは、それすら出来んようじゃ。お前と、それに春花が……。二人の寂しそうなカオは見ておれぬ」
軽く拳を握り締めるのが見えた。暗闇でも、夜目が効くようになった私の目は、彼女の目が潤むのを見逃せなかった。かみ締められた唇に気づかぬことなど出来なかった。
ツキヒメはゆっくりと立ち上がると、私と自分を霊力の帯でつなぎ、ゆっくりと、霊力を流し込んできた。
体に力が満たされるのが分かる。弱っていた私の体は、見る見るうちに力を取り戻した。もはやこのまま外に飛び出しても何の問題も無いくらいまで、私は回復した。
霊力の帯が途切れると、ツキヒメは私の上に倒れ込んだ。力を使い果たしたのだろう。何も、全て私にささげなくても良かったのに。
「ちょっと、何やってるのさ、やりすぎ、だって……」
話しかけたが、ツキヒメはすでに眠りについていた。私にしか聞こえない寝息が、病室にこだまする。私は暫く寝ることが出来ないまま、ぼうっと、ツキヒメの頭を眺め続けた。
最後に時間を確認したのは、三時だっただろうか。気が付くと朝日が昇っており、ツキヒメは居なくなっていた。
私の急な回復振りに、医者は何度も頭をひねっていたが、何があったかを説明するわけにも行かず、結局私の症状に関しては「原因不明」として、その日のうちに退院する運びとなった。
◆◇◆
「おはよ!」
「……おはよう。早いね」
インターホンに応じ、玄関の扉を開けると、そこには春花が立っていた。学校に行くにはまだ40分ほど早い。
何かあるのかと私が訝しんでいると、春花は「なんでもないよ」といい、私に対し、家に上がっても良いか、ジェスチャーと微笑みで確認してきた。
「ああ、うん、取りあえず上がって」
「おじゃましまぁす」
なれたものだ。初めのころは、玄関に入ることすら顔を真っ赤にして拒んでいたというのに、今となっては流暢に、晴地や母に挨拶できるまでになった。
両親、特に母は、春花の事をとても気に入っているようだ。最近は二人で話していることも増えている。とても順調に進む私たちの関係に、私は心が満ちてゆくのを感じていた。
このまま、この幸せがずっと、続きますように。
「相変わらず元気だね、兄さんの彼女」
晴地はそういうと、春花と似たような柔らかな笑顔で笑った。
「はい、雪枝くん、カーディガン!」
私の部屋まで春花を追っていくと、彼女は普段から私が身につけているものよりも、ほんの少しだけ厚手のカーディガンを渡してきた。
季節は秋になっていた。
私は、2ヶ月近くの間意識が無かったらしい。まるで、朝、玄関前で夫を送り出す嫁のように、カーディガンを私にかぶせると、春花はそのまま、ゆっくりと私を抱きしめてきた。
「え、どうしたの……」
「……」
そのまま、無言が続いたかと思うと、ぐすぐすと、鼻をすする音が聞こえてきた。
私は硬直し、動けなくなった。春花の気持ちが手に取るように分かったからこそ、何を話したら良いのか、今自分に何が出来るのかが、分からなくなった。大切な人がずっと目を覚まさなかったのだ。
此方を振り向いてくれなくなったのだ。そこに居るのに、一人ぼっちな気分を、春花はずっと、私のそばで感じ続けていたのだ。私が、逆の立場だったら、堪らない。
少しずつ、少しずつ、春花の嗚咽が大きくなる。しがみつく手の力が強くなる。立っていられなくなった春花に合わせ、私は軽くしゃがむと、彼女の腕を掴みくるりと回った。
そして頭を抱え、2,3回撫でると、春花が始めにやったように、やさしく抱擁した。
春花の嗚咽は、泣き声に変わった。堪えきれない想いが、私の感情までも支配した。二人そろって目も開け無くなり、いつの間にか、強く、強くしがみ付いていた。
「春花さん、そろそろ時間だよ」
「……うん……うん……」
暫くの後、私から切り出した。いつまでもこうしていたい所だが、そういう訳にもいかない。
「うん、あはは」
まだ潤んだ目のまま、春花が微笑む。
一瞬の間をおいて、私は二人分の荷物を肩にかけると、揃って玄関に向かった。
「あ、兄さん遅いよ、早く早く」
「分かってる分かってる、もう出て行くよ」
玄関では、晴地が靴を履いているところだった。晴地は急かすが、私にはこのくらいの時間がちょうどよいのだ。私はペースを崩さず、普段どおりに家を出た。
「それじゃいこっか。……えーと……」
春花が一時硬直し、私のほうをじろじろと凝視し始めた。その視線は冷たく、何か私を心細くさせた。ふと気が付くと、晴地も同じような目線で此方を見ている。
「え、どうしたの、二人とも」
私の発言の後、一瞬の間が空いた。冷たく冷えた空気が、脳を過敏にさせる。
「い、いえ、何でもないです、行きましょっか」
晴地が、丁寧語で他人行儀に返答した。怪訝に思いながらも、三人で歩き始める。春花は何故か私と距離を置き、晴地を間に挟む形になった。
いったい、私がどうしたというのだろうか。民家のガラスに映り込む自分の姿を見ても、何か変化があるようには思えない。
霊的なもので何か変化があったとしても、私自身にも分かるだろう。何があったというのだろうか。
「あれ?」
暫く歩いたところで、春花がきょとんとして立ち止まった。そしてはっとしたように、晴地側から私の隣に移動した。明らかに、先ほどから何か様子がおかしい。
「あ、ごめん兄さん、俺邪魔だった?先に行ってるわ!」
超特急で走り出す晴地。明らかに霊力を使っている。人通りが無い場所とはいえ、あの速さを誰かに見られたらなんと説明するつもりなのだろう。そういえば、晴地の様子は、元に戻っているように感じる。
「ねぇ」
「え、え、何?」
私が声をかけると、春花が慌てたように反応した。何か焦っているようだ。
「何かあった?私が何かおかしかったかな」
そういうと、春花は目を泳がせながら、「別になんでもない」と、否定してきた。だがそのあからさまに分かりやすい仕草は、明らかに何かがあったとしか思えなかった。
春花が言うつもりがないのなら、あまり追求するつもりも無いが、なんとなく、小さな秘密が寂しい。可能であれば、私は彼女に、隠し事をして欲しく無かったらしい。
「まぁ、いいんだけどね」
出来るだけ此方の気持ちを悟られないよう、軽く微笑んでみた。春花は安心したように表情を崩し、ほんの少しだけ、私の方に近づいた。
◆◇◆
「ははははっ、弱い弱い弱い弱い、弱すぎる!」
妖怪の集団が、大きな一匹の紫色の霊力を纏った妖怪を取り囲んでいた。何度も何度も、何匹もが飛び掛るが、紫妖怪が軽く尾を凪ぐだけで、何匹もの妖怪が消え去っていった。
暫く紫妖怪が高笑いしていると、派手な紋章が空に現れ、どでかい妖怪がぬっと現れた。
「貴様か、我等が一族を端から殺してまわっておるのは」
どでかい妖怪は、いかにも強そうな、筋肉隆々、逆三角形の姿をしていた。大して先ほどの紫妖怪は、それと比べるとひょろっとした細い腕だった。形勢逆転といった所だろうか。
「ははは……やっと出てきたか。遅いよ、もうあらかた食べてしまった」
紫妖怪は口を大きく開けると、口内を指差した。
「貴様……!」
ぎり、と、歯を食いしばり、どでかい妖怪が殴りかかる、だがその拳は、軽々と細い腕、いや、突き出されたその細い指に遮られた。
指先に霊力が集中され、晴地が霊力を纏ったように、それも、晴地よりももっと強く、煌々と輝いていた。
「はぁ……はは。まぁこんな程度か。……足しになるかな」
紫妖怪は、もう一方の手で相手の体の中央を突き刺した。見る見るうちにどでかい妖怪の目が紫色に濁り、苦しそうなうめき声を上げる。
「さて……。それじゃぁ、いただきます」
がぶり、と、噛み付く。それと共に、相手の体から少しずつ、霊力が抜き取られていった。徐々に体がしぼみ、最期はただの一般妖怪のように小さくなったかと思うと、消え去った。
「まぁまぁ、って所か。まぁ少しは……」
「足しに、なった、かな……?は?」
急に景色が明るくなる。どうやら、教室で頬杖を付いたまま眠っていたようだった。いつから寝ていたのだろう。今は、昼休みに入ったところのようだ。
気が付くと、春花もツキヒメも居ない。二人とも、何処へ行ったのだろうか。
寝ていたがために事情が読み込めず、きょろきょろとあたりを見回す。昼ごはんを食べに、中庭にでも行ったのだろうか。
私に声も掛けず?まさか、そんなこと、春花がするわけが無い、と、思いたい、が、朝から何か様子がおかしかったし、何かあるのかもしれない。
私に知らないことで、何か重大な理由があるのだろう。理由なくのけ者にされるわけが無い。そう思いたかった。やはり、「隠し事」はとても気になった。今朝は流したが、もはや聞かずには居られない。
「ひとまず中庭にいくか……」
私は素早く教科書をしまうと、中庭へと急いだ。途中、怪訝な顔で先生等が此方を見て「ちょっと、キミ」などと声を掛けてきたが、それよりも私は、春花とツキヒメの所へ行くことの方が先決だった。
完全無視で、競歩ばりの早足で中庭へと急いだ。
◆◇◆
チャイムが鳴った。午前中の授業終了、そしてお昼休み開始の合図だ。私は普段どおりお弁当を持つと、ツキヒメちゃんに声を掛けた。
「それじゃ、中庭いこっか」
「うむ、それでは他の者にも声を掛けてこよう」
ツキヒメちゃんは目を輝かせると、すくっと立ち上がり、選手宣誓のようにはっきりとした口調で、胸を張ってそういった。
授業がつまらないらしく、その反動なのか、毎日お昼のときだけは元気一杯になるのだ。
「他の……って、今日も次郎君は休みだよ。ほら、家庭の事情、なんだって」
「おぉ、そうであった。では二人でいくかの」
次郎君はここ暫く「家庭の事情」ということで学校を休んでいた。長期休むことが告げられたとき、次郎ガールズが叫び声を上げていたっけ。
とにかく、やむを得ない事情があるとかで、暫く学校にはこられないらしい。
このため私達は、ここ暫く、二人きりでご飯を食べていた。次郎君が居ないなら、もはや中庭に隠れる必要は無いのだが、なんとなく、私達は中庭に通っていた。
「お、そうじゃ、今度わしがこっそり、次郎が何をしておるか見てきてやろう」
「ええ、ダメだよ、次郎君の家って、何か妖怪退治だかやってるらしいでしょ、ツキヒメちゃん、捕まったら、何されるか分からないし……」
「そう簡単につかまりはせん」
「ダメだったらだめ~!」
「わかった、わーかったからはーなーせー!」
私に袖をつかまれたまま、ツキヒメちゃんが暴れる。私はそれがなんだか可愛らしくて、ついつい笑顔になってしまった。なんとなく、こうやってじゃれあっている感覚が懐かしい。
そうやってふざけあいながら中庭まで移動すると、私達二人はお弁当を挟んで向かい合った。
以前一度、ツキヒメちゃんが自分でご飯を持ってきたことがあったが、そのときはなんと生魚をそのまま持ってきたのだ!本人曰く、焼き立てを食べたかったらしい。
学校に調理をする場所など無く、そのため私達は、仕方なく購買でパンを購入して昼食を終えた。その日、教室が暫く生臭かったのは言うまでも無い。
人間の文化に疎いツキヒメちゃんのフォローに回ることを決意した私は、以来ずっとお弁当を作っていた。
「んん……?」
「おろ?」
お弁当を前にして、私達二人は硬直した。このところ二人分だけ用意してきていたはずのお弁当が、三人分あるのだ。
はて、何を間違えてしまったのだろうか。私はいったい、誰の分を持ってきてしまったのだろう。暫く二人で考え込んでいると、緩めのカーディガンを着込んだ、白髪の学生がやってきた。
「あー、やっぱり居た居た」
学生は言った。脳に電撃が走る。ぐるぐると、記憶がつながっていく感覚が分かった。
「あ……雪枝くん!」
「お、おお、忘れておった!」
忘れていた。どうしてだろう。朝、一緒に登校して、ううん、それより前から、今日は久々の雪枝くんとの学校が、お昼ご飯が楽しみで、いつもよりずっと早起きしてまで手の込んだお弁当を作って、
それで、それなのに、私は今の今まで、雪枝くんの事を忘れていた。「ずっと入院してたから、忘れていた」とか、そういう規模の忘却ではなかった。
雪枝くんが、さっきまでこの世界に居なかったような、出会ったことすらなかったような、そんな気さえしていた。
いったい、何が起こったというのだろう。私は、雪枝くんの事を忘れていいような人間だと、そう、心のどこかで感じていたという事なんだろうか。
ちらと、ツキヒメちゃんの顔を確認した。そこには、私と同じ表情で、同じように此方を確認する顔があった。
私は、即座にツキヒメちゃんの考えていたことを察した。恐らくあちらも、同じように私の考えに気づいただろう。
「別に起こしてくれてよかったのに」
優しさと、呆れと、寂しさが混じったようなため息をつき、雪枝くんはそういった。
違う。私達は、さっきまであなたの事を忘れていた。二人そろって、大好きなあなたの事を、これぽっちも覚えていることが出来なかった。
私達は、二人そろって真実を飲み込んだ、声に出さず、心の中にしまい込んだ。彼が寂しがるとか、悲しがるとか、そういった意味合いもあったが、それ以上に、この事実を受け止めるには、私達の心はあまりにも弱弱しかった。
「と、とにかく、お弁当はちゃんと三人分作ってあるから、その、とりあえず食べよっか!」
「うん」と、相変わらずの微笑で雪枝くんは言った。なんだか此方の気持ちを見透かされているようなその視線に、自然に体がこわばるようだった。
「変わったのは、わし等のほうなんじゃろうか……」
そんなことを、お弁当を食べながら、ぽつりとツキヒメちゃんがつぶやいていた。
何かが、急激に変わり始めた。それは、あの事件の後から誰もが感じていることだった。それでも私達は、雪枝くんを元のとおり迎え入れようと、以前の様子を貫いていた。それが今、ここに来て崩れてしまった。
以前のままでは居られない。
だけど、まだ、私達の決心はつかなかった。
第10話:神使の一族
俺が、俺がやらねぇと。俺が強くならねぇと。俺がみんなを、守らねぇと!
友人を助けに行った。見捨てることなんて出来る訳なかった。だけど俺は、実質、誰も守ることなんて出来なかった。
そして、あいつは、雪枝は、意識を失ったまま。そのまま。
「ああああああああ!」
どん。部屋に、小さな音がこだました。じんと痛みが伝う拳からは、かすかに血がにじんでいる。弱い、弱すぎる。全力で、この程度だ。これでも、これでも霊力を纏っているというのに。
「はぁっ……はぁっ……」
叫んだところで、何も変わらない。今の俺では、何も変えられない。
「クソッ……」
だから、強くなるしかない。今度こそ、俺が守りきる。きっと、次は無いんだ。俺は呼吸を落ち着けると、もう一度錫杖を握り締め、修行を再開する為に立ち上がった。
「おい、次郎」
ふいに、背後で声が聞こえた。少しばかり気に障る、高慢なイントネーション。ざわざわと、辺りの霊気が入れ替わる感覚が分かった。
「兄貴……」
そこには、鳶巣家長男、俺の実兄政久が、心底いやらしい笑顔で此方を見据えていた。
「どうした、珍しいな、お前がこんな、」
「うるせぇ、関係ねぇだろ……!」
兄は何かを言いかけて、止めたようだった。俺の割り込みが気に入らなかったんだろう。
俺の周りに残っている術の跡を見ると、わざとらしくため息をつき、息を吸いなおして相変わらずのいやらしい笑顔で話し始めた。
「ふん、まぁ、お前には無理か。そうだな、この俺が、稽古をつけてやろうじゃないか」
「どういう風の吹き回しだよ」
「……ただの暇つぶしだ」
相変わらずいけすかねぇ奴だと、心の底からそう思った。親といいこいつといい、俺の事は不要らしい。
いや、「いまのところ」不要なのだ。何度も何度も、昔から言い聞かされてきた。俺は、この政久の予備なのだ。
俺は兄の申し出を断ろうと思った。が、思いとどまった。今までの俺ならば即座に断っていたことだろう。だが、今は四の五いっていられるような状況ではなかった。
あの日、あの時俺達が戦った後から、世界は、紫色の瘴気に覆われていた。今の所、それに気が付いているのはごく一部の妖怪と鳶巣だけだが、ゆっくりと、だが確実に、この世の中はあの瘴気に支配されてきていた。
「頼む」
「なんだ、やけに素直だな。てっきり、断ると思ったが」
政久が、表情を変えないまま、驚いたようなジェスチャーをしてみせた。
「いいだろ」
「……お前には何も出来ない。だから何もする必要はない」
俺が不機嫌そうな態度を取ると、兄は俺をおちょくることをやめ、急にまじめな態度になった。言っていることは皮肉気味ているのに、不思議と嫌には感じなかった。
「そもそも、焦って何かを始めたところで、上手くいく訳無いじゃないか。何で今更こんなことを始めた?今までどおり、俺は関係ないとか言って、逃げていればいいじゃないか!」
政久の言葉が胸に突き刺さる。確かに、俺が術を上手く扱えないのは、ずっと修行を避けて生きていたからだ。
俺は俺の人生を、他人に言われて決めるなんて事が出来なかった。だから、俺は全てを投げ出し、自由気ままに生きようとした。
その結果が、あの散々たる結果なら、やはり俺は言うとおり生きていればよかったのだろうか。いや、それでも……。
「それでも俺は、今はやらなきゃならないんだ」
俺がそういうと、政久はふんと、鼻を鳴らした。暫くいらいらしたような仕草を続けると、俺の傍に寄り、顔を寸前まで寄せた。
「本当に覚悟は出来ているんだろうな」
濁った瞳が俺を見つめている。
「ああ、逃げねぇ」
この日から、俺と兄との、壮絶な修行が始まった。
「次郎、いつまでそうしているつもりだ」
兄貴の強烈な一撃を正面から受け止め、俺は地面に突っ伏していた。
「おい、やる気あるのか?」
「くそっ……」
一ヶ月ほど経った今、特訓を始めた頃と比べれば随分マシになったが、俺と兄との力の差は、いまだ歴然としていた。俺が放つ攻撃は触れる前に障壁に遮られるし、俺の全力の障壁はやすやすと破られる。
「いい加減に立て。続きだ」
一歩二歩と政久が歩み寄ってくる。その時。
バリバリバリ!
鼓膜が破れるかと思うほどの強烈な音を立てて、地面から青い閃光が立ち上る。そしてその閃光は、螺旋を描いて政久を覆った。
「へっ……かかったな兄貴!」
すかさず立ち上がり、続けて呪文を唱える。すると空間が青く裂け、猛禽類の姿をした鳥が幾匹も飛び出してきた。次郎の式だ。鳥達は政久を囲むと、一斉に飛び掛る。が……。
カッと光ったかと思うと、螺旋の檻も、沢山の式たちも、一瞬にして消え去った。代わりに目の前には、全長3メートルほどの大きな猛禽類が羽ばたき、傍らで政久がいやらしい笑顔で笑っていた。
「はっ……おしいな」
「……どこが……」
がっくりと膝をついた。政久に頼らずに、やっとの事で身につけた業だったのに、全く以って歯が立たなかった。
「いや、今のはいいぞ、お前にぴったりな、姑息で有効な戦い方だった」
くっくっくと、政久が笑う。「逃げ腰な所もまたいい」と付け加えられ俺はカチンと来たが、言い返せない。このまま続けたところで、自分が兄に勝てるイメージが全く沸かなかった。
「よし……くっふふ……これからはお前に、「罠」を教えてやろう。そのほうが向いていそうだ」
本気なのか、冗談なのか判断が付かない。このまま、兄の言うとおりにしていて良いのだろうか。こいつはただ、俺をおちょくっているだけなんじゃないだろうか。
長年の生活で染み付いた不信は、直ぐには塗り変わらなかった。俺は未だ兄が信用できず、こうやって一ヶ月近く、疑い続けていた。
それに、俺は焦っていた。紫色の瘴気はいよいよ強くなり、俺達の世界を覆い続けていた。日々病人は増え、人間が生きてゆくには辛い世の中に変わりつつあった。
あいつ等だけを守ればいいと高をくくっていたが、どうやらその程度で済む話ではないようだ。
「姑息で逃げ腰な次郎」
「なんだよ?」
もはやこの手の煽りには慣れた。今更、何の感情も沸いてこない。
「瘴気の事は、今は気にするな。お前がどうこう出来ることじゃない」
ごくたまに兄は、ごく真剣な顔を見せることがあった。煽りには慣れたが、こういう兄の態度にはいつまでも慣れなかった。俺はそのたび、視線を泳がせた。
「あの日お前が余計な事をしていたのは、俺しか知らない。安心しろ」
「は……?何の……」
「この世界が変わり始めたあの日、お前があの戦場に居た事。災厄を呼び込んだことだ。元は妖怪の少女が死ぬことで収まるはずだった運命を変えたのは、お前だよ。
お前が、あの場に行くなんて言わなければ、世界はこんな風にならなかった。お上は運命を変えた犯人探しをしているようだが、その事実は俺が封印したからもう誰も分からないさ。だから安心していい」
次郎に衝撃が走った。運命を変えた?俺が?世界をこんな姿にしたのは、そして雪枝たちを追い込んだのは、他ならぬ自分だというのだ。
「嘘だ」
「嘘ではない」
「嘘だ……」
「運命を変えられるのは、神の力を持つ者だけだ。あの場で他に誰が居た?お前だけだろう。つまりは、そういうことだ」
世界の瘴気が喉に染みる。唾液を上手く飲み込むことが出来ない。
「俺も迂闊だったな。まさかお前があんなことをするなんて。……まぁいいか、せいぜい苦しめ、次郎」
くくくと、再び政久が笑った。相変わらず、いやらしい、不快な笑顔を浮かべている。
本当に、俺が変えたのだろうか。世界を巻き込んだのは、俺か?俺に本当に、そんな力があるんだろうか。
神の力が運命を変えたのだとすれば、確かにあの場に居たのは、あの場に居た鳶巣家の人間は、確かに俺だけだ。だが、そんな大層な力が俺にあるのだろうか。
「……無駄口はここまでだ。さぁ立て次郎、特訓の続きをするぞ」
俺は首を垂れたまま立ち上がった。考えがまとまらない。何かが、引っかかっている気がする。あの日、運命を変えたのは……。
◆◇◆
「は?私?」
「ほかに誰がいるのじゃ。お前が一番仲が良いではないか」
「まぁ私達が一番に行くのもちょっと気まずいし、出来れば雪枝くん筆頭で行きたいなって」
私達は、鳶巣家のある岡の入り口辺りまで来ていた。相変わらず家に篭って出てこない次郎に、私の復帰を伝えようと、ツキヒメが言い出したのだ。
「まぁ、いいんだけどさ……」
諦めるように私は、一本目の鳥居をくぐった。鳶巣家は呪術を代々続けていると効いた。そのせいだろうか。鳥居をくぐった途端、体中がピリピリと反応している。
「なんだ……?」
「どうしたの?」
「いや、急に体がピリピリと……」
「確かになんとなく空気が張り詰めているような……じゃなくて、ツキヒメちゃんだよ。ほら、早く行こ?」
振り返ると、ツキヒメが鳥居の前で二の足を踏んでいた。入ろうと鳥居に近づいては、何かを考えている。
「どうした?」
「いや、入ろうとしたんじゃが、これ以上進めん。一種の結界かの……。わしら妖怪の侵入を拒んでいるように思う。ふーむ……」
ああなるほど、ぴりぴりしていたのは結界か。私達人間に対しては、肌で異常を感じる程度の効力しかないのだろう。上手い事霊力を使いこなしている。流石は鳶巣家、といったところか。
「じゃぁどうする、キミはそこで待っているかい」
「いや、少し待っておれ」
そういうとツキヒメは小さな玉を取り出すと、地面に置いた。そして短めな呪文を唱えると、ツキヒメの体は、小さな玉の中へと吸い込まれていった。
「えっ、あれっ?わっ!」
春花がきょとんとした顔で驚いた後、玉へ近づこうとすると、玉を中心に小さなつむじ風のようなものが発生した。そこには、先ほどの玉を拾うツキヒメの姿があった。
「木偶の体では無理でも、これならば入れるじゃろう」
自信満々に「ふふん」と笑い、狐耳と尻尾をぴこぴこと上機嫌そうに動かしている。
「いやいや、それじゃダメだろう、退治屋の本拠地に入るのに、妖怪の姿で入る奴が居るか」
「大丈夫じゃ大丈夫じゃ、いざとなればぴゃっと逃げるわ。ぴゃっ!と。うっ……」
言いながら鳥居をくぐって階段を上ってくる。鳥居をくぐる際に少しだけ顔をしかめ、結界がパチパチと小さく閃光を放ったものの、そのままずんずんと進んできた。
「あぁ~……入っちゃった。知らないよ……」
「なにものだ!」
私が呆れて肩をすくめている所へ、早速、修行僧のような、はたまた変質者のような格好をした二人組がやってきた。
見たところ、筋力も霊力もそう強いとは思えない。大抵の妖怪が入れないような土地の警備にこの程度の人間を割り当てて、何か意味があるのだろうか。
ちょっとばかり強い人間や、結界に入ることが出来る妖怪には、これっぽっちも対抗できるとは思えなかった。かといって、私達もここで揉め事を起こす気はサラサラ無い。
「や、や、あたし達は別に怪しいものではなくって、その、ちょっと用事があっただけで……」
わたわたと慌てながら、春花が説明を始めた、が、混乱しているようで説明になっていない。
「急にすみません。私達は鳶巣次郎さんの友人なのですが、学校にも来られず、ここ最近会うことが出来ていなくて……。久しぶりに会おうと此方に伺ったのですが、ご迷惑でしたでしょうか?」
「そんな話は聞いていないが。それに後ろの妖怪はなんだ!」
「後ろのこいつは、私の式……下僕ですよ」
にやり、と笑ってみせ、ツキヒメの霊力帯を掴むと、二人組みに分かるよう腕を動かしながら、ツキヒメの霊力を少しだけ抜き取った。
「うっ!」
ツキヒメが悲痛な声を上げた。つられて春花がビクッと硬直する。警備の二人組みはというと、私の不敵な笑みに息を呑んでいた。
「ふ……はぁ……、げ……下僕……」
荒くなった息を整えながら、ツキヒメが小さな小さな声でつぶやいたのが聞こえた。無視して私は続ける。
「アポイントメントについては……すみません。連絡先が分からず、直接伺うしかなくて。日を改めた方が良いでしょうか?」
「うぅむ……」
二人組みは、口をつぐんでしまった。大方、自分達の判断の範疇を超えてしまったのだろう。下っ端だろうから、無理は無い。かといってここで待ちぼうけするのも退屈すぎる。
「ご判断いただけないのであれば、上までご一緒いただいて、そこで判断を仰ぐ、というのではいけませんでしょうか」
「んんん……」
「なんとかなりませんか?」
やっと落ち着いたらしい春花も、私に続けて追い討ちをかける。
「……」
全く持って埒が明かない。これだから思考停止の馬鹿は。そうやって実りの無いやり取りを暫く続けていると、見るからに大物らしい、醜悪な表情をした派手な袴と羽織の男が、のそのそと下ってきた。
「おい。うるさいぞ。何をやっている」
男は醜悪な顔をさらに醜悪にひん曲げて、此方一帯を高いところから見下ろすと、威圧的な声で質問してきた。
「すみません、私達は……」
「お前には聞いておらん!」
すかさず説明しようとしたが、男に遮られた。なんだこのクソオヤジは。今ここで、霊力空っぽのミイラにしてやろうかとすら思う、が、ここで揉め事を起こしてはならない。
ツキヒメも飛び掛ろうとしたようで、春花に制止されていた。
「で、何だ?こいつ等は」
「次郎様の友人と申しております」
警備の片割れが口を開いた。
「ほぉ、あれに友人が?あっあっあ……」
クソオヤジが不気味に笑う。
「……まったく予備の癖に生意気なことよ」
一転、表情を厳しく戻すと、恨み言を言うようにつぶやいた。ざわ、と、辺りの空気がクソオヤジの悪意に染まる。加齢臭を嗅がされているようで、心底気持ち悪い。
「ちょっと!」
次に声を荒げたのは、春花だった。ツキヒメが制止するよりも少し早く、春花は声を上げた。
「予備ってどういうこと?次郎くんの事を物みたいに……」
言いたいことがうまく言えないのか、そこまで言うと春花は口をつぐんでしまった。
「親が子の事をどう扱おうが勝手だろう。一般の人間が、我が鳶巣家の事情に口を出すのはなんとも無礼な事だな」
そういえば、鳶巣は神の使いなんだったか。余りの驕りっぷりに笑いが零れそうだ。自称神の使いが、一体全体如何ほど身分が高いというのだろうか。
傍から見れば、根拠の無い虚勢を張っているようにしか見えない。こいつ等は、余りに自分達の世界に篭り過ぎて、外の世界が全く見えていないのだ。
「次郎君の、お父さんなの……?自分の子なのに、物扱いしてるの……?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、春花がつぶやいた。愛の無い親も居たものだ。いや、これがこの親の愛なのかもしれない。だが、子にとっては堪らない。邪魔でしかない。
「……それで、私達はここを通していただけるのでしょうか。先ほどからこのお二人に聞いているのですが、答えていただけなくて」
クソオヤジの余りの馬鹿っぷりにこみ上げてくる笑いを必死に堪えながら、私はごく冷静そうに質問した。まぁ恐らく通してもらえないだろう。口では冷静に質問をしつつ、私はこの後どうするかについて考えていた。
「消えかけの、死に損ないの小僧が何を今更……。無礼で怪しい、お前等のような子供を通すわけが無いだろう。今すぐにここから去れ!」
ほらきた。だろうと思った。これ以上ここで粘っても無駄だ。権力はあれど、このクソオヤジは警備の二人よりも思考停止の馬鹿なのだ。しかし、「消えかけの死に損ない」というのはどういう意味だろうか。
私が死に掛けていたことをこいつ等が知るよしも無いだろうに。何かの眼力で見抜いたということだろうか。
「そうですか……。無理を言ってすみませんでした。それでは、私達は、これで失礼します」
「ふん」
くるりと方向転換し、二人の手を引いて階段を下る。クソオヤジへの鬱憤のせいで、二人を引く手に、知らず知らずのうちに力が篭る。
居心地の悪い空気だけならまだしも、こんな品性の無い人間の目の前には、もう一秒も居たくない。
「ちょ、ちょっと雪枝くん!」
「いいから」
問答無用で二人を連れて鳥居の外まで出ると、私は二人の手を離した。
「「むーかーつーくー!」」
春花とツキヒメが、そろって声を上げた。私も鬱憤が溜まっているものの、二人はそれ以上に怒りのボルテージが上がっているようだった。
「何アレ、ひっどい!あんなの、人の親じゃないよ!雪枝くんもそう思うでしょ!」
「雪枝!アレをこのまま放っておくのか?どうなんじゃ!」
二人が私に詰め寄ってくる。二人とも似たような表情で私に顔を寄せ、私の次の行動を待っている。流石の私も、女性二人に詰め寄られると、少し気後れする気がする。
「うん、ふふっ……ふふふふ……。まぁ、このままにしておく訳、ないよね」
「そうこなくてはな。流石は雪枝、話がわかるのう」
ボクサーよろしく腕を振り回しながら、ツキヒメがノリノリで私の行動指針に賛成する。
「しかしどうする、ここら一帯は、面倒な結界で守られているようじゃぞ」
「まぁ、壊せばいいんじゃないか。私達ならできるでしょ。この程度の結界。騒ぎになったらそれに乗じて乗り込めばいいさ。きっと、この付近の妖怪もみんな侵入すると思うよ。あの様子だと、きっと鬱憤が溜まってるさ」
此方を覗いている妖怪たちを指差す。皆私達の話に聞き耳を立て、うんうんとうなずいたり、落ち着き無く歩き回ったりと、浮き足立った様子だ。
「え、ちょ、ちょっと、何する気なの?そんなことしたら、次郎くんちが大変な事に……」
春花が割ってはいる。つい先ほどまで感情的になっていた春花は、私の言葉を聞いて、急に我に返ったらしい。揉め事はやめようと、私たちに詰め寄ってくる。
「のう、春花」
「え……え?」
「あの家は、次郎にとって居心地が良いと思うか?次郎にとっての家と言えるじゃろうか?」
「うんと……でも、あんまりそういうことはやらないほうが良いって言うか、危ないっていうか……」
「まぁ、私個人の意見としては、あの一家には外の世界を知ってもらったほうが良いと思うよ。アレじゃ、完全に井の中の蛙だし、今後次郎がどれだけ苦労することか、想像に難くない」
「うん、うん、分かるんだけど……でも……。でもなんか、人としてなんかやり方が荒っぽいというか、もっと穏便な方法を目指すべきというか……」
「わしは人ではない」
「私は人だけど、こういう荒療治も必要だと思うよ?」
「そう、かな、そうかも……しれないね」
納得したのかどうか分からない。春花は私たちに気おされて、そこで口をつぐんでしまった。
「今日今ここで行動を起こすのは、私達がやりましたと宣言するようなものだし、日を改めよう。そうだね……来週またこの場所で……ちょっと危ないから、春花さんは来なくてもいい。
無理にとは言わない。来てくれるなら……そのときは一緒に次郎に会おう」
辺りの妖怪たちから喝采があがる。
「乗った。わしも出来る限りの用意をしてこよう」
「いいの、かなぁ……」
春花だけが、未だ悩み続けていた。
第11話:罪の意識
「春花は来ていないんだね」
「うむ」
万事、想定どおりだ。今回の事に、春花を巻き込むつもりは無い。私はわざとらしく残念そうなため息をついた。
「仕方ない。私とツキヒメ、それにこいつ等で、ちょちょいとお灸を据えてやろう」
「いまさらじゃが、本当にやるのか?」
「まぁ、次郎に会っておきたいしね。このままじゃ、顔を見ることすら叶わないでしょ」
「うむ……」
怖気づいたか、それとも春花がこないことに何か思うことがあるのか、ツキヒメは私の行動に疑問を呈してきた。こいつは、誰かの賛同なくして、行動することが出来ないのだろうか。
さて。
「皆、先に釘を刺しておくけど、今日行うのは殺戮ではないよ。あくまで、ちょっと脅かしてやる程度だ。ここは私の友人の家だ。余り派手にやられては困るからね」
妖怪一同からブーイングが上がる。
「テメェ、俺達が言うこと聞くと思ってんのか?俺くらいの上級妖怪になりゃ、弟居なきゃお前は大して怖くないんだぜ?」
ずかずかと、和服を着崩した妖怪が前に出てくる。そうだそうだと同調する中級以下。
「本気で言ってる?なんなら今、ここでどちらが強いか明らかにしておこうか?」
ギロリ。脅すようににらめつけた。が、何も動じていない。流石に本気か。
「おい、ちょっとまて雪枝……」
「ツキヒメは黙っていなよ」
私の言葉を受けて口を紡ぐツキヒメ。だがその口元は、だらしなく緩んでいるようだった。
先ほどの妖怪はというと、どうやらすでに準備万端のようだ。爪を伸ばし、眼球を血走らせ、息荒く此方をまっすぐに見ている。
「死ね!」
妖怪が大きく爪を振りかぶる。私は体に霊力の鎧を纏わせ、それを受け止めた。ざわ、と、妖怪たちがざわめく。
「ふふ、驚いた?」
私は、もう一方の手でゆっくりと相手の首を掴み、霊力を注入した。妖怪の瞳が、赤から紫へと変色してゆく。
「うご……けねぇ……」
「どうしちゃおっかなぁ……?」
つん、と相手の体を突く。
自由を失ったその体は、そのまま地面にドサリと倒れ込んでしまった。もう暫くの間は、食指一本動かすことは出来ないだろう。
「他にもやりたい奴はいるかな?」
再びざわめく妖怪たち。しかし、我こそはと声を上げるものはもう居なかった。
これで、私に逆らう奴はいないだろう。私は早速、本来の予定に取り掛かることにした。
結界に触れ、力を吸収する。こんなやり方では、並大抵の力ではびくともしないだろう。
だが私は違う。先日ここに来た際にも感じたが、この程度であれば、ツキヒメの力のほうが強いくらいだ。私にどうにか出来ないものではない。
結界は見る見るうちに壊れ、守られていた鳶巣家は、さながら餓鬼の目の前に放りだされた肉ように、無防備にその姿を晒していた。妖怪たちから私に対するおべんちゃらが放たれる。ついつい私も気分が高揚し、少しだけ、息が荒くなってしまった。
「ふふ、いいかい。あくまで殺さず、脅すだけ。だけどきついお灸を据えてやろう。お高いところで踏ん反り返っている汚い汚いオッサンに、世界というものを分からせてやる」
「みなの衆分かったな?決して殺してはならんぞ。間違いを起こした者は、この雪枝の養分となること、よく覚えておけ!分かったならば突入じゃ!」
私の参謀になったかのように、ツキヒメが声高らかに叫ぶ。妖怪たちが一斉に時の声を上げると、次々と鳶巣家領地へと飛び込んでいった。
「手馴れてるね」
「ふ……まぁ、当然じゃ」
さて、これで準備は整った。妖怪たちを巻き込んだのは、陽動のためだ。私の本当の目的は、次郎に会い、無事を伝えてやること。あいつの事だ、思いつめて、勝手に一人でふさぎ込んでいるに違いない。次郎をそんな状態で放置することに、私は抵抗を感じていた。
そこらじゅうで、悲鳴やらなにやら、色々な音が上がり始めている。つかみとしては申し分ない。この調子なら、上手くいくこと間違いなし、だ。
「いくよ、ツキヒメ」
「うむ。行こう」
周りの音を聞きながら、人目につかない場所を選んで疾走する。どうしようも無ければ、私が霊力帯を掴み、力を抜いて気絶させるか、ツキヒメの術で隠れて、やり過ごしたりした。
「ん、居たね次郎。あそこ、あの家の隅辺り」
「どうして分かるんじゃ?」
「ほら、霊力の帯がちらちら見えてるでしょ。分かりづらいけど、あの色、次郎じゃないかな」
「んん?何も見えんぞ?」
ツキヒメも見えていないのか。どうやら私に見えているコレは、妖怪にも見ることの出来ないものらしい。
やはりもしかすると、例の「神の力」というものなのかもしれないなと、次郎のものと思われる霊力帯を見て考えていた、その時。
「むっ!」
バチン!ツキヒメが扇子で何かを跳ね返した。
その先には、これまたいけ好かない表情の、眼鏡をかけたインテリそうな男が、鳶を従えて不機嫌そうに立っていた。
「妖怪どもをけしかけたのは、お前らか」
インテリ男は護符を二、三枚懐から出しながら、そう話しかけてきた。
「だったら、何?」
「タダでは済まさん」
言うや否や、護符を私達めがけて飛ばしてきた。咄嗟に二人で身を寄せ身構えたが、それらはぐるぐると私とツキヒメの周りを飛び続けているだけで、何もしてこない。
「意図を聞こうか」
インテリ男は眼鏡の位置を正しながら歩み寄ってきた。相当の実力者なのだろう。仕草から自信が見て取れる。傍らに寄り添っている鳶の眼光も、今にも私達を食い殺すかというほどにギラギラと輝いていた。
「アナタが何者なのかを教えてくれたら、私も、答える、かも、しれませんよ」
私はインテリ男に向かって、挑発するようににやりと笑って見せた。
「生意気だな」
男は護符をさらに引き出し、構えを取った。すかさず私も身構える。
「脅しは効かないよ」
体に霊力を込める。今の私ならば、晴地のように霊力を行使できる。奴の術が多少達者でも、負けたりはしないだろう。
「おい、雪枝、騒いだら全部水の泡じゃぞ」
「ん、ああ、別に、ちょっと脅かして、そしたら撒くさ。お前は私についてくればいいよ」
「んっ……分かった。わしは雪枝についてゆこう」
少しだけ嬉しそうな顔をしたツキヒメは、数歩下がり、私の後ろについた。
「大口叩くじゃないか。この私を撒く?ほう」
インテリ男は手にしていた護符を天にかざした。すると辺りが囲まれ、外界が陽炎のように揺らめいて見えるようになった。
「結界じゃな」
「わかってるよ」
私は自分の体に更に霊力を纏わせた。このまま間合いを一気に詰めて、横隔膜に一撃決めてやろう。私はそんな風に考えていた。
「ツキヒメ、ちょっと避けてろ」
「うむ」
少しだけ目を逸らした瞬間だった。私の顔を、ツキヒメの髪を、あの大きな鳶の攻撃が掠めた。そしてそれに続き男の連撃が放たれた。流れるように、鳶と男の攻撃が波状に迫ってくる。
想像以上に手ごわい、だが私はこの程度で負ける気は無い。敵の攻撃の間をぬって、素早く間合いを詰めてゆく。
「そら!」
「ふっ…」
拳を突き出す。しかしインテリ男は不敵に笑った。
わたしは拳を突き出したまま、身じろぎすら出来なくなった。インテリ男の「罠」が発動したのだ。奴は連撃を繰り出しながら、罠を仕掛けていた。
「雪枝!」
ツキヒメが叫び、そして飛び出してきた。扇子を広げ、体を簡易結界で覆いつつ、攻撃の術らしきものを唱えている。
「次はお前か。だがお前等程度のクズが何人来ても変わらんぞ」
「誰がクズだ……!」
何故だか、とても気に障った。たったそれだけの一言が私を激昂させた。世界がぐるぐると回り始める。気持ち悪い。頭が痛い。
「誰がクズだ!誰に向かって言っている!」
私は拘束を振り切ると、相手に向かって大声で叫びつけた。それに反応して、ツキヒメは術を止め、私が言いつけたようにもう一度物陰に身を潜めた。
「自覚があるから、そうやって叫ぶんじゃないか?」
相変わらずの不敵な笑顔と口調で語る。全てが気に障る。もう、我慢できない。
「殺す!」
人間だろうが関係ない。私が不要だと決めたのだ。この人間は、この世界に必要ない。私が生きている世界に、こんな奴は生かして置いてやるものか。私が前進すると、いくつもいくつも罠が発動した。
先ほどの拘束と同系だったが、私には聞かなかった。発動と同時にそれらを打ち破りながら、相手の居るほうへと前進してゆく。
「なんだと……?」
男の表情が始めて焦りを見せた。私はその隙を逃さず、霊力で鞭を作ると、思い切り男を殴りつけた。
確かな手ごたえ。肉にぶつかった鞭の衝撃音と、骨が折れた鈍い音が聞こえた。
「うぐっ……」
男は壁に打ち付けられ、しりもちをついた。あの鳶と結界は、いつの間にか消えていた。おそらく、実体化するためには奴の霊力が必要なのだろう。
「ははは!」
もう一度鞭を振り、今度は逆方向のアバラを砕く。人をいたぶるのも、なかなかに楽しいものじゃないか。私は楽しくなり、クククと、含み笑いをしていた。
そして、もう一度大きく振りかぶった。
「止めろ雪枝!そいつが死んでしまうぞ!」
そこへツキヒメが飛び出してきた。
「うるさい、お前は黙っていろ!私が不要だと決めたんだ。こいつは今、ここで殺す!」
「止めろというに!」
私の腕にしがみついたツキヒメが止めるよう懇願する。私はそれを大きく振り払い、キッと、ツキヒメを睨んだ。
「邪魔だ、ツキヒメ。お前にはおとなしくしているように言ったろう。言うことを聞けないのか?下がっていろ!」
更に激昂した私は、ツキヒメの眼前でもう一度大きく怒鳴った。
「お、お前は……」
急に、ツキヒメの表情が、普段私に向けられる好意的なものでは無くなった。
そして、とても、とてもか弱い生き物のように、そこにぽてりと座り込み、カタカタと震え始めた。私はというと、ツキヒメとは対照的に、先ほどよりも一層力がみなぎってきていた。
「さて……」
男は此方をにらんでいた。まだ意識があるらしい。まぁそう簡単に死なれても、面白くないというものだ。実に結構。
「お前、何処から現れた。何者だ……?」
男が訳のわからないことを口走る。
「何を言っているんだ、気でも狂ったのか?私はずっとお前の目の前に居ただろう」
私は男の頭を掴み、持ち上げた。
その時、私の背中に、とても強力な衝撃が打ち込まれた。
「その人間を離すのじゃ、そこの者!むやみやたらと人間を殺してはならぬ!」
それは、ツキヒメの攻撃だった。だがその強力な一撃も、今の私には効果は無かった。
「ツキヒメ。私は、おとなしくしていろと、そう言っただろう!」
私はツキヒメの霊力帯を掴んだ。そして、一度に力を吸い上げた。その瞬間、ツキヒメは魂が抜けたようにその場に倒れ、だらしなく唾液をたらしながら痙攣を始めた。
「お前もその生意気な目は何だ。私に向かって何のつもりだ?」
男の頭を持ったまま地面にたたきつけた。流石のインテリ男もついに気を失い、その場で気を失った。虫が鳴くような音が、口から響いている。これが虫の息という奴なんだろう。
「あっははははは!私の勝ちだ!」
「兄貴!」
聞き覚えのある声が響いた。それは次郎だった。インテリ男に駆け寄ると、庇うように抱えながら此方をにらみつけた。
「次郎……の、兄だったのか」
「誰だ、お前、何をしにきた」
「おいおい、いくら久しぶりだからって、そりゃないよ。私は──」
私は。
私は。
私は。
名前が出てこない。
再びめまいがした。そして、悪い予感がした。
このままここには居られない。直ぐにどこか遠くへ逃げなければならない。
私は咄嗟に瀕死のツキヒメを担ぎ、ぐっと、足に力を込めた。
「あ……!おい!狐娘を置いていけ!」
次郎が叫ぶ。だが、一刻の余裕ももてなくなった私は、次郎に声を掛けることもせず、全力で地面を蹴り、全力で逃げた。とにかく遠くへ、遠くへと、私は逃げていった。
◆◇◆
「ツキヒメ。おい、目を覚まして。ねぇ」
山をいくつ越えただろうか。私は知らない土地で、力尽きたツキヒメの体をゆすっていた。
霊力の帯が無い。そして、ツキヒメの体は徐々に消えかかっていた。助けるには、どうしたらいい。私の霊力を注入してよいものだろうか。
私の力を入れてしまっては、以前クチガネにやったように、相手にダメージを与えるだけではないのだろうか。
……なんて馬鹿な事をしたんだろうか。
何でツキヒメの力を全て吸い上げてしまったのだろうか。何であれしきの事で激昂したんだろう。私はそんなに短気だったろうか。
ツキヒメの体は、もう半分くらいまで半透明化していた。もう、これ以上放置できない。助けられる人は誰も居ない。一か八か、私の霊力を注入するしかない。
「くそ……!」
私はできるだけ丁寧に、ツキヒメが苦しまないように願いながら、ゆっくりと力を注入した。
すると、ツキヒメの体は、クチガネがそうなったように、紫色に侵食されていった。しかし、確かに、体の半透明化は止まり、それどころか少しずつ、実体が戻ってきているようだった。もしかしたら、このまま続ければ助かるかもしれない。
「うっ……くふっ……あぁっ!」
ツキヒメが苦しそうな声を上げた。咄嗟、私は力を緩めた。やはり、駄目だったのだろうか。
「あ……雪枝……。またお前に助けられたのか……。これは、お前の霊力か……?んんっ……!」
再び苦しそうにするツキヒメを見て、私は霊力の注入を完全に止めた。するとツキヒメは此方の手を取り、痺れてしまうような甘い目線と声、荒い息遣いで、此方に訴えかけてきた。
「よい、止めんでよい。……そのまま、続けてくれんか……?」
「ん、わかった。続けるよ」
今まで見たことの無いツキヒメの姿に動揺した私は、少し目線を逸らしながら、再び、そっと力を流し始めた。
ツキヒメは一瞬顔をしかめ、私の手を少し強めに握ると、時折うめきながら、そして息を荒くしながらも、少しずつ回復していった。私はそのまま暫く、力を流し続けていた。
カラスが鳴き始めた頃、ツキヒメはやっと体力が回復したようだった。一際大きな声を上げた後、私が霊力の注入を止めると、ツキヒメは力が抜けたように、静かな呼吸を始めた。
ふと、ツキヒメの顔を覗くと、辛いのか、それとも何かが恥ずかしいのか、ツキヒメは目を閉じたまま顔を真っ赤にしていた。私はそれを見てとてもいたたまれなくなり、ツキヒメの頭に手をおくと、「ごめん」と呟いた。
ツキヒメは何も言わず、片目だけ開けて私の顔を少しの間見ていた。その後いつもの強気な目線に戻ると、赤い顔のまま、「よい」と言い、もう一度、ぎゅっと、私の手を強く握った。
辺りはもう暗い。消耗したツキヒメを連れてこれから家に帰ろうとするのは無謀だろう。だから私達二人は、近くに見つけた風を遮れそうな小さな窪みで、一夜をやり過ごすことにした。
大人なら二人も入れそうにない場所に、やせっぽっちな私達は更に小さく体をちぢ込めると、二人で身を寄せてくぼみに寝転んだ。
とても寒くて、暖かい夜だった。
第12話:消える
次の日、私はツキヒメとは早々に別れ、そのまま一人で無事自宅までたどり着いた。
ツキヒメの事だ、私を家まで届けるだとかお節介を焼くかと思ったが、驚くほどあっさりと、むしろ突き放すかのように別行動について了承した。
このとき私は「心変わりの激しい奴だ」程度にしか考えていなかったが、事はそんな生易しいものではなかった。俺は今、家の自宅の玄関で、晴地と押し問答をしていた。
「だからさ、私は雪枝で、晴地の兄でさ……冗談じゃなくて、本当に分かんないの……?」
「しらねーよ!俺に兄は居ないし、お前の名前は知らない、顔も見たこともねぇ!いい加減にしないと警察呼ぶからな!」
「どうしたら思い出すかな……」
「また何か言ったか?」
「いや、なんでもない……」
聞こえないくらいの小声で呟いたつもりだったが、霊力で強化された晴地には聞こえたようだ。私は慌てて訂正した。そして、一部の隙無く私を睨み付け続ける晴地を残し、その場を後にした。
気のせいだと言い聞かせ、気づかない振りをしていたが、このところ感じていた違和感はやはり本当だった。……私は今、それをはっきりと認識した。
晴地が、私を忘れている。いや、晴地だけじゃない、他の人間も、妖怪も、きっと、全てが私を忘れようとしている。世界に忘れかけられている。
まるで、妖怪に食われた人間のように。
そう、ツキヒメが別行動を了承したのは、私の事を忘れていたからなのだ。今の今までこの世に存在していた雪枝という存在は、居なかったことにされてしまう。
恋人も、仲間も、居場所も、思い出も、私の記憶を除き、全てが初めから無かったことになる。
「忘れられたとしても、生きていればもう一度やり直せる……筈もないか。はは……」
住む場所もない、何の身分も無い男を、誰が受け入れるだろうか。誰が、信用するだろうか。中にはお人よしも居るだろう。春花だってその一人だと思う。
だけど、向けられる視線は、思いは、今までの私に対するものとは全く違うだろう。
どうやっても、元通りになんてなれる訳が無い。死ぬのを怖いと思ったことはなかった。だがどうだろう、生きたまますべてを失うというのは、こんなにも恐ろしい。
「どうした……もん……かな」
行くあてを失い、私は途方に暮れていた。いや、途方に暮れるなどという呑気な心持ちではなかった。いかにして私の存在を世界に蘇らせようかと、必死に考えを巡らせていた。
春花のところに行っても同じだろう。それに、最愛の人に忘れられている現実を今突きつけられたら、私の心が折れてしまいそうだ。ただでさえ、本当の意味で家族だと信じている晴地に忘れられて、こんなにも暗鬱な気持ちだというのに。
「次郎とツキヒメも、きっと忘れているだろうなぁ」
ぼそり。次郎もツキヒメも、最早誤魔化しようもなく、私の中で大きな心の支えとなっていた。今こそ頼りたいが、まさかあの二人も覚えているハズは無いだろう。
「あ」
ウワサガリ。あいつなら、事実改変の力をもった奴なら、私の事も覚えているのではないだろうか。それどころか、この状況に陥った原因や対策も分かるのではないだろうか。
そういえば、ツキヒメを助けに行ったあの事件から、姿を見ていない。
一体、今何処に行るのだろうか。考えてみれば、奴のことに興味を持たなかった私は、普段なにをしているかとか、何処にいるかといった情報の一切を保持していない。これでは、見つけることすら困難だ。
私はいつか春花が動物達とじゃれていた土手に座り込むと、ぼうっと、目の前を流れている白竜川を眺めていた。案はなにも出てこない。また、時間が解決してくれるかも知れない。
しかし、思い出してもらえたとしても、すぐまた忘れられてしまうかもしれない。
そうやって膝をかかえていると、わらわらと、妖怪達があつまってきた。普段は私にこぞって近づいてなどこないというのに、こういう時ばかり目障りな奴らだ。……ああ、こいつらも私を忘れているのか。
「おまえさん、どっかからの流れもんかな」
一際年寄りそうな妖怪は、モタモタと私に近づくとそう言った。
「私が、妖怪に見える?」
「いや、人に見える。ほいでもその尋常じゃねぇ妖力は、人のそれでは無いと思ってな」
「なるほど」
最早悪態をつく気力すら沸かなかった。私はため息混じりに受け答えると、そのままその場に居座り続けた。
「なんか困っとるなら力になるで、話してみいよ。この際人でも構わんぞ」
全くお人好しな。最近こういう妖怪によく出会う。
……そうだ、妖怪だからといって、すべてが自分勝手であるハズもない。人も妖怪も、ただそのそれぞれの個が、親切だったり、勝手だったりするだけだ。本来、妖怪だからと毛嫌いするものでもない。
傷心状態の私は、嫌いに思っていたはずの妖怪ですら、受け入れられるようになっていた。そして私は、妖怪の優しさに絆されるように、これまでの経緯を語った。
「なるほどな」
一通り話し終えたあと、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。大きな体が私の隣に移動し、そして、そのまま座り込んだ。
声の主は、クニモリだった。思いがけない大妖怪の登場に、周りの妖怪達はいくらかが散っていったが、それでもやはり気になるのか、殆どはその場に残り、私とクニモリ二人を見つめていた。
「……あれ、お前は私のことを覚えているのか?」
私は、驚きを隠せなかった。てっきり誰もが私を忘れていると思っていたからだ。
「覚えている。だが他に覚えている者はおらんかもしれん。某の娘も、お前を覚えておらんかった」
ここにきたのは、ツキヒメの様子をうけてのことらしい。珍しく言付けもなく朝帰りし、その上理由を聞いても道理が通っておらず、また本人さえ、分かっていない様子だったということだった。
私の事を聞いても覚えていなかったことから、私の周りでまた何かがあったのだろうと考え、霊力を頼りにここまでやってきたのだとか。
「……どうしてお前は覚えていられるのさ?」
「神の力かもしれん」
また出た。神だ。鳶巣家と同じように、こいつも神を信奉しているらしい。思考停止ともとらえられるその回答に、私は心底失望した。
「話にならない……」
「疑っているようだな。無理もないが、神というのは、実際に存在する。……某も、もう長いこと会っておらんがな」
クニモリは、神に会ったことがあると語る。にわかには信じがたいが、この状況で、それもこいつのような堅物が、嘘を言うようには思えなかった。少なくとも、自分の事を神だと言い張る存在は居るのだろう。とても強大な妖怪なのかもしれない。
「……その神に頼んだら、私のこの状態もなんとかなるのかな」
「いや、恐らくそれはない。出来ないか、出来てもしないのだろう。その願いが叶えられるようならば、今頃、某も困ってはおらん」
何だ、神というのも思ったよりも万能でないらしい。今日はなんと失望の多い日だろう。
「お前も、何か困っているのか」
「うむ、どうしても今全てを語る事はできんが、某にも解決しなければならない大きな問題が一つある。お前の問題と類似した問題だな。いや……」
クニモリの目がこちらを鋭く睨んだ。思わず身構えるとクニモリはすぐに視線を戻した。
「案外、原因は同一かもしれん」
「ふぅん……」
「お前は」
「ん?」
「ヨヤモリを知っているのか」
「いや」
「では、セッキは」
「いっ……!」
クニモリがその名前を発言した瞬間、私の頭に、以前走馬燈をみた際に感じた頭痛が起こった。何処かで聞いたような響き。私は何処かでセッキを知っている?
「ふむ、やはり、なにか関係がありそうだな」
「知らない。いや、覚えていない……。そのセッキっていうのは、なんなんだ?」
「雪枝、お前は、人間がどのようにして霊力を行使出来るようになるか、知っているか?」
「知っている」
たしか、妖怪に興味を持たれればよいのだ。以前、次郎に教えてもらった。
「ならば話は早い。お前とお前のその力の持ち主、それがセッキだ。おそらくな」
「どうしてわかるのさ」
「お前の霊力が、やつのそれと瓜二つだからだ。お前も感じたのではないか?戦いの際、あのクチガネやオロチ、紫色の靄から」
あの時、何処か懐かしいような、引き寄せられるような感覚があった。それがクニモリのいう「感覚」というものだろうか。
それにしても、あれがセッキだとすれば、余計わからない。
もっと印象の薄い妖怪ならまだしも、あいつがセッキで、私の力の所以だというなら、私が過去に出会って、何らかの縁を結んでいるというなら、忘れるとは思えない。そもそも、再会した時点で思い出しそうなものだ。
「そしてそのセッキは、元々ヨヤモリという名の存在だった。某が抱えている問題というのは、それに関連しておるのだ」
「今日はやけに語るね」
ちらりとクニモリの顔を覗く。心なしか、クニモリは何処か寂しそうな表情をしている、そんな風に見えた。
「そうだな、少し話しすぎた。今日はこのくらいにしておこう」
そういうと、クニモリは膝に大きな手を添え、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっとまって、私はどうしたらいいんだ」
「そんな物は知らん。知らんが、分かったら教えよう。お前も何か分かれば、某に伝えてほしい」
当然か。こいつも、何もわかっていないのだ。
「……わかった」
「それでは、またな。鬼断ち兄弟、兄の雪枝よ」
「なんだよかしこまって」
「ふ……。なんでもよかろう」
次の瞬間、クニモリは一瞬で視界から消え去った。なんとも異常な程の速さ、そして霊力だ。
「行ってしまわれたなぁ」
静かに話に耳を傾けていた、先ほどの老妖怪が呟いた。
「うん。まぁ、急がしいんだろ」
「わしらは力になれそうにもないわ」
「っふふ、いいよ、そこまで期待してないから」
今の私は人間の世界から外れた存在だ。妖怪達に、なんとなく仲間意識を感じた。妖怪に仲間意識を感じるなんて、私の考えも変わったものだ。
これは人の強さか、弱さか。全てを失うと、人は何かを許容せずには居られなくなるのかもしれない。
それから私は一日掛けて、覚えている限り、皆で過ごした場所を足早に巡った。
大入道にでも乗らなければ半日も掛かる場所だろうと、今の私にとっては「すぐそこ」だったし、そもそも私はさほど遠くには行かない性質だったので、一日で回りきることが出来た。
だが、そこに私の存在を元のように世界に思い出させるためのヒントは、落ちていなかった。
「そう簡単にはいかない、か」
考えてみればこの程度の事、あのクニモリがとっくにやっているだろう。今更私が軽く見回ったところで、見つかるはずも無い。
私は携帯電話を見た。誰かが私を思い出していれば、メールでも入れているだろうと考えたのだ。だが、そこにはメールどころか、電話帳の登録一件すら、残っていなかった。
なるほど、関係性が絶たれれば、こういうところにも変化が及ぶらしい。完全に忘れられれば、この携帯電話自体が消えてなくなってしまうのかもしれない。
そうすると服などはどうなるのだろうか。急に裸になるのだろうか。
それ以上は馬鹿らしくなり、私は考えるのを中止した。
物がどうこうなるのは、後でどうにでもなる。問題は、私が忘れられること、それ自体だ。その後の事はどうでもいい。
「しかし、今回は長いな……。今までは、長くても数十分くらいのもんだったろうに」
秋特有の乾いた夕暮れ。流石に、体も冷えてきたようだ。もしかして、このまま完全に忘れられてしまうのではないだろうか。
私は片手に携帯電話を握ったまま、この世から消えていない最後の感覚を握り締めたまま、かつてツキヒメたちの集落があった場所を放浪していた。
「確かここで、ツキヒメを庇ったんだよね」
急に体が動いて。クチガネにやられそうなツキヒメを庇って刺されて、そして力を吸い取られて。あの後、一体どうなったんだろう。
全員が無事な事を考えると、奴等はあのままおとなしく帰ったのだろうか。それとも、誰かが助けに来てくれたのだろうか。
地面には、いくつもえぐられたような跡が増えていた。奴等、セッキ一行がそのまま帰ったとは考えにくい状態だ。
もしかすると、あの後奴等が行ったことで、私の存在が世界から薄れてしまったのでは無いだろうか。いや、おかしくなったのはあの日からなんだ。私には、もう、そうとしか考えられない。
「不愉快だ!」
怒りに任せ、体に力を込める。そして空へと飛び上がると地面に向けてその巨大な霊力を放った。
霊力は地面に触れた途端にはじけ飛び、奴等のものと思われるその痕跡もろとも、その場のもの全てを無に還した。
何も無いクレーターとなったその場を見て、私はまた、世界に忘れられる、消える恐怖を感じた。
「何でさ……」
まっさらになった地面に腰を下ろし、膝を抱えて座った瞬間だった。
手にした携帯電話が次々と着信音を鳴らした。メールのマークが表示され、その隣に「+」と書かれている。未読メールが9通を超えて、数字で表示できなくなったしるしだ。
安堵感に手が震え、上手くボタンを押せないで居ると、今度は声が轟いた。
「みつけた!兄さん!」
直後空から落ちてきた晴地が、駆けつけたヒーローのように、ダイナミックに着地を決めた。
「ごめん、なんていうか、ごめん、兄さん……」
霊力を纏った晴地が、私の腕を引き、立たせ、そして抱きしめる。
晴地自体、震えているようだった。この様子からすると、「忘れていたこと」は覚えているらしい。
それは、確かに恐怖だろう。理由も無く、近しい一人の人に関する人の記憶がすっぽりと抜け、その上追い返し、そしてその人間が普段の生活圏から居なくなっていたのだ。
もう、二度と会えないと思ったのではないだろうか。私はそんな晴地の事を不憫に思った。そして、同じように、春花や、次郎や、ツキヒメも感じているのだろうと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめん、ありがとう。うちに帰るよ。皆にも、メール返さなきゃ……」
「わるくねぇよ!」
目に涙を一杯に浮かべて、晴地は言った。
「兄さんは悪くねぇ!」
「でもお前も悪くないよ」
「でも……」
愛されているんだなと、そう感じた。家族愛、兄弟愛という奴か。やっぱり、私は忘れられたくないなと、一層強く感じた。
「いいから帰ろう」
「うん、分かった。夕飯できてるから、サッと帰ろう」
「ふふ……ここから自動車もなしに直ぐ帰ろうなんて言えるの、私達兄弟くらいだよ」
「あっはは、確かにそうかも。変なの」
そして二人そろって霊力を纏うと、夕暮れ時の彗星となって移動した。
第13話:刹鬼ヨヤモリ
紫がかった空の下、3メートルほどはありそうな大きな狐妖怪と錆びた刀を何本も携えた、青白い顔の男。そして七つ頭の龍が集っていた。
「ヨヤモリ様、只今戻りました」
ヨヤモリと呼ばれた大狐は、椅子の形をした大岩に座ったまま、頬杖をつきつつそれに応対する。
「してクチガネ、どうだ、やはり私の勘は正しかったろう」
「はい、あのクニモリなる狐妖怪、間違いなく貴方様の魂の欠片を隠し持っているようです」
ヨヤモリの口元が喜びに歪んだ。
「なるほど、我が失われた魂の一部、やはりこの世に現存していたか。ははは」
「では私めが奴を滅し……」
「いいや、はは……よいよい、奴も楽しんでいるのだろう?絶望の化身、刹鬼と呼ばれたこのヨヤモリの魂を喰い、その力を振るうことを楽しんでおるに違いない。
そういった欲望にまみれた者は好きだ。しばし泳がせよう」
クチガネの言葉を遮ってそう語ると、大狐はその大きな口をさらに大きく裂き、大笑いした。辺りの瘴気がうねる。ヨヤモリの感情に作用するようにうねる瘴気は、
流石のクチガネやオロチにとっても少々辛いものがあり、クチガネはほんの軽くだが、顔を歪ませた。
「しかし……」
「よいのだ、その気になればこの私が殺せばよい。お前は奴を相手に鍛錬でもしておれ」
「その結果、殺してしまっても……?」
「それは哀れな。だが仕方ない」
にやり、とクチガネから笑みがこぼれる。なんだ、結局は殺してしまえばよいのだ。そしてその魂を手土産に、主の下へと戻ってこよう。
「承知、いたしました」
「それよりも」
失望の表情をしつつ、ヨヤモリは視線を七つ首の龍、オロチに移した。
「神話を元に作ってみたものの、上手くはいかんな。もっとこう、賢く、貪欲なものになる筈だったのだが、これではただの手の付けられない猛獣だ。使い物にならん」
ヨヤモリは、呻き、暴れようとするオロチを術で拘束した。大きな体と凄まじい力を持ち合わせるこのオロチモドキも、ヨヤモリの術にかかっては、身動き一つ取れない。
オロチモドキは抵抗が無意味だという事を察すると、次第におとなしくなっていった。
一同が沈黙しきり、沈黙を打破しようと、クチガネがその頭を悩ませているところだった。ふよふよと、小さな老人のような仮面の翁が突如現れた。ウワサガリだ。
「ほほほ……なにやら楽しそうですな」
「……!」
クチガネは無言で刀を抜くと、冷や汗の流れる顔に薄ら笑いを浮かべながら、ウワサガリの首元にその刃を突きつけた。
「何用か」
石の玉座に鎮座したままヨヤモリが問いかけると、老人は、やや芝居がかった口調で饒舌に語りだした。
「怪しいものではございません。……貴方様のうわさを聞きつけ、なにやらとても面白そうだと、こういう風に考えましてな。それはそれは暇をもてあましておりました私めは、これはまた
楽しそうだと、此方へ伺ったという訳でございます。ほほ……私も、貴方様のお仲間に加えてはいただけませんかな?こう見えて、なかなか役に立つとは思いますが」
反応したのはクチガネだった。クチガネは、思い出したのだ。この老妖怪が、あのクニモリやその仲間達と共に行動していたことを。何を企んでいるかは知らないが、主に何かあってはいけないと、凄んでみせた。
「これはこれは、クニモリとかいう似非大妖怪の取り巻きか。またこのような場所まで来て何のつもりだ?ヨヤモリ様の隙を付こうとでも考えているのなら、それは諦めることだ。ただシツコイだけのオマエタチに出来ることは、なぁにもなぁい」
だが老妖怪はそれに物怖じすることなく応対した。
「いえいえ、何もする気はございませぬ。そもそも、私めがあやつらと共に居りましたのは少々気になることがあっての事……元々仲間意識などというものは持ち合わせてなどおりません。
私が何か、危害を加えたことがありましたかな?あやつらを守ったことがありましたかな?」
クチガネは狼狽した。確かに、こいつはただ見ているだけだった。奴等の仲間というには、あまりにも協力性がなさ過ぎる。あの人間達が食われていたときも、ただ見ているだけだった。
この老妖怪の言うことは真実かもしれない。しかし、いまひとつ信用が置けない。
クチガネとウワサガリの様子を静観していたヨヤモリだったが、クチガネの様子を見かねて、仕方のなさそうな風に、その口を開いた。
「まぁおちつくのだ、クチガネ。その者の話、信じても良い、見たところ大した力もなさそうではないか。万、が、一、にも、寝首をかかれることすらなかろう。お前も、無論私も。
しかし、だ、ご老体。あなたに一体何が出来る?どうにも我等に利益があるとは思えんのだが」
ヨヤモリは再び笑顔を見せた。相手を見透かすような不敵な笑顔。しかし、悪意と余裕に満ちたその顔を前にしてもなお、ウワサガリはうろたえない。
「はい、私には、経験と、知識がございます。それゆえに知りえる事が山ほど……。そうですな、たとえば貴方、精神的余裕があるように見せかけてはおりますが、内心、どうですか、ほほ……。
魂から沸きあがるその衝動、欲求、抑えるのはさぞ辛いと見えますがな」
大胆不敵なウワサガリの指摘に、ヨヤモリの表情が険しくなった。ウワサガリは、それを見逃さない。主導権を握ったことを確信すると、話を続けた。
「貴方の魂は常に何かを欲しております。漠然とした「何か」が欲しいのですな。満たされることのないそれに、世界の実情をご存知の貴方は、折り合いをつけようと、
それゆえにご無理をなさっている。……ですがこの私めは知っております。その気持ちを満たすものを。貴方様の欠けたものを取り返す術を!」
ウワサガリだけが笑い続けていた。その中、クチガネはその顔を一層青白くし、冷や汗を垂らし、ヨヤモリを見つめていた。ヨヤモリはというと、何故この老妖怪に胸の内を見抜かれたのかと、
ぐるぐると、存在しない原因を探り、それと同時に、この老妖怪の処遇を考えていた。
明らかに、この老妖怪はわれわれに何かを「させたくて」ここにきたのだ。我等に協力しようと現れたわけではなかろう。そうでなければ、誘導するような文言を口にするはずがないのだ。
しかしそれにしては、老妖怪の言っている「気持ちを満たすもの」というものが気になった。老妖怪の言うことは本当だ。ヨヤモリの中には以前から、うごめく乾いた気持ちが、何かを欲する強い欲望がずっとあったのだ。
それこそ三大欲求よりもさらに強い、並みの精神力では抗えない程の強い欲望が、常に付きまとっていた。
「……分かった。お前を受け入れよう……」
「光栄にございます。ほほほ……」
「ヨヤモリ様!」
納得のいかないクチガネが割って入る。命に代えても主を守ると決めていたクチガネにとって、今のまさにこの状況が、主を守るその時だと感じた。言いようのない恐ろしさ。我々の命を裂き、壊し、貪る者が近づいてきているように感じた。
「黙せクチガネ。お前に私の気持ちは分かるまい」
「何、安心しなされクチガネ様。何も辛いことはありませぬ」
「会話になっていないぞ爺」
「そうですかな。はて……?」
ヨヤモリとウワサガリの会話はクチガネを無視したまま続けられた。
「して、その私を満たす物とは何だ」
「お待ちくださいヨヤモリ様!」
負けじと、クチガネが割ってはいる。だが次に発せられたヨヤモリの言葉は、普段の穏やかな口調では無かった。
「うるさいぞクチガネ!お前は黙っていろ!分かるまい、決して、分かるまい!この私の乾きが!心を支配する、果てしなく巨大で醜悪な欲望の渦が!私はずっと耐えてきたのだ。しかしこの老人はそれから開放してくれるというのだぞ?私の事は私が決める!
お前は口を出すのではない。そこで、黙って、聴いておれ!……すまないご老人、話を続けていただけるか」
クチガネは突然の怒鳴り声に驚き、萎縮した。未だかつて、ヨヤモリが取り乱したことは 経験したことが無かった。常に余裕があって、冷静沈着で、その場の空気を全て掌握している、
そんな普段の姿からは、考えられない一面だった。今この場は、目の前にいる小さな老妖怪、ウワサガリが支配している。クチガネは、良くない兆候だ、と、感じた。しかしその兆候に、
主、ヨヤモリは気付く気配が無い。クチガネは、自分がこの流れを正さねばならないと、強く、心に刻み込んだ。
「……よいですかな?よいですな」
キョロキョロと、わざとらしくウワサガリが辺りを見回す。クチガネはひとまず黙って、この老妖怪のボロが出るのを待つことにした。
「信じられんことかも知れませんが、私の見立てですと、人間「雪枝」には、あなた様が満足しうるだけの力が備わっておりましてな、これを上手いこと取り込めば良いと、いう訳でございます」
ヨヤモリの顔が少しだけ曇る。それをウワサガリは見逃さない。
「あの雪枝には」
ウワサガリは一度声を止め、再度、ヨヤモリの表情を伺った。クチガネが邪魔して来ないことも、念のため確認する。そして全て問題ないことを確認すると、続けた。
「異界の魔物が棲んでおります」
「ほう?」
ヨヤモリが身を乗り出す。クチガネは、ハラハラしながらそれを見守っていた。刀に手を起き、目の前のウワサガリの一挙一動を注意深く観察する。油断が生まれている主の身に万が一の事が起らないよう、神経を尖らせた。
「とても罪深く、欲深い、そして強大な力を持った魔物……。恐らく今のあなた様でも太刀打ちできますまい。……ですが今は、あの雪枝の体から出られんようですから、狙うなら今でしょうな」
「お前は食おうと思わんのか」
「私めは、新鮮な噂話をいただければ十分でございます。これからあなた様の作る大きな噂を、頂戴することにいたしますよ。ほっほっほ……」
「なるほど、噂狩りというのはそういう意味の名前か」
「いかにも。私めの目的、お分かりいただけましたかな」
何だそんなことだったのかと、クチガネは体の緊張を解いた。もとよりこの妖怪は、噂を食すことだけを目的として行動しているのだと、クチガネは理解した。ただ、ヨヤモリは気を許すつもりは無いようだった。
「……ははは。今は理解したと言っておこう。おぬしにはまだ裏がありそうだ」
「滅相もない!ですが、今はそれで問題ございません」
二人の妖怪は笑っていた。
◆◇◆
「急に雲行きが怪しくなってきおった」
学校帰り、雪枝、春花、ツキヒメの三人が、通学路を歩いていた。先ほどまでそこそこ晴れていた空は、今は、怪しく紫色にうごめき始めている。
雪枝がこん睡状態に陥ったあの事件の後から現れた空の色、紫色のうねるような禍々しい空の色。
「この空さ、前から思ってるんだけど、ツキヒメと初めてあったときのあの靄に似ている気がする」
「たしかに似てるかも……」
春花が空を仰ぐ。空模様は更に悪化し、ついには雷の音が何処からか聞こえてきた。
「あー傘がない」
「わしも持っておらん」
「あ、皆とりあえずうちよってく?なんなら傘貸すし」
雪枝の家は今歩いている道とは違う方向、ツキヒメの家に至っては山の向こうだ。現在地からすると、春花の家が最も近い。
「いや、わしはサッと帰れるから、よいわ」
「私もこうすればすぐ帰れるし、おかまいなく」
そういうと、雪枝はその体に霊力をまとって見せた。晴地と全く同じように、おぼろげに紫色に発光している。この光も、普通の人には見えないのだが。
「すっかり使いこなしてるね、雪枝くん」
「晴地に教わったよ。というかあいつが断っても教えて来るんだよ……」
「ふはは、雪枝もあの弟には弱いのじゃな」
「存在が遠くなるー」
「大丈夫だよ」
雪枝が春花の頭に2度優しく手を置いた。自分は変わりなくここに居ると、“唯一変化のない”自分だけは、何処にも行かないと想いを込めて、優しく触れた。
(急に中睦まじく戯れ始めよって……。)
「わしは先に帰る。降られんうちに二人も帰るんじゃぞ」
自分の居場所がなくなったことを感じ取ったツキヒメは、雨を理由にしてその場から去ろうとした。
自分の意中の人とその恋敵の中睦まじい姿をずっと見ていられるほど、ツキヒメの心に余裕は無いのだ。手早く傀儡の体と自分の本体を入れ替えると、地面を蹴って飛び上がった。
「え、あ、ちょっと、ツキヒメちゃん……」
春花が声をかける間も無く、ツキヒメの姿は一瞬で見えなくなってしまった。
「いいよ、帰ろう。……もう降りそうだから急ごう。ほら」
雪枝が手を差し伸べる。春花はそれに応じ、手を握ろうとした。
しかしまた、忘却の時間がやってきた。春花は動きを硬直させると、目の前に居る自分の知らない男子学生に軽く会釈し、小走りでそこから居なくなった。
「あぁ、またか」
実はこのところ、この現象に遭遇する頻度が上がってきた。
この間は晴地との戦闘訓練中に起ったし、授業中に起ったときなんて、部外者としてつまみ出されてしまったのだ。
「今度は、何日続くのかな。ははは……」
こみ上げる空しさを感じながら、雪枝はその場に座り込んだ。もはや雨の事なんてどうでもいい。どうせ今から家に帰ったとしても、その軒下に入ることは出来ないのだ。
それなら、ここで寝転んでいても同じことだろう。
ぼんやりと見上げた空では、徐々に紫雲が厚くなっている最中だった。時折雷を伴いながら、徐々に膨れ上がっていく。雪枝はその光景に、どこか懐かしさを感じていた。
「どこで見たんだったか。たぶん、櫓山の時のよりもずっと前……」
考えを巡らす。だが感覚では覚えていても、記憶を引き出すことは出来なかった。
そこへ、声が響いた。
「ツキヒメがまた忘れているようだったぞ」
何度も耳にした声。野太いながら、優しく撫でるような声。
身の丈3メートルもある大きな狐の大妖怪は、面倒そうに雪枝の隣に腰を下ろすと、雪枝に饅頭を投げてよこした。
「これどうしたのさ」
「古神社の供え物だ。腐ってはおらん」
「ふーん」
雪枝は世界に忘れられるたび、このクニモリと話をした。もとい、クニモリが雪枝に会いにきていた。
哀れんでいるのか、物珍しいのか、雪枝には判断が付かなかったが、自分を誰もが忘れる中、話し相手が居るのは小さな救いだった。雪枝の中の妖怪不信は、クニモリによって、少しずつ払拭されていった。
「解決法はみつからんか」
「そもそも探してないよ」
「よいのか」
「よくは無いさ。でもどうしたらいいかわからない」
雪枝はこの状況に慣れてきてはいたが、やはり心のどこかでは徐々に追い詰められていた。
そういった感情を表に出さない性分のためクニモリにもその心持は悟られていないようだったが、確実に、雪枝の中では不安の種が膨らんでいった。
「お前以外に覚えているやつはいないわけ」
「……。いない、事も、無いな」
「ん、は?」
想定外の答えに、雪枝は体を勢い良く起き上がらせた。
「知ってるなら、教えてよ。どうして今まで黙ってたのさ」
「声に出来ない理由があるのだ。私がそれを口にすると、魂を目覚めさせてしまう」
「……わかった。どういう奴なのか、それだけ教えて」
魂を云々の意味はわからなかったが、ひとまずクニモリの事を信用することにした雪枝は、その“もう一人”について、名前以外の詳細を聞き出した。
クニモリと同じ、身の丈3メートルほどの狐妖怪。ホンドギツネの姿をしたクニモリとは違う、キタキツネのような姿の大妖怪だということだった。現在の居場所はわからない。
「近くには、居るはずだ」
「何でわかる?」
「この空は、おそらく奴の仕業だろうからな」
「この空って、この紫の色になった原因って事?」
「そのとおりだ」
雪枝は、先ほど感じた懐かしさの原因が、その妖怪にあるのではないかと感じた。自分を覚えていられて、この懐かしい空の景色の原因だというのだ。
案外そいつに合えば、私のこの症状……世界に忘れられてしまう問題は、解決するのではないだろうか。
「私はそいつを探すことにするよ」
クニモリにそう告げた瞬間、雪枝の体はクニモリに抱えられ、空に飛び上がった。
「どうやらあちらから出向いてきたらしい。雪枝、身を守る準備をしろ」
「なるほど穏やかな関係ではないわけね。わかった」
雪枝は体に力を込めた。ほのかに紫色に輝くと、雪枝はクニモリの手から飛び出し、クニモリと二人で地面に着地した。
「なんと、例の狐が居ったか」
そこには、身の丈3メートルほどのキタキツネの大妖怪、ヨヤモリが佇んでいた。
「なんの用だ」
クニモリが刀を抜き、切りかかる。ヨヤモリはそれを、小さな扇子一つで、軽々と凌いで見せた。クニモリが阿修羅のように腕を生やして切りかかろうが、ヨヤモリは術を駆使して、それを楽々凌ぎ続けた。
「邪魔だ」
そしてクニモリを大きく突き飛ばした。クニモリは空間がよじれる高周波の音と一緒に石壁に打ち付けられ、ヨヤモリはそれを見て満足そうに、雪枝の方へとゆっくりと歩いてきた。
雪枝はヨヤモリの目を見、理解した。
ヨヤモリの目は、明らかに狂っていた。会話が出来る相手には思えない。こういうのは、まず懲らしめてから話をするのが良いだろう。
雪枝はヨヤモリの霊力を見た。二つの霊力帯、弱く光る白色の帯と、下品に輝く紫色の帯、吸い取るならば、紫色の方だろう。雪枝はその霊力帯を迷うことなく掴むと、全力でその力を吸い上げた。
「何っ!?貴様これが見えているのか!」
ヨヤモリは雪枝の掴んだ自らの霊力帯を切断すると、大きく後ろに後退した。吸い取られ、輝きが先ほどの半分ほどになった紫色の光を見る限り、相当な量の力を一瞬で吸い上げたらしい。
事実、雪枝の中には、今まで感じたことの無い、失神してしまうかというほどの快感がこみ上げていた。
「あぁ……何だこれ、何だ、これだよ、もう少しで思い出せそうだ……」
「これこれ、これ、これこれこれ、これだよ!」
「待つのだ雪枝、お前、何かおかしいぞ」
クニモリの声に、雪枝は耳を貸さなかった。一際強く紫色の光を放ったかと思うと、それを全て体の内に押し込め、焦点の合わない目のまま、ヨヤモリに飛び掛っていった。
「おお……これが例の魔物か……!しかしなるほど、これは美味そうだ。ははは!」
ヨヤモリは様々な術を駆使し、雪枝に攻撃を重ねていった。雪枝はというとそれを真正面から食い散らかして、どれもこれもを自分の糧としていった。
「ば……化け物!魔物め!よるでない!」
「いただき……まぁ……」
「待てと言っている!」
まさに雪枝が食らい付こうとしたところだった。クニモリが太陽のように一瞬輝くと、あたり一面が一瞬にして浄化された。この光には、雪枝も無事ではなかった。
一瞬だったが、全身が黒ずみ、炭化したような状態で、ヨヤモリが居る方向とは逆方向へ吹き飛んでいった。不思議な事に、ヨヤモリは無事であった。
「しまった……一瞬とて、油断したか……」
クニモリから白い光が漏れた。その光は、ヨヤモリへと吸い込まれていき、ヨヤモリの白い霊力帯の光は、少しだけ、輝きを増した。
「おお、私の魂、私の力が戻った!全て私の踏んでいたとおりか。貴様が隠し持っているのは間違いないようだな」
「くっそ……」
服から髪まで、全て無傷の雪枝が起き上がる。先ほどまでの狂気は収まっているようだった。
「ふむ、なるほどなるほど、魔物を内に飼っているというのは間違いなさそうだ。今のお前から恐怖は感じぬ。面白い人間も居たものだ。
……お前に取られた私の力と、そこの狐から取り戻した魂、おあいこということで、今日は勘弁してやろう。お前たちを観察するのも、また悪くない」
(いつか両方とも返しては貰うが、な)
ヨヤモリは、もう一度高笑いをすると、空の雲へと消えていった。
「まて!話をさせろ!」
「……」
雪枝の思いに反して、紫色の空は、実に数ヶ月ぶりに、真っ青な快晴へと変わっていった。
第14話:あの頃の自分は
外から喧しい鳥の声が聞こえる。朝がやってきたのだ。目をこすりながら外に出、雪枝は白い朝日を浴びた。
紫雲はあれから一切その姿を見せず、今日も空は全くの快晴。周りの妖怪は自分に恐れ慄く事は無い。今日も変化は無かった。
ヨヤモリとの戦いから早2ヶ月、雪枝は、水晶渓谷の洞窟の一つで寝泊りしていた。身分の無いものは、人間社会には居場所が無い。
癪だが、雪枝は幼少期にも世話になった、次郎と親しいあの爺妖怪の所に厄介になっていたのだ。
無論、爺妖怪も雪枝を覚えていないが、このお節介妖怪は何の拒絶も無く、怪しげな一人の人間を受け入れた。
「おはよう、遅い目覚めだね」
爺妖怪が雪枝に声をかける。
「別に、人間ならこんなもんだって、前にも言ったでしょ」
「はて、そうだったかの」
爺妖怪はわざととぼけたような表情をし、朗らかに笑うと、渓谷で吊り上げたらしいウグイを2匹雪枝に渡してきた。
「足りるか。どうだ」
「ありがとう。十分です」
雪枝は手馴れた手つきでウグイを捌くと、あらかじめ用意されている串にそれを刺し、爺妖怪の焚き火跡、その“おき”に、内蔵を取り払われ、上手に串刺されたウグイをくべた。
「わしも、たまには焼いてみるか」
爺妖怪はそういうと、雪枝の隣に腰かけた。雪枝と爺のウグイが、チリチリと遠赤外線で焼かれてゆく。渓谷の爽やかな朝の風が、ほのかに香り始めた香ばしい匂いを運び、雪枝の鼻をかすめた。
それを合図に、頃合かと生焼け魚の裏と表を反転した辺りで、爺妖怪が声をかけてきた。
「今日はな」
「ええ」
「次郎という、人間がくるのだ」
「え!?」
雪枝の心臓が大きく脈打った。久しぶりに聞いた名前。そして、それは雪枝があれから一日だって思い出さない日の無かった者達4人のうちの一人。
雪枝は動揺を隠せなかった。爺妖怪にも、それが見て取れるほどに。
「ん?どうした」
「いや、なんでも……」
雪枝は悩んだ。このまま、会うべきだろうか。会えば、何かがわかるかもしれない。
しかし会えば、もしかすると、新たな私と世界の結びつきがより強くなり、よけいに、“あの頃”を取り戻すことが出来なくなるのかもしれない。
今の私が、次郎や晴地、春花、ツキヒメたちと関係を作ることは不可能だ。なぜなら、人間としての、身分が無いのだから。
だから、なんとしてもあの頃を取り戻さなくてはならない。
「お前さんも人なら、人と会いたかろう。何、お前さんがどういう事情があろうが、奴は受け入れてくれるさ。とても、とても懐の深い、よい男だ。
どうだ、どうする。会いたいなら、つれて行ってやろう」
雪枝の心が揺れ動く。会うことによる影響が怖い。だが、会いたい。自分を友と呼んでくれていた、掛け替えのない存在に、今すぐに会いたかった。
2ヶ月間、大切な人の誰とも、次郎に関して言えばもっと長い間、ずっとまともに話をしていないのだ。
「……怖くて。人と会うのが、怖い」
「大丈夫、大丈夫だ。わしがついておる。お前さんは一人ではない」
爺妖怪が優しく背を叩く。雪枝は、優しさに後押しされ、次郎に会うことを決意した。雪枝は、寂しさに勝つことが出来なかった。
◆◇◆
昼休み。次郎は普段どおり中庭に居た。普段どおりの4人組で昼食をとっていたのだ。
少々女子の監視が辛いが、次郎にとって今この場は、校内でのどの時間よりも気楽で楽しいものだった。
「今日も相変わらず澤田さんのお弁当はうまそうだな!羨ましい限りだ、二人とも」
「わしの時は褒めんくせに、調子の良い奴じゃ」
「まぁまぁ、ツキヒメさんのご飯も、美味しいですよね?次郎さん」
ツキヒメが呆れたように嫌味を言う。すかさず、晴地がそこへフォローを入れた。
「そうだよ、ツキヒメちゃんのご飯も美味しいよ?」
春花がそれを後押しするよう、言葉をつなげた。
「へいへい、お二人ともお熱いことで……」
「茶化さないでくださいよ……」
晴地が恥ずかしそうにもじもじする。その隣で、春花も少し恥ずかしそうにしていた。
春花と晴地は恋人同士だ。いや、雪枝が消えたことで、恋人同士に“掏り替わった”。雪枝の居ない世界のつじつまあわせとして、晴地という存在が、春花の恋人となったのだった。
無論、現時点でこの事実を、雪枝は知る由も無い。
「は~、暇じゃ。人間の世界は暇じゃ~。何でわしはこんな事始めてしもうたんじゃろうか」
「俺はどっちも楽しいけどな。人間の世界も、妖怪の世界も。……あ」
「ん?」
「や、なんでもない。俺、今日早退するわ。ツキヒメちゃん、先生に言っておいて」
あまりにも唐突な次郎の切り返しに、一同がきょとんとした様子で次郎を見た。
「どうしてじゃ?」
「いや、ちょーっとな、ちょっと、用事があるから。先に帰るわ」
「いやその理由を問うておるんじゃ」
「んー、あー、家の用事だよ、家庭の事情。じゃあな」
そういうと、次郎は立ち上がり、一同を残して颯爽と駆けていった。
「怪しい……。フフフ、ウム、春花、わしも早退する。頼むぞ」
「え、ええ、ちょっと……」
春花が言い終わる前に、ツキヒメは狐耳と尻尾の生えた本体に体を入れ替えると、疾風のように次郎を追いかけていった。中庭には、晴地と春花だけがポツリと残されてしまう。
「自由だなぁ、次郎さんも、ツキヒメさんも」
「こまっちゃうよ。あ、こっちもそろそろ行かなきゃ、ほら晴地、いくよ」
「あ、うん」
晴地と春花の二人は息を合わせて立ち上がり、始業までに十分の余裕を持って、中庭を後にした。
◆◇◆
(あれは、次郎に、ツキヒメ……。二人とも、久しぶりだなぁ……。)
小競り合いを繰り返しながら徐々に近づく二人の影を、雪枝は、岩場で息を潜め、影からこっそりと見つめていた。会うとは行ったものの、最後の最後で決心が付かなかったのだ。
「おーすじいさん、きたぜー!」
次郎が叫ぶ。ほどなくして、空からずしりと、爺妖怪が降りてきた。
「おお、遅かったではないか。……ん?なんじゃ、お前さんもついに女をつくりおったのか」
ツキヒメに目を移しながら、爺妖怪が少々いやらしい目つきで笑った。ツキヒメはこれが気に入らなかったようで、すかさず反論した。
「わ、わしがなんでこんな奴の女にならねばならんのじゃ!じじい、わしにはな、心に決めた者が居るのじゃ。わしはその……、その……」
竜頭蛇尾という言葉そのものに、ツキヒメの声が萎縮してゆく。
「へぇ……初耳だな。来るもの来るものコテンパンにのしてばかりで、好きな奴なんて居ないって、そんなこと前言ってなかったか?サテは、恥ずかしくて隠していたのか」
ふふっと次郎が笑った。爺妖怪と一緒に、すこし下品な表情で笑っている。
「ち、ちがう、いや、違わぬ。何か、何かおかしいぞ。うう、お、思い出せ……ない……」
どきりと、雪枝の心臓が大きく脈打った。確証はないものの、恐らくそれは、雪枝の事に違いなかった。ツキヒメは自分を好いている。それは分かっていた。
きっと、“思い出せない想い人”は、きっと、自分の事だ。
雪枝は、気が付くと岩の陰からふらふらと歩み出ていた。日の下、熱射病患者のように、ふらふら、ふらふらと、3人の影へと近づいていった。
そしてついに、3人の目に触れた。
「おお、そこに居ったのか、雪枝。この男が次郎じゃ。ほれ、早うこっちへ来い」
「ん?爺さん、こいつは?」
ちくり。自分を見知らぬ次郎の言動に、分かってはいつつも雪枝の心が痛む。お前は私の友人だ。ずっと前、隠れ家まで見せてくれたほどの、親友なのに。
雪枝の心が軋む。しかし、雪枝を追い詰めるのはそれだけではなかった。
「な、なんじゃこいつは……?恐ろしく、禍々しい……!次郎!下がれ!そやつ得体が知れぬ!じじい、お前もじゃ!何故このようなものを飼っておった!」
ツキヒメが素早く結界の鎖を作り、雪枝を縛った。固く、冷たい拘束具が、雪枝の四肢を縛り上げ、自由を奪う。
「お、おい……。やめんか……」
「馬鹿者!こんな、気色の悪い化け物を、何故飼っておった!」
拘束具の締め付けが強くなる。それと同時に、雪枝の頭上に大きな結界のプレートが現れた。ツキヒメは、これで雪枝を潰す気らしい。
「そやつは人間じゃ、ほれ、よく見てみよ」
「よく目を凝らすはお前じゃじじいよ。目を凝らせ、見えぬか、あの禍々しい腐った妖気が。見てくれだけ人間の姿を取り繕ってはいるが、われわれ妖怪や、はたまた悪霊ですらないような、おぞましい魔物じゃ!次郎!」
「おへっ!?」
急に呼ばれて、次郎が素っ頓狂な声を上げた。次郎には目の前の物が人間にしか見えていなかった。それゆえ、判断しかねていたのだ。
「阿呆!力を貸さんか!こやつ、相当に強大な力を持っておる。父上を呼びたいが、時間がない。わし等で何とかするのじゃ!ほれ、化けの皮がはがれるぞ……」
雪枝の体が紫色の淡い光で覆われた。晴地のと同じ、肉体強化だ。
「く…そ…お前ら……くそ……!くそ……!」
雪枝の頬に涙が伝う。涙は赤い線となり、隈取となった。これは、晴地がめったに見せなかった、全力の姿だった。ツキヒメの力は強く、そうでもしなければ振りほどくことなど不可能であった。
「あれ、あれって……」
「うむ、色、質こそ違えど、わしの父の力を授かる、晴地と同等の力であろう。まさか、人間風情が、父上の力添えも無くあれだけの力をもてる訳もなし。次郎、もう分かったであろう。力を貸すのじゃ!」
「わかった……そら!」
次郎は、ポケットから札を引き抜いた。暖かい光を帯びた札は、雪枝の周りで回天を始めると、一斉に光の弓を放った。放たれた矢は、雪枝の体を貫き、そして焼いた。
神経を直接かきむしられるような激痛が、体を走る。
「ううううう!あああ!」
「もう、一息じゃ!思い知れ!」
「ハッ」
叫ぶ雪枝。ツキヒメと次郎は間髪入れず、連携して連劇を繰り返す。ツキヒメの障壁攻撃、次郎の光の弓が、何度も何度も雪枝を攻めた。いつのまにか、この大騒ぎに野次馬妖怪達も集まり、その光景を見つめていた。
そして、雪枝の意識が途切れようかというその瞬間、そいつは現れた。
「お前等、調子に乗るなよ……」
雪枝の目の色が反転し、白目が紫に、黒目が白になった。
赤い隈取はさらに派手になり、顔や体を彩った。攻撃されながらも尚笑うその口元には、今にも垂れそうな唾液が見て取れた。そして額には、腐った精液でも溜まったかのような、淀んだ色をした宝珠。
「おお……おお……。雪枝や……お前は人ではなかったのか。なんとおぞましい、なんと醜い……!」
「うるさい!私は人間だ!」
まず初めに食われたのは、爺妖怪だった。断末魔を叫ぶ暇さえ与えられず、体が消失する。それを目にした野次馬妖怪達は、一目散に逃げ出した。
「さっきから人が苦しんでるのを楽しそうに見やがって……逃がすわけが無いだろう!全て私の糧となれ!」
雪枝だったものは、妖怪らの霊力帯を掴みもせず、力任せに吸い上げた。
野次馬妖怪達、そして辺りの生き物は皆、草木一本残さずに、その命の活動を止められた。
しかし、なんとツキヒメと次郎だけは、ツキヒメの強力な障壁によって辛くもその一瞬から身を守り、雪枝になおも攻撃を仕掛けようと、構えなおしていた。
「久しぶりだ……ははは!なんと甘美なんだ。なんと気持ちがいいんだ」
雪枝だったそれは、ゾクゾクと体を身震いさせつつ、吐息をゆっくりと吐きながら、全身で快感を享受していた。
その光景に、ツキヒメと次郎の二人は、自分達が太刀打ちできる相手ではないことを悟った。各が違いすぎた。もう、これまでなのだと、二人とも、死を覚悟した。
「ああ……まだふたつ、特によさそうなのが落ちているじゃないか……」
ぎょろり、と、二つの目が二人を見つめた。ハアハアと、興奮した魔物の上ずった息づかいが辺りに響き渡る。魔物はゆっくりと手を伸ばした。その時。
「はあっ!」
閃光のように頭上から金色の光を纏った男が落ちてきたかと思うと、目にも留まらぬ動きで雪枝だったその魔物を渓谷の向こう側まで付き飛ばした。
晴地だ。後光のようなその光を背負って、全身に赤い隈取をしている。危機を感じ取り、全力で飛んできた、というわけだ。
「大丈夫ですか!先輩方!」
「助かった……」
「おお、晴地……。しかし我等だけではまずい。ここは一度退却して、父上を呼ぶぞ」
ガラガラと、岩が落ちる音がした。そこには、全力の晴地にやられてもなお、無傷で立ち上がる魔物の姿があった。禍々しい紫色の妖気を纏っている。全身に浮かぶ赤い隈取は、数多の命たちの返り血のようだった。
晴地はそれをチラリと確認すると、ツキヒメと次郎に手を差し出した。
「ええ、そのほうがよさそうですね。二人とも、つかまってください」
「ああ」
「すまぬ」
晴地は二人を両肩に担ぐと、流星のようにその場から消えていった。
「ぐ……今のは……」
雪枝は、正気を取り戻していた。
「晴地。でも……色が、妖気の色が違った……」
雪枝はその霊力に覚えがあった。散々世話になったのだ。忘れようが無い。それは、クニモリのものだった。
人間が力を行使するには、妖怪と縁を結ぶ必要がある。晴地は、かつての妖怪との縁が切れ、クニモリとの縁を新たに獲得したに違いない。
(でも何で……私が消えたからと言って、そんな変化があるものだろうか。)
(いや、散々見てきたから分かる。間接的な部分の変化は矮小なはずだ。自分が居なくなった程度で、私に直接関すること以外が変化するはずは無い。)
(つまりそれは、私が、妖怪だということだろうか。)
「馬鹿な。ありえない」
自分が崩れてゆく恐怖が、声になった。否定せずにはいられなかった。願わくば、誰かに否定して欲しかったが、誰も居ない。だから、それは自分自身の言葉になった。
「ありえないよ。ありえない……」
体が急に寒くなったように感じた。自分の手が、足が、自分のもので無いようだった。
「あぁ、あの夢に出てきた妖怪。あれだ、きっとあれが、私の中に居るに違いない。そしてきっと、私と一緒に世界から消えかけているんだ。
私は妖怪じゃない。きっと、あれが、私と晴地との縁を持っていた妖怪なんだ」
心を何とか落ち着かせようと、誰も居ない渓谷で、雪枝は一人、話し続けた。
「私の名前はみなやま、ゆきしだ。水山家の長男で、鬼絶ち兄弟の兄。小さい頃の思い出だって沢山ある。間違いなく、ずっとずっと、晴地と一緒に育ってきた……」
ひとしきり言葉にして、雪枝はやっと落ち着いてきた。体の震えは止まり、手足に血が通い始めたようだった。
(そうだ、そういえばあの妖怪の事、探ってなかった。本当に、私が消えかけているヒントがあるかもしれない。もう一度調べなおしだ。)
(とにかく今は逃げよう。すぐにクニモリが来る。晴地とあいつ、二人相手に勝てる気はしないし。)
そして雪枝は霊力を抑え、森へ消えた。また数ヶ月、今度はコソコソと、妖怪達の助けもなしに、逃げ惑うことになった。
第15話:醜悪な魔物
ある朝、春花は気が付いた。動物霊達の数が減っている。居なくなっていたのは、狸の霊、“ペコ”だった。
「あれ、どうしたんだろ。おーいペコー!」
呼ぶが、応答は無い。春花の呼びかけを皮切りに、猫やイタチ、犬、鳥などの霊が部屋から出たり入ったりと“ペコ”を探し始めたが、どうやら見つからないようだった。
ひとしきり探したがペコは出てこなかった。ただ、今までもそうやって居なくなることは度々あったので、この時、春花はさほど気にすることは無かった。しかし。
次の日、今度はイタチの霊“せんべい”さらに明くる日に、犬の霊の“ミミ”が居なくなった。どの子も、一向に戻ってくる気配が無い。1週間もすると、ついには、猫の霊“フード”だけになった。
そして、その日の昼。春花の相談を受けて、ツキヒメと晴地が春花の家に集まっていた。
「わしは見ておらんぞ。お前にひとしきり可愛がられて、成仏したのではないのか?」
「俺も妖怪達に聞いてみたけど、誰も知らないって」
「そっか……成仏……そうかもしれないね」
寂しそうな春花を慰めるように、猫の霊“フード”が、パーカーのフードの中から鳴き声を上げ、擦り寄った。
「とりあえず、今日は休んでなよ」
「そうじゃな、そうせよ。あとはわし等に任せておけ」
「うん、ありがとう」
ぺこりと首を垂れる春花。すっかり意気消沈した様子の彼女が家に入ったのを見届けると、二人は首も動かさず深刻そうに話し始めた。
「晴地よ。お前は知っておろう」
「ああ、妖怪達から聞いてるよ。妖怪や霊が消えてるって」
このところ、度々、妖怪達が消えていなくなる怪事件が続いていた。ツキヒメは父クニモリから聞いていたし、晴地も、このところの聞き込みで妖怪達から話を聞いていた。妖怪達の話しぶりからすると、自体は深刻そうだ。
晴地は、そんな危ない場所に、春花を呼び込むことだけはしたくなかった。
「それならば話は早い。おぬしは大切な大切な春花のために、探りに行くのじゃろう?相変わらず仲の良い事じゃ。恋人想いよの。ふはは」
「うっさいな……で、ツキヒメさんは協力してくれるってことで良いんですよね?」
「無論じゃ。わしにとっても春花は大切じゃからの」
「ありがとう、助かります」
礼をいい、晴地は霊力の衣を纏った。神々しい、金色のオーラが体を覆う。
「見事じゃな……」
「クニモリさんほどじゃないさ。さぁ、行きましょう」
「フ、父以外に比べようが無いことが、見事だと言うておるのじゃ」
「はは。じゃ、先に行ってますよ!」
「うむ、行け行け、わしは後からゆっくりと参ろう」
晴地が金の彗星となって、妖怪達の集落まで飛んだ。一方残されたツキヒメは、太陽光を遮りながら、目を細めてぶつぶつと独り言を言っていた。
「うむ……うむ。威勢のよいことじゃ。しかしそれにしても見当違いの方へ行きおった。わしは一人で調べるとするか」
◆◇◆
その頃、雪枝は、山一つ超えた先の祟り地に居た。雪枝は、以前の暴走の際、爺妖怪を食ってしまったことを思い出し、そして、悔いていた。
雪枝にとって、もはや人間と妖怪に違いは無い。春花の言うとおり、同じ生き物なのだ。雪枝は、親切な爺妖怪を一時の感情に任せて何故食ってしまったのか、ずっと悔やみ続けていた。
それでも雪枝は生き続けた。何処かに、それでも自分が許されるという傲慢さがあった。
自分では本心から悔いているつもりでも、その心のどこかでは、自分が許される筈であると信じているたのだ。だから雪枝は逃げ、向かい来る妖怪を殺し、罪を重ねながら生き延びた。
だがもう、それも限界だった。殺された家族の敵だと何度も言われた。そのたび殺した。雪枝の心は、ついに、限界に達しようとしていた。自分のことを、ついに許すことが出来なくなってきていたのだった。
「ふふ……」
腐った土地に大の字に寝そべって、禍々しい紫色の空を見上げる雪枝の傍には、春花の所に居た動物の霊たちがいた。
妖怪や人間は近づけなくとも、元々悪霊であるこの動物霊らには、この祟り地なぞは、どうということは無かった。
「お前達、私に食われないうちに春花の所に戻りな」
優しく寄り添い、時折心配そうに覗き込んでくる動物霊たち。雪枝にとって、この霊らを食わないことが、最後の一線だった。この子らを食えば、もはや元の自分には二度と戻ることは出来ない。
春花の大切なものを奪ってまで生きながらえることは、雪枝には出来ない。
命を感じない、禍々しくもゆったりと優しい時間。しかしそこへ、急に変化が現れた。
空は黒く変わり、光が遮断された。風の音すらしなくなり、聞こえるのは霊たちの足音、息遣いだけ。雪枝はこの光景に見覚えがあった。あの日、櫓山で起こった事件のときと同じ。
「ツキヒメ……!」
雪枝は飛び起きると、夜目を利かせ、体に霊力を纏った。紫色の禍々しい光が、体を包む。構えたところで、遠くから声が響いてきた。
「思ったよりも、元気そうで何よりじゃ」
「……?」
「ぷはっ……何を呆けた顔をしておるのだ雪枝。ちゃんと覚えておるぞ。……今はな」
今は、というのが胸に刺さった。しかし雪枝は、それ以上に、数ヶ月ぶりに自分を覚えている妖怪に出会えたことが嬉しかった。声が出ない。あふれる想いは、雪枝を硬直させた。
「強く、不敵だったお前は何処へ行った。わしはお前のそんなところに惚れたのじゃが」
「あ、う、いつからだ!」
「思い出したのが、か?ふむ、今じゃな。お前をみて、やっと思い出した」
「なら、他の人は、晴地は?春花は?次郎は?」
急に言葉がのどを突いて出た。必死の形相でツキヒメに詰め寄る。事実、必死だった。二度と思い出されないのではないかと、このところずっと考えていたからだ。
「思い出したのはわしくらいじゃろう。ああ、父上ならあるいは覚えておるやもしれん」
「あ、ああ、そう……」
「む、せっかく思い出してやったというのに、なんじゃその態度は!わしでは不満か!」
「いや……」
雪枝は否定したが、落胆は隠せなかった。ツキヒメが思い出してくれたことは嬉しかった、それでも、世界全てが元通りになったわけではないことを知って、気を落とさずにはいられなかった。
ツキヒメは、その落胆振りにがっかりといった様子で肩を落とし、付け加えた。
「……やはり、春花でなければいかんか」
「そうじゃない」
「ふん……」
つんと、ツキヒメは怒ってみせた。これ以上、自分が落胆している様を見せるわけにはいかないと判断した。弱っている雪枝を案じ、少しでも負担をかけないようにと、雪枝の心を気遣っての事だ。
「今回の件、じゃがな、この世界の理から外れておる“霊”には、関係の無いことらしい」
「何故?ん、いや、霊は“ふつう”ではないのか」
「うむ、霊は本来あるべきでないもの。普通は、死ねば、何も残らず消える」
「ふん……?」
「そこらの動物の霊もそうじゃ。本来あるべきでない、何を起こすかわからん物……。……こうなってしまった以上あまり言いたくはないが、わしも、半分はそうじゃ」
ツキヒメは苦い顔をした。今は雪枝以上に、ツキヒメが追い詰められているようにも見えた。その心情を感じ取った雪枝は、穏やかなイントネーションを意識しながら問いかけた。
「ん?ツキヒメはクニモリの娘だろ。……それとも死んだのか?」
「いや……」
「なにさ」
「父上に昔言われたことがある。「お前の存在は、世の中に大きな影響を与える可能性がある」と」
「嫌にもったいぶるね」
「わしは、大妖怪の父と、悪霊の母から生まれた。故に、生まれながらにして半死半生の存在じゃ」
ツキヒメはため息をついた。少し深いため息。心を落ち着かせているのだろうことは、雪枝にも分かった。
「今お前を覚えておるのは、そこの霊たちと、わしだけじゃ」
「だから、霊には影響が無いって?断定するには例が少なすぎる」
「父から過去に聞いたのじゃ。昔、大きな世界の異変が有り、そのときにも霊だけは父を覚えており、父にすがってきたと」
「そのときの原因は、強力な悪霊だったそうじゃ。つまり……」
ツキヒメの声が震え始めた。少女の方は出会ってから一番小さく縮こまり、申し訳なさに萎縮しているようだった。雪枝には分かった。
ツキヒメは、この一連の現象――私が忘れられ、世界が変化していることが、ツキヒメ自身の存在による影響だと思い、責任を感じているのだ。
雪枝はそんなツキヒメを哀れに思った。しかし何をしてやることも出来なかった。肩を寄せ、慰めるにしても、雪枝には春花がいるのだ。
そちらを裏切って、ツキヒメを抱きしめることなどは到底できない。そもそも、雪枝はツキヒメではなく春花を愛しているのだから。……ただ、心が揺れ動いているのは確かだった。
「ははは!」
暫くの間そのまま硬直していると急に、ツキヒメが笑い出した。そして顔を上げると、ツキヒメは、目に沢山の涙を浮かべていた。
「やはり、やはりわしではダメなんじゃな。よい、わかった。殺せ、わしを殺せば、この世界の歪みも元に戻ろう。そうすれば、お前は春花との日常を取り戻せる」
本心ではないことは、誰でもわかるだろう。とめどなく涙を流し続けながら、ツキヒメは何度も、自分を殺せと雪枝にせがんできた。
雪枝に殺され、その血肉となるならば本望だと。せめてもの願いをかなえて欲しいと。
「できない。嫌だ」
「今更なんじゃ!妖怪なら今まで何人も殺したであろう!わし一人くらいなんだというのじゃ!」
「その願いは聞けない」
「お前がわしを選ぶなら、わしと二人きりで生きようと、誘おうと思っておった。じゃがおまえはそうしない、ならば、わしを食ってくれ!わしはせめて、お前と一緒にいたい……」
雪枝は棒立ちしたまま、ツキヒメはそれにしがみついて、泣き喚いて、生き物の気配の無い世界に二人だけで、ツキヒメの声だけが響いていた。
泣きはらし、落ち着いた時だ。ツキヒメの強力な結界が、大きな雷の音と共に消失。そして、すぐ、声がした。太く、力強い声。
「離れよ、ツキヒメ」
ぶんと、大きなものが空を切る音がした。咄嗟、雪枝とツキヒメは同時に障壁を展開すると、その大きな刀を受け止めた。質量を持った障壁にぶつかって、ギリと、金属音が響いた。
「父上……!」
「クニモリか」
身の丈3メートルほど、大きな金色の毛皮をした大妖怪クニモリが、険しい表情で、阿修羅のように腕を生やしてそこにいた。
そしてその背後には、ヨヤモリ、ウワサガリ、クチガネ、オロチ。遠くには、大入道の親子が見える。
雪枝は、大入道の肩に、晴地たちが居ることに気が付いた。
「ツキヒメ、その魔物から離れて此方へ来い」
「魔物?」
「そうだ、魔物だ。この世を食らいつくす悪鬼……」
クニモリは冷静な口調だが、相変わらず表情は険しかった。後ろに控えるヨヤモリやクチガネは、対照的に、終始、薄ら笑いを浮かべている。
「父上こそ、その後ろの禍々しいものはなんじゃ」
涙をぬぐいながら、ツキヒメが強い口調で指摘した。クニモリはチラリと一瞬だけ後ろを確認し、その後、何かを言おうとしたが、ウワサガリに遮られた。
「なぁに、悪い事にはなりませぬよ。すべて、上手くいくのです」
その他、有象無象達が騒ぎ出す。祟り地には、いつの間にか、多くの悪霊たちが集っていた。
「もうすっかり妖怪ですな、雪枝よ」
「何を。私の何処が……」
雪枝は見た。自分の四肢を。そして言葉を失った。
暗い紫色をした、ほんのりと湿って滑っている、光りを照り返す四肢。霊力を全力で解き放った時とはまた違う姿。文様こそ同じでも、これは明らかに今までの自分ではなかった。
どうして、何故。これも世界の変化だというのだろうか。それともこれは、これこそが、自分の探していた真実……つまり、自分自身が妖怪であり、単に自分は、晴地たちの生活に割り込んだだけで――
雪枝の思考は、ぐるぐると沈んでいった。
「雪枝……!」
呆然とする雪枝の手を、ぬくもりが包んだ。雪枝の精神が現実に返る。いつの間にか振り下ろされていたクチガネとクニモリの刀を振り払うと、雪枝はツキヒメを抱きかかえて大妖怪らと距離をとった。
「くそ……!」
「雪枝、雪枝、はようわしを殺せ!そうすればきっと、全て元通りじゃ!父上も正気に戻ろう。おぬしの体も元通りじゃ。……春花とも、恋人に戻ることが出来る!」
「うるさい!」
雪枝は、腕の中のぬくもりが愛しかった。先刻まで感じていた絶望など、簡単に押し込めることができた。今このときだけなら、全てを棚に上げて、雪枝は、以前のように強く振舞うことができた。
「良いからここは生き残るよ。お前を殺すことはしたくないから」
「しかし……」
「いいから言うことを聞け。私はまだ……」
会話の途中で、体が宙を舞った。全力開放状態の晴地の攻撃だった。クニモリ達に気を取られているうちに、いつの間にか背後に回っていたらしい。
腹部を大きく欠損したようだったが、今の雪枝にはたいしたことのない問題だった。見る見る肉が盛り上がると、欠損部分をきれいに修復した。もちろん、服を含めて。
雪枝はそれを見て苦い顔をした。いよいよ、化け物か。
「ツキヒメちゃん、大丈夫?」
「……寄るでない。わしに優しくせんで欲しい」
春花がツキヒメに駆け寄る。心配そうにしているその表情が、ツキヒメには、どうしても今は受け入れられなかった。劣等感と敗北感、そしてえもいえぬ怒りが、ツキヒメの中に巻き起こっていた。
ぼそりと答えたあと、ツキヒメはふらふらと、雪枝が突き飛ばされた方向へ向かっていった。
「でも……あ、だめだよ、そっちは危ない!」
「わしにかまうでない!……勝者は余裕があっていいのう。新しい王子様は優しくて、とても強そうじゃ。結局お前の一人勝ちじゃな」
「え……?それって、どうい…う……」
ぐらりと、春花の視界が揺れ、体が傾いた。しかし倒れるよりも早く、春花の異変を感知した晴地が体を支え、間一髪、地面に衝突することは避けられた。
春花の体は呪いに蝕まれ、一部、体色が紫色に濁っていた。あの禍々しい、この世界を覆いつくすほどの強力な霊力。その力によって、春花は、徐々に命を蝕まれていたのだった。
「ほら、春花、無理するなって言ったろ」
「うん、ごめんね、でも、放っておけなくて」
「もう休んでな。後は、俺たちがやる。すぐに助けてやるから」
春花と優しく口付けを交わすと、晴地はもう一度全力で霊気をまとった。
クニモリから、春花の呪いはあの魔物が原因だと聞いた。もちろん、今の晴地は雪枝の事を微塵も覚えていない。故に、迷いは無かった。愛する春花の為、力を使い、目の前の敵を粉砕できる。
雪枝は、そんな二人の様子を、遠く離れた岩場に打ち付けられたまま眺めていた。そして悟った。自分の居ないこの世界では、晴地は春花を、春花は晴地を支えに生きている。二人に自分は必要なくなったのだ。
いや、元々不要だったのかも知れない。ずっと、何処か違和感は感じていた。二人と過ごしても、話をしても、何処か距離を感じていた。
ずっと感じていた違和感を、雪枝はここにきてやっと理解した。自分が居ないことでこそ、この世界は上手く回るのだ。
「雪枝」
耳元で声がした。いち早く、ツキヒメが雪枝の元にたどり着いていた。
「なにさ」
「わしを……」
「殺さない。多分違うよ。お前のせいじゃない」
そう、違う。もしここに「間違い」が居るのなら、それは雪枝自身だった。
「私に固執するのはもうやめな。私は……もういいんだ」
警戒し、ゆっくりと近づいてくるクニモリや晴地たちに目線を向けつつ、雪枝は、ツキヒメの頭をひと撫で、ふた撫でしながら言った。
「よくなどない……!お前が生きるのをやめるなら、わしも、やめる……!」
「困った奴だな……」
頑として譲らないツキヒメを押しのけると、雪枝は徐々に距離を縮めるクニモリ、晴地を前にして立ち上がった。生きる気力は沸かない。
けれど、このツキヒメは本当に、自分が居なくなった後、命を絶つような気がした。何でもいいから、それは止めたい。ひとまず雪枝は、目の前で神々しくも金色に輝く二人の戦士に抗うことを決めたのだった。
ついに二人の間合いに入ろうかというところで、晴地が声を上げた。
「アンタ、もし、今やっている事を止めるってなら、見逃してやる。春花の呪いを解き、世界の侵食をやめるんだ。さもなくば……」
「さもなくば、鬼断ちの名の元に、成敗させてもらう。懐かしいな。私はとっくの昔に言わなくなったのに、晴地はまだ使ってたんだ。その言い回し」
「何でアンタが知ってるんだ」
「鬼断ちは、兄弟だろ。だからだよ」
「鬼断ちは、俺一人だ」
「ああ……でも、いや」
雪枝は言いかけて、止めた。今更事実で無くなった事を、どうこう言っても仕方ないだろう。一方隣では、ツキヒメとクニモリが、同じように言葉を交わしていた。
「ツキヒメ、此方へ来なさい」
「嫌じゃ」
「真悠子のように取り返しがつかなくなる前に、此方へ戻れ、ツキヒメ」
「嫌じゃ」
「冷静に判断せんか!世界か、個人か、どちらが大切かは解るであろう。それが苦渋の選択だとしても、お前ならわかるはずだ」
「嫌じゃ、解らん」
ツキヒメは相変わらず頑なだ。雪枝が二人のやり取りに気をとられている所へ、再び晴地が問いかけてきた。
「どうなんだ」
「悪いけど、私自身、何かをやってるつもりすらない。つまり、止められない」
「なら、悪いけど、お前を倒すよ」
晴地が一瞬で懐に飛び込んできた。クニモリは、相変わらずツキヒメと押し問答しているらしい。雪枝は晴地の一撃を何とか避けると、守りの姿勢を取り直した。
何とか穏便に、ツキヒメはもちろん、晴地も、クニモリも殺さず、何とかここを脱しなければ。しかし、考えている暇は与えられなかった。晴地は雪枝に全くの暇を与えない。
互いに一歩も譲らないまま、金と紫の凄まじいぶつかり合いが続いた。
「派手なものだ」
「我々は行かないので?」
「まあ、もう少し待て。おそらくもう少しだ。ははは」
彼方で、ヨヤモリ、クチガネが何かを企んでいるようだった。その後ろでは「出来損ないオロチ」が唸り声を上げている。
「あんな奴等と手を組んで、父上は頭がどうかしてしまったのだ!」
一方では、相変わらずツキヒメがクニモリに訴えていた。クニモリはもはや声を出すことなく、ずっとツキヒメを静かに見ているようだ。雪枝は、「このまま、ツキヒメに絆されてくれ」と強く祈った。
しかし、そう上手くことは進まなかった。鈍い音が響き、ツキヒメは地面に突っ伏した。もがくことすらなく、まるで死んだかのように静かに。もしかすると、本当に死んでしまったのかもしれない。
ウワサガリが突如笑い出した。雪枝は、体が、熱くなり、醜い感情が湧き上がってくるのを感じた。
「お前等……!クニモリ、ウワサガリ!」
方向転換し、クニモリに飛び掛る。しかし雪枝の攻撃は軽くいなされ、一発だって当たらなかった。
クニモリは霊力帯を隠していたため、霊力の吸収を行うことも出来そうにない。戦いには当然晴地も加わり、雪枝はついに、攻撃を凌ぎきることが出来なくなった。徐々に切り刻まれ、潰され、雪枝の体は、徐々に感覚を失っていった。
「ヴオオオオ!!」
雪枝は空高く跳び、けだものの様な雄たけびをあげた。そして全身全霊を賭して、最後の一撃を放とうとした。しかし、クニモリと晴地の力は、それすら許さないほどに強力だった。
晴地に叩き落され、地上で構えていたクニモリの6本の刀に、腹の真ん中を突き破られた。
「……!」
声も出ない。目がかすむ。ツキヒメは、動かなかった。雪枝の口から鼻から、目から、様々な体液が漏れ出した。突き破られた腹からは、じくじくと、痛みと血と、それに加えて、醜悪な霊気が漏れ出していた。
「やったか!」
晴地が華麗に着地を決め、すぐさまクニモリに詰め寄った。だが、クニモリは目を閉じ、黙っているだけだった。晴地はハッとしてツキヒメに駆け寄った。
クニモリの心配事は、愛娘「ツキヒメ」のことだと思ったからだ。そのときだった。晴地の体とツキヒメの体は金色の毛皮の、太い腕に共に持ち上げられ、空を飛んだ。
地面に下ろされた晴地が見たのは、辺り一体の淀み……紫の醜悪な霊力を集める、大きな化け物の姿だった。
ぬらりと怪しく光沢のある表皮、独特の生臭い香り、大きな鰭、そして、人間とは分かり合えないような、焦点の合わない目。
手の生えた、大きなナマズのような妖怪がそこにいた。晴地は、戦いはここからが本番であることを瞬時に理解した。仮の姿が剥がれ落ち、本当の姿がむき出しになったに違いない。
「ほっほっほっほっほ……!!」
「ははははは……!!あっはははは!!」
ウワサガリとヨヤモリが突如笑い出した。ウワサガリの仮面は、醜い笑い顔に変わっていた。
第16話:雪枝(セッキ)
一切の光の届かない闇。いつからだろう、私はここに居た。
何も解らず、何も知らず、ただ私は徘徊し、力を、快楽を貪った。大きな音や細かな振動を覚えている。今思えばあれは、生物の悲鳴や、断末魔だったのだろう。
最後の一人になったとき、私はやっとそこから出ることが出来た。外の世界に出たとき、それでも私は一人ぼっちだった。
覚えている。
あるとき、私に名が付いた。親から授かる愛の込められた名ではない。畏怖と侮蔑の込められた名。私を恐れた者たちは、私の事を、「刹鬼」と呼んだ。
名が付き、世界中に知れ渡ったことで、私に挑む者達も現れた。降りかかる火の粉だなんて、当時の私は思いもしなかった。ただ座しているだけで次々とやってくるご馳走を、私は、全て平らげた。
覚えている。
私は様々なものを食べた。手当たり次第に力を食べた。それが何だろうが、生物だろうがそうでなかろうが関係なかった。ほほほ、と、穏やかに笑うもの達のことも、私は欺き、食らった。
私は知らなかった。自分が何をしているのか。私は知らなかった。恐れというものを。理性というものを。愛というものを。
全部、覚えている。いや、思い出した。
そして、記憶に残ったその食らった者達の無念を、刹鬼は初めて理解した。
世界中の「彼ら」が愛した何兆、何千億という者たちを無残にも切り刻み、食い散らかしたそのおぞましさを、自らの心で初めて理解した。
雪枝として生まれ生き続けるうちに身に着けた「心」というものが、数百年という月日を経て、その非道さを、惨さを、ここにきて初めて、刹鬼に理解させた。
「たのむ、助けて、殺さないで!」
「いやだ、やめて、あああああ!あああああああああああ!」
「子供だけは、見逃してなんて、そんな、やだ……」
「いがっ……あああっ!がああ!」
「痛い!いだい!いだいい!」
過去に食らった者たちが、仲間たちと重なる。春花、晴地、次郎、ツキヒメ、爺妖怪にクニモリに大入道などの妖怪たち、春花の周りの動物霊たち……。
彼らと同じような彼らを次々と残忍に食らってきた記憶が、雪枝に躊躇いなくなだれ込んできた。
雪枝は耳をふさいだ。しかしそんなことをしても、頭の中で響くそれらは止まることはなかった。
「でも、でも私は知らなかったんだ。わからなかったんだよ!」
暗がりの中、刹鬼自身の精神で作られた箱庭の中で、脆弱な雪枝の心は、耳をふさぎ、蹲り、動かなくなった。
とめどなく流れ込む「彼ら」の嘆きや叫び、最後の祈りは、それでも次々と雪枝へと流れ込み、その存在をいっそう惨めにした。
「ああああああああああああああああ!!やめて、やめて、もう、やめてくれ……」
いくら祈ろうが、忘れられていた数多の心たちの雪崩は留まることなく、雪枝は悲鳴を上げながら、それらを受け止め続けた。
人として生まれ十数年。そのまだ未熟な心に、刹鬼の居た世界で生きていたはずだった何兆何千億が、自分たちの最後の声を伝えてきた。
外界とは時間も空間も切り離された心の箱庭で、雪枝は延々とその声を聞き続けることになった。
◆◇◆
一方、雪枝の心の箱庭の外、現実の世界では、魔物「刹鬼」が、本来の姿を再構築し終えようとしていたところだった。
体が出来上がるまでの間、クニモリたちもただ見ていたわけではない。さまざまな攻撃を繰り出し、何とかその命を削ろうと、何度も試みた。しかしすべての攻撃は無意味だった。
霊力を使った攻撃はすべてその肌に吸収され、物理的な攻撃をするも、その傷は瞬時に癒されてしまった。
「これほどとは……。甘く見ていた。オロチの雷すら無意味とはな……」
ヨヤモリが眉間にしわを寄せながら、腹からうめくような声でつぶやいた。クチガネがさまざまなおべっかを駆使しながらフォローを入れていたようだが、ヨヤモリには聞こえていないようだった。
「そうは簡単にゆくまい。某とお主、われら二人の、当時最大の力をもってしても、倒すことができなかったのだからな。そこらの出来損ないにどうこうできるものか」
クニモリがずいと、その大きな体でヨヤモリとクチガネの間に割り込んだ。二人の大きな狐妖怪が並ぶ。霊力が反発し合い、雷のように音を立て、輝いた。
「お前、ここに来る前にも同じことを言っておったな。われら二人、とは、どういうことだ。私はお前なんぞと共に戦った覚えはないぞ」
「忘れているだけだ、わが友よ。今に解る」
そのとき、オロチが「私の物だ」と大きく叫び、刹鬼へ突進した。七つの首が、まだ動き出さない刹鬼の頭、両肩、両手、両足に噛み付くと、霊力を吸収し始めた。
見る見るうちにオロチが姿を変えてゆく。まだ細かった首や体に肉が付き、おぞましい文様が現れ、強い紫の光を帯び始めた。
「おお、オロチ。ははは、その調子だ!」
「おお…馬鹿もたまには役に立つ。よし、ヨヤモリ様、私も参ります」
「うむ、行って来い。私も力を貸そう」
勢いづいたクチガネが、刹鬼に飛び掛る。ヨヤモリは後方から、クチガネの力を増幅する術をかけていた。
「クニモリさん!」
晴地が、血相を変えて走ってきた。
「どうした」
「春花が、調子が、えっと、苦しそうで……」
「あの魔物を倒さないことには、どうにもならんだろう。いや……」
「なにか、どうにかできませんか」
「某の力を、解き放つべき時が来たのかも知れぬ。思えば、真悠子もこの力に苦しんでいたのかもしれんな……」
「え?まゆこ、さんです?」
「某の妻……ツキヒメの母だ。いや、すまない。重ねてしまった。ともかく、今は某らが何とかしよう……おい」
目を一度伏せ、次に目を見開いたとき、クニモリの瞳は決意に燃えていた。クニモリはヨヤモリの肩に手を置き、呼んだ。ヨヤモリは心底鬱陶しそうに、術を次々放ちながらも「なんだ」と答えた。
「時は満ちた。某の中のオマエの魂を返そう。あの時の雪辱を果たすのだ。今度こそ、この世界を、守らなければならぬ」
「だから何を言っておるのかわからんな。……しかし魂は受け取ろう。そろそろ、オマエに協力するのも飽きたのでな。魂を返されたならば、後は好きにさせてもらうぞ」
「好きにするがいい。受け取れ……!」
クニモリは阿修羅のように腕を生やし、それらを大きく広げた。クニモリを中心に、風が吹き始めた。祟り地の悪臭が消えてゆく。金色に輝くクニモリが、辺りを浄化しているのだ。
「夜の守り手、ヨヤモリよ。御身の魂を、日の守り手、このヒノモリが解き放つ!受け取れ、そして思い出すのだ。われら2柱の使命を!」
クニモリの毛皮が、より金色に変わってゆく。鎧が美しく再構成され、さび付いた刀は、打ち立ての名刀のように輝き始めた。
そして輝きが最高潮に達したとき、クニモリから同じような金色の光が飛び出した。そのときだった。
「グギャアア!!」
刹鬼が叫び、飛んだ。目標は、クニモリから飛び出した金色の魂だ。喰らい付き、力を吸って着実に大きく成長していたオロチは、一瞬にして吸われ、消滅した。
「まて、それは私のものだ!……動けぬ!?貴様、クニモリ、オマエの仕業か!」
「魂が戻るまではわれらは動けぬ……油断していた。あのオロチでもしばらくは持つと思ったのだが。いささかまずいな」
刹鬼が魂に近づく。残りコンマ1秒もなく、魂が食われてしまうところ、二つの声が響いた。晴地と、クチガネだ。
「うおおおおお!」
「ぬううううううん!!」
ふたりの全力が、刹鬼の体にぶつかった。飛び掛る刹鬼の軌道がわずかにずれ、すんでのところで魂に触れず、クニモリたちを飛び越していった。
「すまぬ、晴地」
「大丈夫です。でも、すぐ来るみたいだ」
「おお、よくやったクチガネ!」
「この程度、従者の務めでございます」
無事、輝く魂がヨヤモリに戻る。魂がスッと吸い込まれたカと思うと、今度は、ヨヤモリの体から紫色の塊が飛び出した。
クニモリとヨヤモリは、静かにその塊を目で追った。塊は、先ほど刹鬼が飛び込んだ辺りの岩地に吸われるように消えていった。
2柱の金色の狐は、静かに、辺りの様子に集中していた。金色の毛皮に、張り詰めるほど強力な聖なる霊力。
二つの妖怪は、この世の守り神、ヒノモリとヨヤモリ。昼と夜を代わる代わる何千年も守り続けてきた神であった。
「……」
「あ、あの、ヨヤモリ様…?」
ヨヤモリの表情から悪意の笑みが消えていた。冷静な表情をしたヨヤモリは、傍らに寄り添うクチガネにちらりと目線を振ると、「今まで世話になった」とだけ言葉を落とした。
「え、それはどういう…」
「……ヒノモリ。私を呼び覚ましたということは、あの魔物の弱点が分かったんだろうな?」
「……まだつかめておらん。しかし、これ以上放置できなかったのだ」
「……ハァ!?あのなぁヒノモリ、まえっっからそうだけどよ、何でそうすぐ考えなしに行動すんだよ!あ~もう、ヒノモリに任せたことがやっぱり間違いだったか。そこに居るクチガネの方が幾分マシじゃないか?」
厳かな張り詰めた空気はどこへやら、予想もできないほど軽々しい口ぶりでヨヤモリが話し始めた。
「スマン」
ヒノモリは頭を垂れ、一言謝罪した。しかしそれではヨヤモリは収まらない。続けてヒノモリを追求した。
「何が理由だよ、せっかく体を張って魂の半分を封印してやったってのに……。まだ世界の崩壊も始まってないし、ほかにどんな……」
「んんっ……あれ、ツキヒメちゃんはどうなったの……?」
そこへ春花が現れた。呪われ、紫に変色していた体は、かすかな呪いの香りを残して、すっかり元通りになっていた。春花はきょろきょろとツキヒメを探している。
ぼんやりと無防備に辺りを見回す春花に、晴地が飛びつき、そして強く抱きしめた。なんども、「よかった」と繰り返し、強く、春花を抱きしめていた。
「まさか……」
「うむ」
「ば、ヒノモリオマエな……人間一人のために……コレだからお人よしは……」
「うむ」
「うむじゃねーよ!……ハッ!」
悠長にじゃれあっているところに、岩地から再び刹鬼が飛び出した。刹鬼は光線のようなものをヒノモリたちに放った。しかしそれは。ヨヤモリによって軽々しく消し飛ばされた。
「そうだった、そうだったな。刹鬼オマエは情緒の分からない奴だったな」
ヨヤモリが術を唱える。野が一瞬にして平らに変わると、大きな紋章が現れた。
「消し飛べ、悪しき者よ」
刹鬼を囲う紋章から、浄化の光が立ち昇った。しかし、刹鬼はそれを意に介さず、それどころかすべての力を食い、さらに大きくなった。
「相変わらず意味の分からん吸収力だな」
「半魂でも某の出力とほぼつりあった吸収力であった」
「無敵かよ。あーそこの妖怪……クチガネと人の子。ここからは我らの仕事だ。巻き込まれぬようにどこか遠くへ避けていろ」
身振り手振りを加えて、ヨヤモリが逃げるよう指示をした。大きな争いは、小さな存在などは消し飛ばしてしまうだろう。
晴地やクチガネほどの力があったとしても、そんな程度の力では無意味なのだ。ヒノモリやヨヤモリも、例外ではないかもしれない。
そこへ、穏やかそうな声が響く。
「ほほほ……逃げても無駄でございます。あれの力は、世界すべてを壊すでしょう」
翁の仮面の妖怪、ウワサガリだ。仮面の表情は、元の穏やかな顔に戻っている。
「我らでは力不足というわけか」
落ち着いた様子でヒノモリが聞く。
「当然。何の策もないならば、以前と同じ結果が待っているのでは?いえ、今回は手の内がばれておりますから、お二人とも死んで終わりでしょうな。ほほ……」
「そうなら、ではどうしろというのか、申してみろ」
苛立ちを隠せず、ヨヤモリが言い返した。
「ふむ……」
「力が不足しているなら、我々の力をお使いください。守護神ヒノモリ様」
後方から声が響いた。そこには、鳶巣政久率いる討伐部隊が隊列を成していた。
みな、鳶巣家の精鋭ばかりだ。僧兵のようなそれらは、政久が指示を出すと、とても統制のとれた機敏な動作で、戦いの準備を始めた。
「鳶巣の長男か。父はどうしたのだ」
「父は他界しました。悪しき鬼の呪いに蝕まれて、先日、この世を去りました」
「そうか、それでここへ来たのだな」
「はい。我ら討伐、いえ、我らが父の弔い部隊にも、どうか活躍の場を」
「……よかろう。今回ばかりはおぬしらの力を借りる事とする」
「ありがとうございます」
ヒノモリと政久が、互いに丁寧に頭を下げた。それを見たウワサガリがほほほと笑う。
「あとは成るように成れ、ですな。ほっほっほ……」
「いちいち気に障る奴だ」
「俺も、力になります!」
「ちょっと霊力が使えるただの人間ごときが……ん?ほう、なるほど」
ヨヤモリがじろじろと晴地を品定めする。大きな顔が近づいて、気おされた晴地は2歩3歩、後ろへ後退した。
「ほほほ……気が付かれましたか。晴地は“王の器”。いつか我々を束ねる力の欠片を持っておりますからな。それも、現存する人間たちの中では最も力の強い存在なのです」
「え?それはどういう……」
「私たちよりも上に立つ可能性がある、人類の特異点というわけだ。……驕るなよ、お前以外にも何人も同じような人間は居るのだ」
「よく分からないんだけど……」
晴地は首をひねって見せた。妖怪たちの話は抽象的で、具体的に何ができるのか、何がすごいのかを、晴地は理解することができなかったからだ。
晴地はさらに突っ込んで話を聞こうとしたが、そんな時間の猶予はなかった。先ほどから何度も、刹鬼が攻撃を仕掛けてきている。距離が徐々につめられ、もはやこちらから攻勢に出なければ、一団の命はない。
晴地が質問を躊躇ったのとほぼ同時に、弔い部隊の一人が、政久の下に駆け寄ってきた。
「政久様、準備が整いました!」
「分かった。それでは、戦いを始めるぞ。命を散らしてでも、この世界を守るのだ」
不穏な空気を察した刹鬼が、叫び声を上げ、飛び上がった。ヒノモリはそれを見逃さず、同時に飛び上がった。ヨヤモリが、ヒノモリの力を増幅し、足場の祟り地を消去、拘束術を展開する。
「ははははは!その程度の術でこの刹鬼にかなうとでも思っているのか?」
初めて刹鬼が口を開いた。聞こえる声は、雪枝の声だ。巨大な口から発せられた大声は、大地を震わし、一同の耳を劈いた。声は遠くまで遠くまで響いているようだった。
刹鬼はヒノモリの刀を受けると、それをそのまま喰らった。金属が霊力に変換され、刹鬼の体へと吸収されていく。
ヒノモリは、刹鬼が喰らっている一瞬に、力を最大まで開放した。体はよりいっそう金色になり、後光が射した。6本の腕を空高く掲げると、何もないはずの空間から、異様なほど巨大な刀が1本現れた。
ヒノモリはそれを、全身全霊をかけて振り下ろす。
刹鬼は当然、刃を防いだ。しかし、喰らうことまではできなかった。金色の聖なる力は、刹鬼の吸収を阻害し、刀を喰らわせなかった。刹鬼は押し戻され、ヨヤモリが仕掛けた拘束術に向かって落下してゆく。
「放て、光の刃だ」
政久が腕を振り下ろした。すると、落下する刹鬼めがけて、数千本の刃が次々と現れ、落下していった。刹鬼は地面に打ち付けられると同時に、拘束術と刃の対処を行おうと暴れたが、捌ききることはできなかった。
身動きが取れなくなった刹鬼の体に次々と刃が突き刺さってゆく。
「続けて、神の雷」
聖なる雷雲が刹鬼を取り囲む。途絶えることのない雷が、刹鬼の上に降り注ぎ始めた。
「我らも続くぞヒノモリ」
「うむ」
ヒノモリとヨヤモリが、互いの手首を切り、血を流した。血は空に浮かぶと、
それぞれが弧を描き、円になった。
「悪しき者に陽の粛清を」
「愚かなる者に永遠の孤独を」
刹鬼を囲む、真っ黒な円筒状の障壁と、その上に小さな太陽が現れた。円筒の上から太陽が沈んでゆく。刹鬼の叫びが小さく聞こえる。
数千の刃と、数千の雷、そして太陽の熱に焼かれながら、刹鬼は地獄の苦しみに喘いでいた。
「そこで、100年の地獄を見るがよい」
「それまで生きていることができるのであれば、な」
「すっげ……俺出る幕なかった……」
二人の大きな狐妖怪と鳶巣一団らの力を見て、晴地がつぶやく。そのとき、茂みから人影が現れた。
第17話:愛を得た魔物
「まて!まった!!」
茂みから人が飛び出す。術師の装束に身を包み隈取りをした白髪の男、次郎だ。
「それ以上やめろォ!!」
次郎が叫ぶと同時に、霊力の波動がビリビリと広がった。決して弱くはない次郎の霊力が、必死な叫び声にのせられて衝撃波となって響き渡った。
大きな獣が叫んだかと言うほどのその声に、その場にいたすべての人間、妖怪たちは、一同に次郎の方を向くと、静まり返った。
5秒ほどの沈黙のあと、政久が沈黙を破る。
「誰かと思えば次郎か。何をしに来た。お前の居場所はここにはないぞ」
「いーやあるね」
冷徹な表情を向ける政久に対し、次郎はごくりと生唾を飲み、一息整えた上で改めて口を開く。
「頼む!!」
先程のような大声。狩猟声のような威圧的な音が響く。
「そこにいる刹鬼……いや雪枝は悪いやつなんかじゃねぇ!!だから、だからさ!!」
全く以てあきれたという表情のヨヤモリが、割り込もうとした。だがそれは、目を伏せたヒノモリが制止した。
納得しかねるという表情ではあったものの、ヨヤモリはヒノモリの意思を汲み、清聴を決め、静かになった。
次郎の演説が続く。
「どうにかそいつを放してやってくれないか。許してやってくれないかなぁ。そいつはずっと人間として生きてきてさぁ、いいやつでさぁ、ここで死ぬのは、可愛そうっていうかよお、いや、結局俺が寂しいんだよ。
あいつは誰かの心を想えて、他人の為に生きられる、そんないいやつだったんだ。支えなんだ!」
次郎が、晴地と春花の方向を向く。じっと、数秒間二人を見つめた。そして再び口を開く。
「お前らもさ、もしかすると覚えてないかも知れねぇけど、仲良くしてたじゃねぇか、春花なんてお前……いや、なんでもねえ、覚えてないからそうなっているんだよな」
そこまで言って、次郎は茂みに倒れる存在に気がついた。ツキヒメだ。真っ青になった次郎が、ツキヒメに駆け寄る。息があることを確認し、寝かせたまま肩を叩いて何度も名前を呼んだ。
観衆が見つめるなか、ツキヒメはゆっくりと目を覚ました。
「う……お前は次郎か。あ、ゆ、雪枝!雪枝は!」
「あそこ、あの黒い柱の中だ」
「あれは結界か!なんと強固な……あんなもの、父上でも出られぬではないか」
ひときわ大きな雪枝の叫び声が聞こえた。肉を裂かれ、骨を焼かれているのだろう。激痛にあえぐ声にツキヒメは震え上がった。
「なんと惨い……雪枝……」
「こうでもしなければ、やつは止まらん。こうなった以上、もうどうしようもないのだ。お前には辛いが、どうか、世界のためと此を受け入れるのだ、ツキヒメ」
背を丸め、屈み、目線をはっきりとツキヒメに会わせた大きな金狐の大妖怪ヒノモリが、穏やかだが力強い声で重要性を説く。だがツキヒメはそんなことでは納得しない。
かつて父であったその大妖怪ヒノモリの顔を強く睨み付ける。しかし先に口を開いたのは次郎であった。
「知ったことじゃねぇ……」
それに対して、もう一匹の金狐、ヨヤモリが声を漏らす。
「なんだと?」
「知ったことじゃねぇっつってんだよ!」
ツキヒメと同じように相手を睨み付けると、ツキヒメが驚いてつい目線を向けるような声量で、次郎はもう一度、強く言い放った。
「昔どうだったかなんて関係ない。あいつは大丈夫だ。俺は知ってるんだよ!あいつは、他人に迷惑をかけてまで自分の欲望に忠実になる人間じゃない。きっと、俺たちに、世界に害なんてない」
ヨヤモリがこれに答える。
「……やつが自分でどうこうするという話ではない。あれは、その存在そのものがこの世界への、それぞれの生命への害になる。例えばホレ、そこのおなごだ。先程まで呪いに侵されていた。そうだな、晴地とやら」
「あれは、刹鬼の呪いだったんですか」
「そうだ。やつの存在は、今そこにあるものをなかったことにし、ないはずのものを作り出し、必要不要に関わらず、そこで生きるものを呪い殺す。関わりを持つものから徐々に、その命を奪われてゆく」
続けて、ヒノモリが語る。
「我ら二柱は、かつて、あの魔物を倒すために結束して戦い、そして負けた。そしてその結果、世界はこの島国を残して消え去った。次に同じことになれば、世界に残る命はあの魔物一匹になることだろう。
ツキヒメ、そして次郎よ。愛した者である人間雪枝を記憶に残すお前たち二人には酷だが、受け入れてもらわなければならない」
次郎は硬直した。ヒノモリは、心の中で「許せ」と呟いた。ツキヒメは首を垂れ、ぼんやり地を眺めていた。
二人が黙ったことを確認すると、二柱の狐妖怪たちは、術をさらに掛け始めた。念には念を、というわけだ。あの魔物は、例え細胞ひとつだけでもこの世に残すわけにはいかない。
強固な結界が幾重にも重なって張られ、さらに強固な破魔術が空から無数に降り注ぎ始めた。その一つ一つが、そこらの妖怪ならば一撃で消滅するほどのものだ。これらを防ぐことができるとすれば、それは神を除いては存在しないだろう。
しかし、刹鬼はこれを打ち破った。
雷鳴をかき消す魔物の叫びがとどろいた。結界は、破魔術は、一瞬にして消え去った。
それらのすべてを、刹鬼が食らっていた。あの魔物は、すべての力を世界ごと食らい、まるで無傷で、そこに再び現れた。しかし二柱の金狐は諦めない。術がだめならと刀を持ち、刹鬼の全身を瞬く間に切り裂いた。
皮膚が割れ、肉が裂け、骨が折れる。その激痛に、魔物が悲鳴をあげた。しかしそのすぐ次の瞬間には、刹鬼は無傷に戻り、狐たちはそれぞれ片腕を失っていた。
「力が増しているな」
「うむ」
「勝てる気がせん」
「某もだ。以前とは明らかに違う。なにかがおかしい。こんなはずでは……」
消耗した顔つき。眉間に二本皺を浮きあがらせ、狐たちはどうすればよいか考えを巡らせた。そんなところへ現れたのは、ウワサガリだ。
「ほほほ……お二人にはどうにもできませぬよ。ヒノモリよ、貴殿が互角だったのは、半身の、そのまた半身。半身はかつてお二人が戦った魔物と呼ぶもの。そしてもう半身は、人間・雪枝。
もうすぐあれらはひとつになる。奴は本来の力を取り戻し、あの鬼は、かつての力を取り戻す。もうすぐです。ほほ……もうすぐ全てが終わる!」
狂喜の声に狂気の仮面。大きな二柱の狐はおののいた。しかし、なんと言われようと退くわけにはいかない。今、自分達が逃げたなら、今度こそこの世界は消えるに違いないのだ。
刹鬼がぎょろりとこちらを向いた。ぬらっとした体表と焦点の合わぬ目が、不気味さを際立たせる。魔物は、ゆっくりと辺りの命の品定めをしているように見えた。
「雪枝……」
ツキヒメが呟いた。ヒノモリと次郎が心配そうにそれを見つめる。狂気の仮面もそちらを向くと、声を掛けた。
「さて、次郎にツキヒメ。このままでよいのですかな?滅びを待つ世界に、苦しむ友。どちらも放ってはおけますまいよ。ほほほ……」
「んだよ、わかってるよそんなこと。だけど、だけどっ……」
「わしは、行くぞ。わしは、雪枝のところに行く」
一心に、まっすぐと刹鬼の姿を見つめ歩み出したツキヒメの肩を次郎が掴み、制止しようとする。追うように晴地や春花も立ちはだかる。しかし、ツキヒメが出現させた強力な結界に皆、阻まれてしまった。
「ほほ……」
ウワサガリは笑っている。顔は、穏やかな翁の顔だ。ツキヒメは歩みを進める。しかし今度は目の前に、かつて、父、クニモリだったものが立ちふさがった。
ツキヒメの前に立ちふさがり、ヒノモリは優しく言葉を発した。
「どうか止まってくれ。お前には幸せになってほしいのだ」
それでも止まらない。そして止めても無駄だということは、ヒノモリにはわかっていた。ツキヒメは今、一つの想いに命の全てを捧げ、歩んでいるのだ。
ただ一人を深く愛し、それゆえに止まれないのだ。ヒノモリはそんなツキヒメの姿に妻を重ねた。こんなにも似ているとは。こんなところまで似ているとは。また、変えられないのか。無力感が頭を巡り、硬直した。
その横をふらふらと、しかし次第に強い足取りに変化しながら、ツキヒメは歩んでいった。
「くそ!俺もいく!雪枝もツキヒメも、放っておけるか!」
「次郎さん!」
「うるせえ、離せよ!お前だって、覚えていれば俺と同じになるに決まっているんだ、止める権利はねぇ!」
晴地の制止を荒っぽく振りほどくと、次郎はツキヒメの隣に駆け寄り、速度をあわせて刹鬼の方に向かった。刹鬼はというと、ゆっくりと近づく二人を、不思議そうに眺めていた。
意思の感じられない目。なにか小難しいことを考えて動かないというよりは、肉食動物が不思議なおもちゃをみつけた時のような、今にも飛びかからんとする様子である。その場にいるものは皆、息を飲んだ。
そして、皆の予感は的中した。二人めがけて刹鬼が飛びかかったのだ。しかしこれは、あらかじめ準備されていたであろう障壁によって阻まれた。術を掛けていたのは、鳶巣政久、次郎の兄であった。
「次はないぞ、次郎。奴はもう学習したはず。私の力は通じない」
「兄貴……」
「私だって、お前のことは放っておけないんだ。家族だからな」
「うん」
「私は親父とは違うからな」
「うん」
「どうせ世界が壊れるならば、いつ死んでも同じなんだ。やりたいことがあるならば、全力でぶつかってこい」
政久はそうも言おうとしたが、声にはださなかった。次郎ならば、言わずともそのつもりだろう。
「雪枝!!」
「おい雪枝!!」
二人は刹鬼に対して叫び声をあげた。障壁によるダメージで頭部が一部欠損したままの姿で、刹鬼は二人の方を見た。そして次の瞬間、飛びかかってきた。
二人は目を閉じなかった。しかし刹鬼は止まることなく、大きな口を開けて二人の眼前まで迫った。そこへ、二柱の狐妖怪が立ちはだかった。
そして二柱の狐たちは、下半身を残して、消えた。立ちはだかった狐たちは、何らかの術を展開していたようだったが、無力にも食われてしまった。刹鬼の霊力が爆発的に高まる。
「ち、父上!!」
「おい!雪枝!吐き出せ!てめー、なにを食ったかわかってんのかよ、おい!」
空の色が変わる。光が弱まり、辺りの植物たちは別のよくわからないものに変わっていった。
そして突如、春花が苦しみだした。ヒノモリの守りが消え、刹鬼の呪いに直接さらされたのだ。こうなれば、あとは瞬きする間もなく死ぬだけだ。
しかし、春花の回りだけが金色の輝きを取り戻した。勾玉が浮いている。いつかの時に、ツキヒメが渡したお守りだった。お守りの結界が、呪いのちからを弱めているのだ。
しかし春花の苦しみは止まらない。激痛が体を貫き、春花は絶叫を上げた。
「おい雪枝!なにをやっとるんじゃ!春花が!お前の、た、大切な春花が苦しんでおるぞ!」
「てめーなにしてんだよ!早くやめろ!」
「雪枝!」
「雪枝!」
二人は必死に叫び続けた。だが、雪枝からの応答はない。
◆◇◆
一方刹鬼の精神内では雪枝が全ての絶叫をその心で受け止め終え、疲弊していた。
全ての命の責任を受け止めようとしたが、それはあまりにも多すぎた。真正面から馬鹿正直に受け止めようとした結果、1%程度も受け止められぬまま、雪枝は心を砕かれ立ち上がれなくなった。
そして黙った。ただ心が死ぬことはなかった。元来横着で横暴だった刹鬼の心は強かった。半ば自分に都合よくそれらを解釈し、心が死ぬことを免れた。しかしその横暴さがまた、雪枝には耐えられなかった。刹鬼とは、雪枝自身なのだから。
「糞でどうしようもない。生きている価値がない」
でも、死ねない。
「死ねないよ。強すぎるよ。消えられないよ。邪悪すぎる」
「こんな力が撒き散らされたら、全て消えてしまう」
刹鬼が死ねば、溜め込んだ力が開放される。それらを受け止め、浄化できる者などいるわけがなかった。
封印以外に、穏便に済む手段はない。しかし、雪枝には封印の術は使えなかったし、刹鬼ほどの強力な存在を、いまさら他の誰かが封印できるはずもなかった。
「何で教えてくれなかったんだよ、誰か止めてくれたら、こんなに、こんな事にはならなかったのに!」
刹鬼には親がいなかった。仲間もいなかった。生まれたときから一人で、誰とも会話することもできなかった。そしてその生は、殺し合いから始まっていた。
十分に成長するころには、周りには刹鬼と話そうとするものなどいなかった。さらに成長し、悪鬼として名を知られるようになったころには、話をしたところで刹鬼はそれを聞く前に暴れ、食らってしまうような状態だった。
かつての鏡世には賢者と呼ばれたもの達がいたが、刹鬼は聞く耳を持たず、それら全てを食らってしまった。そしてついに、話をできるものはいなくなった。
刹鬼は、誰の優しさも、知識も受けることなく暴れ続け、そして世界を壊滅させたのだった。
「何で私は話をしなかったんだよ、なんで、あの人たちを食べちゃったんだよぉ」
堂々巡りは延々と続いた。結論はつかないまま、雪枝は苦しみ喘ぎ、暴れ、また罪を重ねた。体に神聖な力が満たされるのを感じた。ヒノモリとヨヤモリの命だ。しかしそれらはすぐに邪悪な力に変換された。
ツキヒメと次郎が叫んでいる。春花が苦しんでいる。世界が、刹鬼の存在を受け入れる形に変化をはじめた。もう、考え込んでいる時間はない。
「クニモリまで…。体が勝手に動く。とまらない」
「もう終わりだ。どうにもならない」
「どうしようもない。なんでこんな事に」
「せめて、せめて世界の変化だけは止めないと、皆が死んでしまう。でも、どうやって」
「無理だよ、どうしよう、どうしようもない」
疲弊した精神では思考も十分にできなかった。無為に時間だけが過ぎ、世界が侵食されていく。きっと、すぐにこの島もなくなってしまうに違いなかった。だが、雪枝には手段がない。
「そういえば」
雪枝は思いついた。鏡世だ。あそこにいけば、ここ現世は助かるのではないだろうか。
どうせ鏡世は壊滅してしまっているのだ。自分が全て食べたのだ。いまさら何が起こっても問題はあるまい。
「ああ、でも、移動方法がわからないんだった」
「私は馬鹿か」
「そんなことはありませんぞ」
心の世界に、雪枝以外の声が響いた。
「ほっほっほ……思い出したようですな、全て」
「……受け止めたようですな、全てを」
穏やかな翁の仮面が問う。雪枝は、答えた。
「殆ど受け止められなかった。私は逃げた。無視した」
「ですが、悔やんだでしょう」
「それは、そうだけど」
「それは、刹鬼にはできなかったことですからな」
ほほほと笑う声。どこから響いているのだろう。ウワサガリは仮面をはずしていた。
仮面の下は、真っ暗闇だった。顔がない。顔がないのだ。のっぺらぼうではなく顔がない。雪枝はこれに見覚えがあった。
かつては穏やかな顔を持っていた賢者。そして刹鬼の記憶にある限り、最後に戦いを挑んできた者たちの一人。顔は刹鬼が食らった。食い損ねて顔だけを食らった。顔はそのまま、永遠に失われたのだ。
「最後の賢者……」
「いかにも。そして鏡世最後の生き残りにございます」
「私は、その、私は、私はどうしたら」
「先ほど鏡世に行くとおっしゃった。その方法を知っております。ですが、まだ不可能ですな」
「私が、体を、思うように動かせないから」
「ご名答にございます。まだ刹鬼と雪枝はひとつになっていない。まだ我らの封印は解けておりません」
すうと、ウワサガリの姿が薄くなった。
「ほほほ……。助けたければ……、いえ、助かりたければ、自覚するのですな。それでは失礼しますぞ」
「ま、まって」
そうしてウワサガリは消えてしまった。辺りは再び静かになり、外の声が聞こえはじめる。
「雪枝!春花が死んでしまうぞ!春花がどうなってもよいのか!」
ツキヒメが叫んでいる。
「何を勘違いしているんだよ。もう違うんだよ。大切なのはさぁ、もうとっくに入れ替わっててさぁ」
雪枝の声は震えていた。だがその声は、現実には音になっておらず、当然ツキヒメには聞こえない。
「雪枝!俺はお前を信じてるからな!ぜってぇ元に戻るって信じてるからな!」
次郎が叫んでいる。
「こっちは本当に信じたことなんてなかったよ。お前に命をかけられるなんて、思ってもなかった。……友達なんて、口先だけだって。でも違って、お前は違って、私は何を見てたんだ」
声が反響したように、雪枝の心が震える。
「雪枝!」
「雪枝!」
二人の声が重なった。
「戻ってこんか!」
「戻って来いよぉ!」
二人が泣いている。刹鬼が手を振り上げる。
「まって……!」
雪枝が悲痛な表情で、声をか細く押し出す。だが手は留まることなく振り下ろされた。
「そうか、今度は私が失う番なんだ。これは今まで殺してきた皆の報復なんだ。受け入れなきゃいけないんだ」
◆◇◆
刹鬼の大きな手が振り下ろされた。それは地を強く打ち、大きな地響きと大きな音を立てた。振り下ろされた刹鬼の手の下にあったはずのものは、全て粉塵と化した。ただし、ツキヒメと次郎の二人だけを除いて。
刹鬼は、二人に触れなかった。振り下ろされた手の指と指の間で、二人は生きていた。
「でも、でもいやだ、私は、私を傷つけたくない。誰にも傷つけられたくない!」
雪枝は思った。なんて、私はなんて下種野郎なんだろう!散々人を殺し、願いを砕き、絶望を与え、あまつさえ世界を崩壊させた自分が、自分の幸せを願おうとは。絶望した。
しかし、自分の幸福を願わずにはいられなかった。自分を愛するものたちを失うことは、雪枝にはどうしても耐えられなかった。
そう気がついた時、雪枝は、刹鬼の体を少しだけ動かすことができた。間一髪で、ツキヒメと次郎を殺さずに済んだのだった。
しかし刹鬼の体を自由に動かすことができるわけではなく、刹鬼の目は、再び二人の存在を捕捉した。無論、殺すためだ。
「くそ!くそ!」
雪枝は苦し紛れにもがいた。もがきは刹鬼に影響を及ぼしたらしく、刹鬼は、逃れるようにズリズリと前に踏み出した。刹鬼の前方、そこには、ヨヤモリと政久たちによって仕掛けられた最後のトラップがあった。
神のごとき力を人間の知恵であつらった強力な術。刹鬼を殺すことのみを考え練られたその術は、刹鬼の足の先から、再生を妨害しながら少しずつ削り始めた。
「これ、この術なら死ねるのかな」
しかし突如、雪枝の中に恐怖が生まれた。「死にたくない」と、願ってしまった。
思った瞬間、雪枝は自由に動くことができた。強力な術は、雪枝と刹鬼の力によって、瞬時にかき消されてしまった。
自由になった刹鬼の体は当然修繕され、また当然、二人の姿を捕捉した。
「私は一体何をやってるんだ。死んだほうが良いってわかっているのに、どうしても死ぬことができない!」
雪枝は悩み、刹鬼に抗うことを忘れた。すると刹鬼が、尾びれを二人に向かって叩きつけんとした。
「でも、二人も殺したくないよ!」
都合の良い事ばかり。自分の都合ばかり。全て自分にとって幸せに進むようにと、雪枝は願ってしまう。雪枝はそんな自分が許せなかったが、しかし願うことをやめることはできなかった。
それは、自分の命すら顧みず、常に刹那的な快楽のみを求め続けて生きてきた刹鬼にはなかった、自己愛の発現であった。雪枝はこのとき初めて、自分を愛するということを自覚したのだった。
「雪枝!」
ツキヒメが再び叫ぶ。雪枝はこれに答えた。
「ツキヒメ……!私はお前を殺したくない。次郎もだ。晴地も春花も、本当は、クニモリ……いや、今はヒノモリさんか。ヒノモリさんも殺したくなかった。この世界にも、できれば変わって欲しくない」
「全てが私の宝なんだ。私は皆が大切なんだ」
「いや……卑しい私は、私のことが好きでたまらないからこそ、それを形作るものを捨て去ることができないんだ。好きなものや、好いてくれるものを失いたくないのは、全て自分のため……」
いつの間にか、刹鬼は暴れなくなっていた。刹鬼は、雪枝になっていた。刹鬼の顔からは狂気が消え、雪枝だったころの、ほんの少し儚げな雰囲気が伝わってくる。
「ほほほ、ついに慈愛の呪いが、封印が解けましたか雪枝」
ふよふよと、翁の仮面を付けたウワサガリが現れた。
「慈愛の呪い?」
次郎が繰り返すようにつぶやいた。
「いかにも。我ら賢者が刹鬼に施した、封印の呪いにございます。愛を知らぬ者にのみ効果を発揮する、愛を知り、愛を心に宿すまで消えぬ、強力な呪い……。
雪枝様はどうやら、呪いを解くことができるだけの愛というものをお知りになったようですな」
以前雪枝のお付をしていたころのような穏やかさで、ウワサガリは語った。
「我らが鍵としたのは、家族愛、性愛、友情、郷土愛、異種愛、そして、自己愛」
そして雪枝が再び口を開いた。
「私はきっと、晴地から、春花から、次郎から、クニモリさんから、ツキヒメから……それ以外にも、色んな人や妖怪たちの姿を見て、色んな情けを受けてそれらを学んだ。そして最後に、それら全てを失いたくないと願った」
「それらが鍵となったのです。ほほほ、王の器である晴地様のところに貴方を預けたのは正解だった。見事に全ての鍵へと導いてくれたのですからな。
まず初めに与えられるべき家族の愛がなければ、全ては始まらない。あの男はよい働きをしてくれました」
「お、俺?俺が家族?」
晴地が怪訝な声を上げた。
「そうだよ、雪枝はお前の兄だった。鬼断ち兄弟って、思い出さねぇ、よな」
次郎がその疑問に答えた。しかし晴地は当然思い出せず、怪訝な顔を浮かべるだけだった。
「いいんだもう、思い出さなくて。私はもうこれから皆と関わらなくなるんだから」
「な、どういうことじゃ雪枝!正気に戻ったならば、このまま、以前のように戻ればよいではないか!」
ツキヒメが刹鬼の体にべったりと張り付き、懇願した。ツキヒメは、もう二度と雪枝と離れたくない。雪枝を失いたくないと喚いた。
「ごめんねツキヒメ。私もお前と一緒に居たいけどね、そこまで幸せになる権利もなければ、私の力がそれを許さないんだ。
ある程度抑えられるとはいえ、私がここに居る限り、この世界を侵食することを止めることはできない。
春花だって、私が力を抑えた上であの結界の力が常に発動し続けなければまた苦しみだすことになるし、それに、春花みたいな人は徐々に増えるだろう」
「決してもう、以前のままでは居られないんだ」
できる限り穏やかな声で雪枝は語った。しかしその声がかすかに震えていることは、
その場に居るすべての人が聞いて取れた。
「何か手はあるにきまっておる!だからお前はわしと…」
「だからさぁ!もういいんだって、私は権利がないんだって!私がどれだけ奪い続けてきたか!どれだけ不幸を振りまいてきたか!生きているだけでも罪なんだよ。それでも甘いんだよ!」
刹鬼はここまで叫ぶと、一息おいて、もう一度穏やかな震える声に戻ってから言った。
「だから、もう、放っておいてよ」
だがツキヒメも負けては居ない。持ち前の芯の強さで、雪枝に何度も何度も考え直すよう詰め寄った。その場に居たみなは、ただそのやり取りを見ていた。
意識を取り戻した春花も、結界の中で、なんとなく心のしこりを感じながら、そのやり取りを見つめていた。
だが、雪枝が折れることはなかった。雪枝は、あまりにも多くの「声」を聞き、罪を感じていた。九分九厘無視していたとしても、それらは雪枝に強烈な罪を刻み込んでいた。
「もうやめてよ、知りたくなかったんだ、こんなこと。こんなに苦しいのなら、こんなにもどかしいのなら、私は無知な化け物のまま殺されても良かったのに!」
そしてついに、ツキヒメが折れてしまった。静かに、うめくように泣き出したツキヒメを尻目に、雪枝はウワサガリに聞いた。
「どうしたら、鏡世へいけるか教えて欲しい」
「雪枝様ならば、願うだけで行けるでしょう。後は感覚でございますよ」
「わかった。ありがとう」
雪枝は強く念じた。刹鬼の体が、尾びれの先からゆっくりと消えてゆく。反比例するように、空は青く、明るく戻っていった。
「う、ゆ、ゆき、し、ゆきし」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったツキヒメが、刹鬼の体に再びしがみつく。雪枝は刹鬼の大きな手で優しくツキヒメの体を包み込んで言った。
「ごめんねツキヒメ。永遠に、さようなら」
世界が明るくなり、刹鬼が消えてゆく。最後にツキヒメを包み込んでいた手が消えると、外はすっかり、明るく清廉な世界に戻っていた。
世界に平穏が戻ったのだ。しかし以前のとおりではない。この世界にはもう、ヒノモリも、ヨヤモリも、雪枝も居なくなったのだ。ツキヒメの身寄りは、完全になくなってしまった。
第18話:鏡世の魔王
櫓山の、まだ壊れたままになっているほこらの前で、白い長髪の男が一人で腰かけている。
鳶巣家次男、次郎だ。彼は特になにするでもなく、優しく撫でていく風を感じながら、年月と世界の流れを想っていた。
雪枝が去ってから、一年が経過した。世界は、まるで雪枝が始めからいなかったかのように変化した。晴地や春花もその存在を綺麗さっぱり忘れ、水山家に雪枝の所有物は無くなっていた。もうこの世界に、雪枝の居場所はない。
けれど、彼の影響が全く無かった訳ではなかった。魔王セッキが世界を破壊に導いたこと、そしてそれを人と妖怪とで協力して防いだこと、それらが妖怪の無意識下へ人間への友好、興味を植え付けた。
妖怪たちは積極的に人間へと接触するようになった。通常、人は妖怪を見ることができない。けれど、妖怪に興味を持たれることで、よほど素質の無いものでないかぎり、その姿を見られるようになる。
霊力を行使可能になり、通常目に映ることの無かった世界を見られるようになるのだ。
そして、たくさんの妖怪が人との接触を行ったことで、1年という短期間の間に妖怪という存在はしっかりと世界に認知され、受け入れられていった。
国家も、妖怪を受け入れた形へ、姿を変えている最中だ。最近では、対妖怪の特殊機動部隊なんてものも発足された。
俺はというと、「高校生」から「フリーター」という肩書きになった以外、何も変わらない。
まだ、変われなかった。3ヶ月くらいは、ツキヒメちゃんと一緒に、雪枝を必死に探した。けれどそれももう諦めてしまった。
どこを探しても、誰に聞いても雪枝の手がかりは無いのだ。彼は世界からいなくなった。もうそれは、疑いようがなかった。完全に消えてしまったのだろうか、それともどこかで身を隠し続けているのだろうか。
そればかりが気になって、俺はここしばらく呆然と生きてきてしまった。
でも、それも今日までだ。今日ここにもう一度来て、それでも何もないならば、俺は俺の為に生きて行くと決めた。誰よりも雪枝の事を想っていた、狐娘・ツキヒメは、きっとまだ何処かで雪枝を探し歩いているのだろう。
けど、俺には俺の人生というものがあるのだ、雪枝抜きで、人生を立て直さなければならない。俺はただ、今日という区切りの日が過ぎるのを、櫓山の祠で待っていた。
待てども当然、何も起こらない。これまでの一年と同じように、祠での時間は無常にも平穏に過ぎていった。ただ、山間部特有の冷たい風が流れ、木の葉が揺れ、虫が蠢き、鳥が歌うだけだ。
俺はただそこへ居つづけた。何をするでもなく、一点を見つめ、死んだように動かず。けれど、目だけはしっかりと生気を保ったまま。
そしてそのまま、本当に何も起こらないまま、夕方を迎えた。陽の色が変わる。祠へ来て、初めての世界の変化だった。いっそ、この光が燈色でなく紫色であったらと、不謹慎なことまで考えた。
「そろそろ、もう、いいか」
俺は少し気持ちに嘘をついて微笑み、立ち上がった。しばらく動かさなかった関節が音を立て、体に電気信号が走った。感覚が研ぎ澄まされる。生き返ったように息を大きく吸うと、辺りを今一度ゆっくりと見渡した。
……そして、歩き出そうとしたところで、先ほど見渡した景色に違和感があったことに気がつく。もう一度そちらを見、目を凝らし、気を張った。
(なんだ、俺は何を見たんだ。)
目を見開き、目を凝らす、神経を集中して一点を見る。両目が双眼鏡になったようだった。
動いてもいないのに、そこへ吸い込まれるように視界が迫っていった。50メートルほど先、空中に何かがある。小さな小さな何か。見えないのに、そこにあることはわかる。強烈な存在感。
ごくりと息を飲み、右足を、左足を、一歩ずつ慎重に、押し出すように動かした。近づくほどに強くなる存在感。そしてこの、土が腐ったような匂い。祟り地の匂い。恐ろしくも、懐かしい。
「止まるのじゃ。それ以上進むでない」
突然、背後から言葉が聞こえた。そこにはいつの間にか、ツキヒメが立っていた。俺が動揺を隠せずにいると、すかさず彼女は俺の手足を障壁で縛り嫌味に笑って見せた。
「ははは!久しぶりじゃのう次郎。お前もまだ独りでおったか。諦めの悪い奴じゃ。しかし、悪いが雪枝のところへ行くのはわし一人だけ。お前には行かせてやらぬ」
「雪枝……」
自分以外のだれかの口から彼の名が出て、つい次郎も彼の名前を口にした。
「よいな。はははは!お前なんぞに雪枝はやらん」
普段以上に気丈に振舞うツキヒメは、今まで何度見てきたよりも弱弱しく見えた。体中薄汚れ、手は傷だらけ。いったいどれだけ雪枝を探していたのだろう。
それでも、化粧だけは崩さないのは雪枝を想う乙女心ゆえだろうか。俺がしばらく沈黙していると、ツキヒメは無言で違和感の方へと歩みだした。
「おい!」
手足はツキヒメの強力な障壁で拘束され動かない。仕方なく俺は、ツキヒメに向かって叫んだ。しかし、反応しない。俺の声を無視して、ツキヒメは進んでゆく。
「まてって!おい!おいツキヒメ!」
きっとあの違和感の正体が、雪枝へつながる何かなのだ。ツキヒメは努力の末それを知り、探し当て、ここまできた。
……俺がここに居るのは偶然で、そんな努力をしたわけではないけれど、それでも目の前にきたチャンスを、そのまま見過ごすことはしたくない。
「ツキヒメ!俺も連れて行け!おい!おい!……おい!!」
「連れてゆけ……?」
何度も叫んでいると、一際強く土を踏みしめ、ツキヒメが歩みを止めた。
「お前は……お前はまだ……ぐ……」
ツキヒメの足元から、まがまがしい霊力が立ち昇りはじめた。黒く光を通さない瘴気が、ツキヒメから湧き出ていた。
「お前、それ……」
「うるさい!うるさい!黙れ、この半端者が!!自分も雪枝も信じられず、諦めたばか者が!!今に未練があるまま、別の望みを叶えようとする不埒者が!!」
ツキヒメの周りの植物が死に絶えてゆく。それは、まるで命を吸っているかのようだった。俺は言葉を失った。ツキヒメはまるで、悪霊そのものだった。未練のままに彷徨い、関わる者を死に誘う凶悪な……
ツキヒメは、息を整えようと必死になっていた。黒いものが収まってゆく。十分ほどかかって、ツキヒメはもとの様子を取り戻した。
「……すまぬ、次郎。しかし、お前をここから先に連れてゆくことはできぬ。お前には未来に望むものがある。成し遂げるべきものが、心の中にあろう。
しかしここから先へ行くには、それら全てを断ち切らなければなるまい」
ツキヒメの目は真剣だった。だから、それが嘘偽りでないことを思い知らされた。彼女は嘘をついて誰かを出し抜くような者ではない。
それは知っている。……しかしだからといって、諦めるかどうかは話は別だと、俺の心は言っていた。
それでも、頭では理解した。きっと、俺はこの先へ行っても、よりいっそう後悔することになるのだ。だから俺は、心を理性で締め出した。
「そうか、わかった。そうなら、雪枝を探すことを諦めた俺には、荷が、重い」
俺は、ツキヒメに倣って気丈に、そして少しすかした様子で返した。その様子を見てか、ツキヒメは俺の手足を拘束する障壁を解除した。
「……ふん。わかったなら、よい」
そう返す、ツキヒメの潤んだ金色の瞳は、すこし落胆したようにも見えた。
◆◇◆
次郎はやはり、何もなせぬ半端者なのだろう。雪枝を探すことを諦め、そのチャンスを目の前にしてすら……わしが少しばかり脅かしてしまったとはいえ、それに怖気づき、進むのを止めてしまった。
何をするにも一歩踏み出せぬ、そんな小心者。しかし今回ばかりはそれも良かったのだ。人間が「あちら」に行って、生きて帰ってこられるとは、わしは到底思えぬ。
「雪枝を、頼む、な」
綺麗な顔を引きつらせ、作り笑顔で、次郎が雪枝の事を案じるように、最後に放った言葉だ。
半端者だが、優しくて、特に雪枝には良くしていたというのだから、わしも実際のところ、悪い印象は持ってはおらんかった。奴には奴のよさがある、わしも理解してはいる。
きっとこんなことにならなければ、雪枝と共に、わしも仲良くしていた一人であろう。
「しかし、もう道を違えた」
次郎が「違和感」と言っていたものは、空間の歪。現世と、もうひとつの世界「鏡世」を繋ぐ道。
あの時、雪枝が向かった世界。米粒ほどのこの歪を見つけるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。しかしそれもここまで。もうすぐ雪枝に会える。
会いたいという気持ちだけが体を動かした。雪枝を受け入れない世界に対する苛立ちを、雪枝を飲み込んでいった運命への恨みを、愛しさだけが抑え続けてきた。
「もうすぐ、会える……!」
歪を中心に全力で障壁を逆展開、世界の壁に空いた小さな穴をこじ開ける。現世に対する思慮はこれっぽっちも無い。どうせその程度の変化など、勝手に解釈し、変化し、問題のない形に収まるのだ。
全ては、愛しいあの人に再開するため。それに比べたら、知ったことではない。
思惑通り、人一人が通るにはたやすい程度に穴が広がった。想定していた通り、吹き出た強い瘴気が、辺りを祟り地へと変えてゆく。
遠く距離をとっている次郎も、強烈な瘴気を見て、弱いなりに防壁を張っておるようだ。
禍々しい。体も心も、「あちら」へ引き込まれるようじゃ。
黄金の力が瘴気を拒む。それとは逆に、悪霊の力は、禍々しき世界を求めている。心は、かすかに混ざる刹鬼の、雪枝の香りにときめいている。
一歩を踏み出すと、鏡世が、あちら側が見えた。代わりに、現世は霞んだように見える。二歩三歩と進んでゆくとやがて、現世はまったく見えなくなった。辺りの景色はすでに、暗い鏡世。
通ってきた穴もやがて閉じてしまうのじゃろう。もはや後戻りはできぬ。しかしそれでよい。
世界に生気が感じられぬ。見渡す限り、目に見えるような動物は居ない。植物だけはちらほらと見受けられる。この有様が、過去の雪枝の所業というのじゃろうか。
現世ほど発展していた世界だったのだとすれば、一体どれほどの命を食らったのであろう。
何もないが、六感を研ぎ澄ませると、かすかに、雪枝の力が感じられる。間違いあるまい。ここに雪枝がおるのだ。否応なく心が躍った。
◆◇◆
長い長い沈黙。雪枝は、現世に別れを告げた直後からの長い沈黙を守り続けていた。
もう一年になる。何も言わず何も動かず何も飲まず何も食べずに、周りの光全てを遮断する、社の廃墟の中で篭り続けた。
しかし刹鬼である雪枝が死ぬことはない。何兆、何千億という命を食らった刹鬼は、それだけの命が尽きるまでは生き続ける。果たして、世界が壊れるその日とどちらが早いだろうか。
鏡世の世界は静かだった。それゆえに感覚が研ぎ澄まされる。世界全てが自分の一部のように感じられるほど、世界の変化に敏感になった。たとえば蟻一匹が生まれた程度でも、雪枝は知ることができるだろう。
それでも、世界からは殆ど何も感じなかった。植物やほんの小さな微生物なんかが繁殖したり、成長したりしている事はあっても、それ以外は何も変化はなかった。
それだけに、この日の変化は衝撃的だった。
世界に大穴が開いた。妖怪のような悪霊のような「何者か」が、世界に入ってきたようだった。息遣いが感じられる。六感を研ぎ澄ませている様がわかる。
とてもとても遠くの方から、徐々に近づいてきているのがわかった。雪枝はついに、沈黙を破った。
「ツキヒメ……」
間違いないと思った。雪枝はツキヒメのほかに、そんな半霊半妖の存在を知らなかった。
「追い返さなくては」
この世界に居ては、飲めず、食えずで死ぬほかない。今の鏡世で生きていることができるのは、この刹鬼だけなのだと、雪枝は知っていた。
ツキヒメには死んで欲しくない。生きていて欲しい。その想いが、社の扉をギィと開いた。
久々の空は、以前よりも明るく思えた。気のせいかもしれないが、瘴気も薄くなっているようにも思う。雪枝が大きく呼吸すると、それはさらに加速し、空気はまた少し澄んでいった。
刹鬼の体が、辺りの瘴気全てを自らの力として吸収しているのだった。
そうとは知らず、雪枝は歩みだす。後悔と自責の念を纏った足を踏みしめ、ツキヒメの居るであろう方角へと進んでいった。雪枝の口からは、次々に独り言が飛び出す。
声に出さずに止めることなどできない。それは、刹鬼の呻き。
「いまさらどういう顔で会えばいいんだ」
「そもそも会ってよいのだろうか」
「そうだ、隠れていればいずれ諦めるに違いない」
「馬鹿な、これだけ時間をかけてでもここまでやってきたんだ」
「ツキヒメはきっと、死んでも私を探す」
「これはきっと傲慢なんだろうなぁ。私をまだ好きなんだろうなと考えるのは」
「意外と私もまだ喋れるじゃないか。言葉なんて忘れたかと思った」
「ツキヒメは誰かとちゃんと話していたかなぁ」
「あった後、どうやって追い返すか」
「この姿はむしろ止めたほうが良かったかな」
「力ずくで帰したとして、また来てしまうのではないだろうか」
「そもそもどうやってここまで来たんだ」
「そういえば少し様子が違う気がする」
「なにかあったんだろうか。春花とはうまくやれていないのかな」
「……春花とうまくやってほしいって願いは、あまりにも勝手だな」
「……ごめん……」
「でも、楽しく生きて欲しいんだよね」
「あー違う……そうじゃなくて、現世へ帰す方法を考えなくちゃ」
「……思いつくまで逃げたほうが良いのでは」
「いや、それではツキヒメが死んでしまうかもしれない」
「……違うな……」
「……」
「……」
「……」
そうして立ち止まった。自分の本心に気がついて、進めなくなった。
「色々と理由を付けて、会いたいだけか」
「こんなではだめだ。会ってはいけない。救済されてはならない」
雪枝はもと来た道を戻った。そして社に閉じこもると、神経を研ぎ澄ませ、鏡世を歩くツキヒメを探し、見つけた。
ツキヒメは、時折見当違いの方向へ進んだりはするものの、徐々に徐々に、こちらへ向かってきているようだった。ただ、このまま歩いて体力が持つようには思えない。このペースでここまで来るには、まだ何週間かかかるだろう。
雪枝は見かねて、自分の力を少しずつ分け与えることにした。慎重に霊力帯を伸ばし、こっそりとツキヒメの霊力帯とつなぐと、気づかれぬよう細心の注意を払って、少しずつ、霊力を注ぎ込んだ。
雪枝はこれ以上ないくらいに慎重に行動したつもりだった。しかし、かすかな雪枝の霊力をたどることができていたツキヒメが、これに気がつかないはずがなかった。
体に走る雪枝の力を確かに感じ、ツキヒメは喜びに震えた。微かではあるものの、確かに感じる快感に心を寄せた。雪枝は確かにここに居て、そしてその自我は元のとおり優しく残っている。
きっと、話をする余地もあるだろう。ツキヒメはそう確信した。
ツキヒメはついに、雪枝の居場所を見つけた。まだまだ遠く離れてはいるものの、見失いようがない。優しい雪枝の力の流れを、ツキヒメははっきりと感じることができた。
「ああ、雪枝。もう待てぬ……!」
ツキヒメは、雪枝へと向かうことだけに全力を賭した。命が切れることはない。なにせ、雪枝が、あの雪枝が自分へと力を流し込んでいるのだから。
無理をしたなら無理をしただけ、きっと雪枝はそれに見合った力を注いでくるだろう。だからきっと、雪枝に会う前に自分が死ぬことはないと確信した。
大妖怪の子として生まれ、良い師に恵まれ、そして、さらにこの1年、血のにじむような努力をした。そうして身についた力はすさまじい。障壁だけではない。どんな術だってツキヒメは使えた。
もはやあのヨヤモリだって、出し抜くことができるだろう。ツキヒメは自分に俊足の術をかけ、遠い雪枝との距離を一瞬で詰め寄っていった。本来霊力が瞬時に尽きてしまうような無理な力の使い方だったが、ツキヒメの思惑通り、雪枝はそれに見合った力を注いだ。
そして二人は、社の扉ひとつを挟んで再開した。
「……雪枝、久しぶりじゃの」
「ああ、久しぶり」
社の戸に、頬ずりするようにべったりと寄り添ったツキヒメが声をかけると、雪枝はそれに平然そうに応答した。しかし内心、平常心ではない。自らを許されない存在とするゆえに、ツキヒメの望みは叶えられない。
しかしそれはきっと、ツキヒメに絶望を抱かせる。そして、当然自分もツキヒメとひとつになりたかった。想いが互いに反発しあい、姿を保つことすらできなくなっていた。
声だけ、何とか元のていを辛うじて保っていた状態だった。
「扉を開けてくれんか」
「悪いが、それはできない」
社の扉には、強固な封印が張られていた。現世のどの術を使っても、開封の糸口すらつかめないような封印。さすがのツキヒメにも解くことはできない。
術を知らぬ刹鬼・雪枝がぞんざいにとって付けただけの封印ではあったのだが、刹鬼との力の差はそれほどまでに大きかった。ゆえに、ツキヒメに残された手段は、雪枝と話をすることだけだった。
「ずいぶん探した。雪枝が鏡世に行ってから1年じゃ。さまざまな伝承からすれば短いとは思うが、わしにはずいぶん永い時間に思えた。想い人と1年も言葉も交わせんのじゃ。
その気持ちは、雪枝ならば理解してくれよう……?」
雪枝は答えなかった。しかし涙していた。気持ちは痛いほどわかったからだ。なにせ、自分だってそうであったのだから。けれど、だからといってこのまま会うわけにはいかない。
共に生きる事は許されない。何せ、自分の体は何兆何千億の罪でできているのだから。
「のう、雪枝。久々に魚でも食わんか。現世から2尾だけ持ってきたんじゃ。お前とわしで、二人で食べるために。干物じゃが、きっとうまいぞ。わしが捕ったんじゃ。お前の好きなヤマメじゃ」
ツキヒメは懐から半透明な袋に包まれた、ヤマメの干物を取り出し、紫色の空にかざして見せた。
「ごめん」
一言だけが社の中から響いてきた。ツキヒメは干物を下げると、もう一度扉へ向きなおした。少しだけ唇を硬く閉じ、何かを我慢するような表情で、雪枝が居るであろう方向を見つめた。
4、5分ほどその状態で黙っていると、今度は雪枝の方から声を出した。
「ここまで来させておいて酷だとは思う。でも、君とは共に生きられない」
「……何故」
「私は罪の塊。世界を滅ぼした鬼。これからの生は、贖罪のみに充てなければならない」
「……何故!」
「……それはきっと、私が滅ぼしたみんなが望んでいたことだったから」
「何故じゃ!そんなこと、誰もわからんじゃろう」
一呼吸おいて、ツキヒメが付け足した。
「わしは、今日は折れんぞ」
空気が少しだけ張り詰めた。
「でも、事実なんだ。私は刹鬼の記憶を取り戻した、彼らの断末魔や、彼らの恨み言、私に向けられた呪いや、死んで欲しいという願いの言葉まで全て。だから彼らが望んでいたのは、確かだから」
「それは、刹鬼に対して、であろう」
「刹鬼は、私なんだよ」
「そうじゃな。しかしそうではない。お前は雪枝じゃ。水山家の長男、雪枝じゃ」
「私は人じゃない!」
雪枝は叫んだ。ツキヒメに対してだけではない。絆されそうに揺れ動く自分の心をもう一度縛るために、強く叫んだ。
あまりにも自らの望みどおりの言葉ばかりを投げかけるツキヒメに負けないよう、自分に強く縄をかけた。
「えい、くよくよするでない!罪を作った悪鬼であるというならば、それらしくふてぶてしく生き延びよ!そうではなく、それを償わせるものだというのならば、悪鬼を従え、善行に生きて見せよ!」
「だから、同一の存在なんだよ、それは変わらないだろう。言葉遊びでどうなることじゃない」
「それにの、どうせ償う相手もおらんじゃろう。皆死んでしまっているなら、もう関係ない。死ぬことができないのならば、今この場に居ないものよりも、今生きて、存在しているものに対して何かをなせ!」
「それなら、まだウワサガリが居る。そういうことなら私は、彼に対して贖罪し、ここで一生を終える」
雪枝は頑なに拒んだ。拒むことしかできなかった。それ以外の道は、全て捨て去らなければいけないと、そう信じているから。どれだけみっともない道理でも、それが正しいと信じていた。
「ほう、ウワサガリとな」
「ああ」
「あやつはもう許しているのではないのか。あやつの掛けた呪いはもう解けておるぞ?再び呪いを掛けてくることもしておらんようだ」
雪枝は押し黙った。今この事実に関して、雪枝には返す言葉がなかった。雪枝も、ウワサガリはきっと、すでに許しているのだろうと感じていたからだ。
「だから雪枝……これからは、わしと共に生き、多くの人を助け、そして殺しただけ、この鏡世にも人を増やそうではないか」
「……」
「のう雪枝……」
「……」
雪枝は黙ったまま。時間が過ぎてゆく。鏡世の弱弱しい日が落ちるまで、雪枝もツキヒメも、これ以上何も言葉を発しなかった。
光がさえぎられ、鏡世はいっそう禍々しさを増してゆく。月のないこの世は、魔を払うものがない。禍々しさで満たされた世界は、邪なものだけを増長させてゆく。
ツキヒメの中の悪霊の力も、例外ではなかった。雪枝は、社の外で、ツキヒメの息遣いが荒くなっていることに気がついた。
「ゆ……きし……」
ノイズがかかったような、ツキヒメの声が聞こえる。
「どう……して……」
社の戸を掻く音。激しく重い息遣い。苦しそうな声。尋常ではない様子に、雪枝はついに封を解き、戸を開けた。
そこには、闇の深淵のような真っ黒な塊が居るだけだった。塊は、苦しそうにツキヒメの声を放っている。
「ツキヒメ……?」
「うう……!ううう……!!」
ツキヒメだったと思われるそれは、苦しそうにあえいでいた。何かを我慢するように、押し込めるように。しかし、雪枝を目の前にしては、それも限界だった。
「うう、欲しい!欲しい!なぜ来てくれぬ!わしと共に居てくれぬ!」
「おい、しっかりしろツキヒメ、どうしたっていうんだよ……」
塊をつかみ、揺さぶる。それに反応している様子は見られない。
「何故わしばかりが我慢しなければならない!春花のときも、今も!何故わしばかりが諦めなければならない!何故わしばかりが失わなければならない!!」
塊は、雪枝に飛び掛かった。大入道の倍はあろうかという怪力で、雪枝をねじ伏せようとした。ただその怪力も、刹鬼にとっては大したことはない。くるりと、逆に雪枝にねじ伏せられる形になってしまった。
「離せ!離せ離せ離せ!お前の好きにはさせぬぞ!今度はわしが望みを叶える番じゃ!!」
「ああ、ツキヒメ、お前はこんなになってまで……」
ツキヒメは暴れ続けた。しかし、刹鬼の力には敵わず、何をしても逃れることはできなかった。雪枝は暴れるツキヒメを、ただ抱き続けた。何もできぬよう捕らえ続けた。
雪枝はツキヒメを抱いているとき、金の細月を見た。暴れるツキヒメの中に、黄金の力を見つけた。黄金の力は、弱く光っていた。悪霊を押し込めようと必死に光っていたが、この漆黒の中では力が出ないようだった。
「神の真似事をしたら、うまくいくだろうか」
暴れるツキヒメを抱き捕らえながら、雪枝はひとつ試してみることにした。世界に光がないのであれば、作ればいいのだ。
雪枝は、あの日、ツキヒメと初めて出会った日のことを頭に浮かべた。真っ暗な闇を不安に支配されそうにながらも進んだこと。その闇から開放されたとき、木々の間から垣間見た、美しい細月を。
あの光さえあれば、きっとツキヒメは元に戻ることができる。
ただひとつ、想い人の為に。腕の中で苦しみあえぐこの人のために。雪枝は、刹鬼の中に眠る神聖なものをかき集めた。一点に集中し、凝縮した。
「……ツキヒメ、私の為に心を潰したお前への、私の答えだよ」
雪枝は小さな神聖なものを、漆黒の空へと打ち上げた。銀色の輝きが天へ上ってゆく。
「あ……あ……」
ツキヒメは暴れるのをやめ、それに見入っていた。
銀の輝きは空の瘴気を祓いながら、更に天に昇っていった。辺りが照らされ、ほのかに白色に染まっている。気がつくと、天には銀の細月が浮かんでいた。
「はっ……うっ……」
ツキヒメの漆黒が、少しずつ取り払われてゆく。十分もしないうちに、ツキヒメは、元の狐娘の姿に戻っていた。呼吸も戻り、朦朧としながらも意識はあるようだ。
「雪枝……」
ツキヒメが、雪枝の体を抱き返す。二人は互いに、互いへの依存心を全身に感じた。そして二人はそのまま、愛というつながりを、全身で感じあった。
それは一見けだもののようでもあったが、とても愛しく、そして美しいものだった。
◆◇◆
◆◇◆
某所、大柄な妖怪を、対妖怪の特殊部隊が囲んでいた。その傍らには、2体の巨大な狐の妖怪も立っている。金色の毛皮をまとう彼らは、一方は術師のようで、もう一方は武者のような姿をしていた。
「刹鬼が去っても、平穏は続かんようだ」
「我々が休まる暇はないな。まあ仕方なかろう」
武者狐と術師狐が喋っている。それを聞いて、特殊部隊の隊長らしき男が声を発した。
「ヒノモリさんにも、ヨヤモリさんにもできるだけ苦労は掛けません。人間のことは、私たち人間で何とかできるように努力しますよ」
さわやかそうな面構えをした青年はそういうと、金色の衣をまとい、部隊全員へ号令を掛けた。各々が、作戦行動に移る。
「頼もしいな、晴地」
「茶化さないでくださいよ~。ともかく、まずは見ていてください」
そうして激戦が始まった。しかし相手の妖怪も簡単にはやられない。晴地も、部隊員の一人をかばい、負傷してしまった。その時。
空が急に紫に淀んだかと思うと、高らかに声が響いた。
「晴地に危害を加える奴は、この私が許さない」
「父上、あなたの出る幕ではありませぬ。どうかそのままお待ちを」
淀んだ空から、大ナマズのような妖怪と、黒い狐の麗しい女妖怪が現れた。その周りには、小さな銀髪の狐妖怪たちがわらわらとたくさん集まっている。
「お前たち、私が抑えるから、慈愛の呪いをあの妖怪に掛けるんだ、いいね」
「はい、わかりました父様」
大ナマズと女妖怪が大柄な妖怪をねじ伏せる。すると、小さな銀髪狐たちが、全員で術を掛け始めた。……そしてあっという間に妖怪は種のようになったかと思うと。どこかへ飛んで消えていった。
「これは驚いた」
「まさか、お前たちが生きているとは」
大きな金の狐妖怪2柱は、そういうと、手にしていた武器をしまい、腕を組みなおした。
「その言葉、そのまま返すよ、クニモリ」
いつの間にか居なくなっていた大ナマズ妖怪の代わりに現れた銀髪の青年は、にやりと笑うと、女妖怪を抱きながらそう答えた。
◆◇◆
刹鬼 -完-
「刹鬼よりみち」(外伝)
春花の恋
夕暮れ、帰り道、数日ぶりの二人きりの時間。私は、雪枝くんと一緒に歩いていた。雪枝くんの、このとてもゆっくりとした歩みは、私に合わせてくれているのだろうか。
「部活、大変そうだね」
疲れているように見えたのだろうか。雪枝くんが、私の顔を覗いてきた。急なことだったので、つい、ぷいと顔をそらし、遠くの山に視線を移した。
「雪枝くんだって、大変でしょ」
「部活動をやっている人ほどじゃないよ」
雪枝くんは部活をやっていない。
それなのに、たまに私と帰る時間が同じになるのは、少しだけ待ってくれているのと、それと、色々な雑務を引き受けているからだ。
「別に、やりたくはないんだけどね」
そうは言うけど、それこそほぼ全部、頼まれたことは片っ端から引き受けて、みんなのために働いている。ずっとずっと、辛い表情ひとつ見せず優しい微笑みのまま。
私が気がついたときには、それこそ、小学校の頃からずっとだ。
私は、そんな雪枝くんのことが、好き。
だから私も、いろんな人に優しくなろうと思った。雪枝くんとならんで歩けるように。いつか、想いを伝えられるように。
……他の人に、取られたくもないし。
雪枝くんは私にやさしくしてくれるけど、私だけに優しいわけじゃない。他の女の子たちにも優しいし、あと、男子にだって、先生にだって、おじいちゃんや、おばあちゃんにだって。
みんなに優しく接するから、それだけみんなからの人気も高かった。その上、とても整った容姿までしているのだ。女の子に人気が出ないわけがない。
幸い高校生になってからは、雪枝くんと同じように優しくて、それでいて、雪枝くんよりも高身長で社交的で、とても騒がしい人が現れたお陰で、雪枝くんを狙う人も減ったんだけど。
それでも、いつか誰かにとられるんじゃないかと、私はずっとはらはらしていた。今だって、そうだ。
「……ごめん春花さん、ちょっと急用ができたから、 悪いんだけど、ちょっと先に行っててもらえるかな」
そう、こうやってたまに、私は一人きりにされる。急用って言うのはなんなんだろうか。
私は以前何度か質問したことがあった。
でも何も答えてくれなかった。どれだけ食い下がってもだめなのだ。私に知らない雪枝くんが、きっとこの急用の先に居る。その事実が、私の心をいつまでも安心させてくれなかった。
「……うん、またね」
何を言っても無駄と知ってからは、私は都合のよい女に成り下がった。急用と言われればそれに応じ、たった一人で帰る。はじめから一人で居るより、こうして途中で突き放されるのはとても辛い。
できれば、急用を取り止めて、私の側にいてほしい。
一人に、しないで。
「ごめんね」
「……」
「……いつか、言えるといいんだけど」
「うん」
「ばいばい」
私の想いなど伝わるはずもなく、手を振る雪枝くんを一人残し、私は一人で帰ることになった。
雪枝くんの姿が遠ざかる。とうに手を振ることをやめた雪枝くんは、空を見上げ、何かをしゃべっていた。
角を曲がり、姿が見えなくなると、私はついにひとりになった。
ひとりぼっちの帰路が続いている。
「いつか、ね」
私はため息を漏らし、まるで何かを振り払うように、家まで駆け抜けた。
ツキヒメ出生編
体を覆う、褪せた金色の毛皮。それを守る古びた甲冑。鋭い眼光に、恐ろしい牙。
身の丈三メートルほどもある狐武者の大妖怪「クニモリ」は、なんとかその身を潜めることが出来る程度の、小さな稲荷神社に住み着いていた。
神社の主であるはずの稲荷は、すでにそこには居なかった。暫く前に起こった世界の異変の為にどこかへ逃げたのか、それとも、変化に飲まれて別の何かに変わってしまったのか、それは、もはや誰もわからなかった。
だが都合よく空いたその聖域は、疲弊したクニモリが身を潜めるにはうってつけの場所だった。
クニモリはある日、毎日、同じ女が神社に来ていることに気が付いた。
その女はとても白く、細く、骨ばった体をし、今にも消えてしまいそうなほど儚く弱々しい魂は、常にガス欠気味のガスコンロのように、ボソボソと揺らめいていた。
その女はいつも無言でただ祈るばかりだったが、今日は、少しだけ、独り言を呟いた。
「少しくらい、わがままになってもいいですよね」
「私も、幸せが欲しいんです。どうか、お願い、しますね」
申し訳なさそうにこぼした女は、とても疲れた顔つきをしていた。
女の生い立ちを知らないクニモリでも、この女がいかに苦労や、苦痛に満ちた人生を送ってきたのか、想像に難くなかった。そんな、幸薄そうな顔をしていた。
女が願ったのはきっと、「子供が欲しい」とか、もしくはそれに近いことだろう。ここは、子孫繁栄、子宝を掲げている神社だ。ならば、願いは恐らく、それに関わるものに違いない。
そうでもなければ、付近にあるもう一つのずっと大きな神社の方へ拝みに行けばよいのだ。
はじめは何の興味もわかなかったクニモリも、一ヶ月、また一ヶ月と毎日顔を見るたび、少しずつ、その女の事が気になってゆき、そして自然と、女の後をつけるまでになった。
ある日クニモリは、毎日祈り続ける真悠子に対して、声をかけたことがあった。
「ここに神はおらんぞ」
その無意味な努力を伝えたかったのか、ただの気まぐれだったのか、当の本人もわかってはいなかった。
「お前は健気に祈るが、ここに居るのは某だけだ。お前の願いは届かぬ。決して、神の助けを借りることは出来ない」
「…」
当然、真悠子には聞こえない。理解してはいたが、真悠子の事がどうしようもなく気にかかっていたクニモリは、度々そうやって声をかけた。時には、真悠子の忘れ物を家まで届けることもあった。
が、クニモリを感じられない真悠子は、それらに気づくことはなかった。
女の名前は真悠子という。今は夫である清と共に、ごく普通といえる少し小さな一軒家で生活している。普通の会社員の旦那が居て、たまに顔を見せる両親もいる。ごくありふれた女性に見えた。
とても、はじめ感じたような不幸な環境にも思えず、それらを知るにつれ、安心したような腑に落ちないような、クニモリはなんだか複雑な心持ちになった。そして同時に、クニモリは妙な胸騒ぎを感じた。
何度もその日限りで後をつけるのは止めようと考えたクニモリだったが、胸の奥につっかえたものがどうしても気になり、真悠子の家の外で、毎日、声だけを聞いていた。
「真悠子さん、今日は、どうだい」
男の声が聞こえる。真悠子の夫、清だ。
「ん、大丈夫」
真悠子の、細く澄んだ声だ。普段となんら変わらない。
「無理しないようにね。それじゃあ、僕は行ってくるから」
「うん、そっちこそ、無理しないでね」
「はは、わかってるよ。じゃ」
「うん」
玄関で靴の音が響いたかと思うと、清が、玄関から仕事へと向かって行った。普段どおりの光景。そしてこのあと、真悠子はきまって神社へお参りに行く。だが、この日は違った。
「うぅっ!」
何かが倒れる音がした。真悠子が、倒れたのだ。
窓から中を覗くと、まだエプロンを脱ぎかけたままの真悠子が、床に突っ伏していた。すでに意識が無いのか、ピクリとも動かない。何か手を打たなければ、このまま死んでしまうだろう。
だがクニモリは、その体の大きさの為に、この小さな家の中に入ることが出来ない。家を壊せば入れるだろうが、そんなことをするわけにはいかない。
「助けを、清を呼ばねば……!」
ぐっと足に力を入れ、地面をえぐりながら飛び上がった。
まだ出てさほど時間は経っていない。清はまだ、その辺りにいるだろう。ぐるりと辺りを一望し、首尾よく清を見つけたクニモリは、目の前に突風のように移動した。
当然、クニモリの姿は、声は、清にも届かない。だが、触れることは出来る。クニモリは清の体を優しく握り締めると、そのまま両手で痛くないよう支え、再び空へと飛び上がった。
「ふぇ!?ふひゃぁぁ~!」
突然の出来事に叫び声を上げる清。だがクニモリはそんなことはお構い無しに飛んでいく。そして間も無く、清と真悠子の家の前にたどり着いた。
強烈な出来事に何とか意識を保っていた清の目の前に飛び込んできたものは、更に強烈な情報だった。先ほどまでの出来事など、もはやどうでもいい。最愛の妻が、ガラス一つ隔てたその先で、意識を失っていた。
「真悠子ぉ!!」
血相を変えた清が、叫びながら家に飛び込んでゆく。その際、携帯電話で救急車を呼ぶのも忘れなかった。てきぱきと手際よく、真悠子の世話と、緊急への連絡を行っている。
清の叫び声に気が付いたお隣さんも駆けつけ、最後は五、六人でてんやわんやと駆け巡っていた。そして真悠子は、駆けつけた救急隊員によって、病院へと搬送されていった。
夕方。
清は真悠子の病室に、クニモリはそのすぐ外に居た。
真悠子は、妊娠していた。またそれゆえの体調の変化で、病状が悪化していた。意識は戻っていたが、真悠子はベッドの上で呼吸補助装置を付けられて辛そうに呻いていた。
「無理だったんだ、無理なんだよ、やっぱり。子供、止めよう、諦めようよ、真悠子……!」
真悠子は清を悲しそうな目で見ると、少しだけ笑って、また辛そうに呻きだした。
「確かに、その体では、出産に耐えられるとは思えんからな」
クニモリも清にあわせて、呟いた。
「やーだ……」
真悠子の声が聞こえた。無論クニモリへの言葉ではない。クニモリの声は、二人のどちらにも届いていない。
「僕はおまえとの子供が要らないわけじゃないけど、お前の体の方が心配なんだ……」
「ふぅ……ん……そっか……」
荒い息遣いが聞こえる。話すこともままならない真悠子は、途切れ途切れに言葉を発した。
「よく、考えて、ね。お願いだから」
それから真悠子は一言もしゃべらなかった。長らく無言が続き、時間が来ると、簡単に「じゃあね」と挨拶だけして、清は帰っていった。
午前二時になった頃、真悠子の呼吸は安定し、うめき声も発さなくなった。それを見届け安心したクニモリはいざ帰ろうとしたが、不意に背中に声を投げかけられ、硬直した。
「だれか、いるでしょ。ねぇ……、窓の外、ずっと」
真悠子は相変わらずクニモリの姿は見えていなかった。しかしいつからか、クニモリの気配だけは感じられるようになっていた。
妖怪であるクニモリが真悠子に強い興味を抱いた結果、真悠子とクニモリの間に縁が結ばれ、真悠子は、霊力を行使できる体質になったのだ。
とはいえ、真悠子はほんの少しだけの力しか持ち合わせていないため、クニモリを見ることも、言葉を聞くことも出来なかったのだが。
「聞こえているのか」
「私、気のせいだと思ってた。でも、清さんからも聞いたの。空を飛んだって。見えないものに掴まれて、家の前まで連れてこられたって」
「聞こえているわけでは、見えるわけではないのか……?」
真悠子は続けた。
「あなたは神様?」
自分は、神様などと、そのような大それたものではない。大きな狐妖怪は、予想だにしていなかった質問に、窓の外で真悠子に背中を向けたままバタバタと尻尾を暴れさせた。
そしてその揺れた尻尾は、窓ガラスにパタパタと、何度かぶつかって音を立てた。
「やっぱり……!」
真悠子には、その音が、「いかにも。私こそが神である」という合図に思えた。そして、希望で胸が一杯になった。毎日、あの古神社に祈り続けた甲斐があったのだ。
私には、子宝の神様が付いてくれている。守られている。この子を、諦める必要なんて無い!
「お、おい、違うぞ、某は神ではない。あの社には、居候の身だ!」
慌てふためき、どうやって説明しようかと振り返ると、そこには静かに眠る真悠子の姿があった。
「寝たのか。……無理も無い」
クニモリは顔を見ながら、それならばお前達三人を守ってやろうと、一人心を決めた。
◆◇◆
朝になった真悠子の元に届いたのは、昨晩の希望を打ち砕く、無残な事実だった。
「嘘……やぁだぁ……やだ……」
真悠子は泣きじゃくっていた。誰がなんと声をかけようと一切返答も出来ず、その雫が枯れ、声が出なくなるまで泣き続けた。
清が死んだ。事故だった。
昨日の夜、大通りの近くで、暴走族の車に追突され、清は、帰らぬ人となった。
何故そのような時間に外に居たのかはわからない。気持ちの整理をするために、夜の街を散歩していたのだろうか。今となっては、確かめようも無かった。
真悠子も、清の肉親も、清が死んだという事実を受け止めきれないまま、葬儀は慎ましやかに行われた。喪主は、清の弟が務めた。真悠子は自分が喪主を務めると言って聞かなかったが、とても喪主を
取り仕切られる体力が無かったため、清の両親に止められたのだ。
真悠子は最後まで清の傍に寄り沿いたかったが、体が言うことを聞かず、その小さな願いすら叶えることが出来なかった。
彼女は再び、自分の体を呪った。余りにも弱弱しい自分の肉体を強く呪った。
そんな様子を、誰にも気が付かれず、クニモリはすぐ傍でずっと見守っていた。哀れみと愛情を込めた目で、胸が締め付けられるのを感じながら、ずっと、何も出来ず、ただ見守っていた。
「三人を守る」という誓いは、たった一晩で破られた。そして今自分は、残った二人にすら、何もしてやれない。無念が、クニモリの心を何度も何度もえぐり続けていた。
クニモリはこのとき気付いていなかった。真悠子とクニモリの無念の心が、とても歪んだ、邪なものを生み出している事を。
それから、数日後。
病状の落ち着いた真悠子は、自宅療養という名目で、真悠子の実家がある田舎へと帰っていた。
真悠子の看病で年齢以上に老いた両親の助けを受けながら、今はただ、自分の体に宿る、まだ小さな、しかし自分以上に強い魂の火を消すまいと日々を過ごしていた。
「お母さん」
「なあに」
「ずっとごめんなさい」
母の返答は無かった。代わりに、水道水と食器の音だけが、部屋に響いていた。
母も、もう随分と長い間真悠子の看病をしていたため、もしかすると今の真悠子以上に、心をすり減らしていた。素直に「気にしないで」と言えるだけの心の余裕は、もう、この女性には残っていなかった。
「お前達は誰も悪くない……」
むなしく響くクニモリの声。真悠子にも、その母の耳にもその声は聞こえない。だが、届いたところで、そんな安っぽい言葉ではこの状況を打破できないことも、十二分に理解していた。
この一家の心の病は、とっくに、改善できないほどに深くまで浸透してしまっている。そして、もう一つ、問題があった。
(それにしても、この地域は霊気が淀んでいる。この一家が呼び込んだのだろうか。いやしかしそれにしては濃すぎる。真悠子の体の弱さも、この霊気が元かもしれんな……。)
真悠子の実家は、とても人口の少ない、自然の豊かな場所にあった。しかしそこは、人も妖怪も近づきたがらないような、異様な霊気に沈んでいた。
真悠子一家は霊気に鈍感らしく、そのためにこの問題点に気がつかず、むしろ人が少なく快適にすら感じていたのだ。
真悠子やその両親の状態を鑑みるに、この問題は、一刻も早く解決しなければならない。しかし、逞しい体躯と深い知識を持つクニモリにも、それをどうにかすることは出来なかった。
過去に知った様々な知識を駆使して、一家の家だけでもその霊気から遠ざけようとしたが、どれもこれも全くの無駄に終わった。
クニモリの心は、また一層無念に苛まれた。そうやって、邪な存在は、人知れず、確実に膨れ上がっていった。
そしてまた暫くして、真悠子は再び、絶望に叩き落されることになった。
流産。最後の清の欠片が、おなかに宿った命が、消えてしまった。あれだけ願ったのに、通ったのに、祈ったのに。神様が付いているのでは無かったのか。
畳み掛けるような絶望に、真悠子はもはや涙も流せず、魂が抜けたようにふらふらと、一人ぼっちで歩き続けた。もはや行く先すら思いつかず、ただひたすら、目の前に続く道を、無心に。
(もう、なにも、なくなっちゃった。)
何処にも行きたくなかったし、何処にも居たくなかった。ただ止まる事だけが許されない気がして、重い体をおして、ひたすらに歩き続けていた。
(何も……。)
そして真悠子はやがて、行き止まりにたどり着いた。それはまるで「ここで終わりだ」と、神様に言われたように思えた。そしてついに立ち止まった。ただ棒立ちして、じっとしていた。
真悠子は、自分も、世界も、神も、何もが嫌になっていた。
クニモリは、ついにそんな真悠子を見ていられなくなった。耐え切れず、目を逸らし、背を向け、まぶたを下ろして黙り続けた。
真悠子の絶望と、クニモリの無念が、誰も居ない最果ての行き止まりに渦巻いていた。この辺りに住まう妖怪達すら、二人から距離を取り、その様子を怯えた目でうかがうほど、そこには、異様な空気が立ち込めていた。
息遣いだけが、クニモリの耳に届いていた。はじめはとても細い息遣い。そして徐々に、徐々にその音は大きくなり、急に、音が止まった。
クニモリが無音を感じた、その直後だった。
突如、カチカチカチと、何かの音が響いた。
静かだった妖怪達が騒ぎ出した。クニモリの背筋に恐怖が這い上がる。
伏せていた目をカッと見開き振り向くと、そこには、カッターナイフで首の左側を大きく切り、崩れゆく真悠子の姿があった。
「大馬鹿者が……!」
大きな手で、真悠子の細い首の傷口を押さえる。しかしその程度で流血が止まるはずもなく、真悠子はすぐに力尽き、屍骸となった。
クニモリは動かない真悠子の骸をその場に寝かせると、その巨体を小さく丸め、血塗れの手のまま、その場を後にした。
クニモリにとってこの事件は、この世に生を受けてから幾千年の間での、唯一の敗北の経験だった。
◆◇◆
数年後の事。
すっかり土地に馴染んだクニモリは、あるうわさを耳にした。
そのうわさは、こうだ。
それは、妊娠初期の妊婦だけに起こるらしい。夢に、とても悲しげな女性が出てくるのだ。小さな背中を丸めて、何かを抱えて守っている。
時折聞こえてくる嗚咽がとても絶えられないほど物悲しく、このうわさを知っていてさえ、ついにはいたたまれなくなって声をかけてしまう。すると、女は急に泣き止み、質問をする。
「あなたの、今一番大切なものは、なぁに?」
こちらを振り向いた女性は、笑った般若のような表情で、じっと此方を見つめている。そして腕には、小さな小さな胎児と、血塗れのカッターナイフを抱えている。……これ以降の話は、人によって違うらしい。
ただし、この夢が終わった後の事だけは共通している。夢を見た女性はみな、夫が事故死し、さらに流産してしまうのだ。
クニモリはこの話を聞いて、真っ先に真悠子の事を思い出した。夢を見ていたのかは解らない。
だが、状況が余りにも似すぎている。もしかすると、真悠子があのような死を遂げたのは、これが原因かもしれない。クニモリは、全身に熱がこみ上げるのを感じた。
人か、悪霊か、妖怪か。うわさが真実なら、おそらく何者かの仕業だろう。
「許せぬ……」
誰がこんなことを許せるのか。許せるわけが、許されてよいわけが無い。
クニモリは人には扱いが難しい、とても大きな刀を手に取った。世界の異変後初めての仕事だ。クニモリは、生まれたときから悪を斬り続けてきた。
正義であることと、それを貫くだけの力があることだけが、クニモリの存在意義だった。
その上今度の「悪」は、真悠子の仇なのだ。自然とその手に力が、体に熱が、こみ上げた。
金色の毛皮を逆立てて、恐ろしいその牙や爪をむき出しにして怒りをあらわにしながら、のしのしと、クニモリは仮住まいから出陣していった。
そしてそのまま、何日も何週間も一切休みを取らず、悪を探し続けた。
時には真悠子のときのように、妊婦の後を付け続けた。しかしそうしていると、あのころの事を思い出して辛くなった。そして、そんなことを繰り返しているうちに、クニモリはやがて、普段の冷静さを取り戻していた。
丁度、冷静さを取り戻した、その時。クニモリは、妊婦の裏をヒタヒタと歩いている女を見つけた。
この寒い時期にワンピース一着で、振り乱したようなぼさぼさの髪を垂らしながら、カッターナイフを片手に歩いている。周りの人間は気が付いていない。そもそも、クニモリの目にすら、うっすらとしか映らなかった。
「ようやく見つけた……間違いなかろう」
クニモリは亡霊女の目の前に飛び出した。おどろいた亡霊女が顔を上げる。
しかしなんということだろうか。カッと見開かれたクニモリのその大きな目には、まるで想定外のものが映っていた。
「馬鹿な……まさか、そのような……。あぁ……」
間違いない。悪意に歪んではいるが、間違いない。その、白く、細く、骨ばった体をし、今にも消えてしまいそうなほど儚く弱々しい姿。
幸薄そうな、苦労を重ねた顔。
「お前、馬鹿者……。これでは本当の大馬鹿者ではないか……!」
真悠子だった。
(しかし、だからと言って、悪を斬らぬわけには……。)
クニモリは斬馬刀を抜いた。そして右に構え、神に祈った。
「許せ、許せよ真悠子。これが某の務めなのだ」
真悠子はその姿を見て察した。この大狐が、自分を消そうとしていることを。そして行動した。
消えないために。カッターナイフをクニモリの腹めがけて突き出した。だがクニモリの体は鎧に守られている。そのカッターナイフは無残にもへし折れ、ほんの少しの刃だけとなった。
しかしそれでも真悠子は、刃の殆ど無いカッターナイフで、何度も何度もクニモリの鎧を切りつけていた。しかしそれは、当然のごとく何の意味も成さなかった。
(この状況で逃げないとは、人らしい思考すら出来なくなっておるのか。哀れな……実に……哀れな……。)
クニモリは構えたまま、暴れる真悠子を見ていた。今斬るのだ、一振りで終わるのだと、自分に心の声をかけながら。しかしどうしてもクニモリは、そのただ一太刀を振るうことが出来なかった。
そして次第に力が込められなくなった。刀は手から滑り落ち、地面へ落下した。
(どうして、それが出来ようか。この者の人生を知った上で、どうして斬ることができようか!)
「お前……は……」
「うぅ……う~!」
真悠子が呻いていた。クニモリはその声を耳にして、余計に胸が締め付けられた。
もはや正義の力は失われた。もはや、この邪な存在を一思いに消す力は無かった。
だがクニモリの体には、不思議と力が溢れていた。それは、包容力とか、愛情などといった名を持つ力。クニモリはその力で、真悠子のカッターナイフを取り上げた。そしてその大きな腕で、真悠子を抱きしめた。
「お前は某が面倒を見る。きっと、幸せに消してやる……!」
真悠子は相変わらず暴れていたが、そんなことは、クニモリにとって些細な事だった。
こうして、クニモリと真悠子、二人の生活が始まった。
◆◇◆
クニモリはまず、家をこしらえた。清らかな霊力が満ち、清らかな空気があり、清らかな水が流れる。それで居て、人が住んでいないところ。そんな場所に、一人で家を建てた。
真悠子が行動しやすいよう、人に合った高さや、大きさ。そういったものに気をつけながら、一通りの家具や部屋を用意した。そして、真悠子の行動して良い範囲を決めた。
自由に行動させると、また誰かを殺めてしまう。だからクニモリは、自分の半身とも呼べる友に教わった術を使い、強固な結界を張った。
この結界は、クニモリ自身にも解くことの出来ないものだ。解けるとすれば、それは真悠子が幸せに成仏するときだけ。何があっても、たとえ自分が死んだとしても、世界には迷惑をかけないように。
これは自分と真悠子だけの問題であると、そう決めて。
そして毎日声をかけたり、人間の夫婦がするように、毎日一緒にご飯を食べたり、畑を耕したり、共に寝たりと、生活を共にした。
時には寝首をかかれることもあった。だがクニモリはそれを優しく諌め、強く感情的に怒ったり、暴力を振るうことは無かった。全ては真悠子に纏わり付いているこの悪い瘴気がなくなるまでだと、必死で我慢した。何年も、何年も。
真悠子の瘴気は、さまざまな人間の後悔や悪意だった。決して真悠子だけのものではない。きっと長い間彷徨ううちに、様々な者の無念を絡み取っていったのだ。それを知ったとき、クニモリは余計に真悠子の事が哀れになったのだった。
自分の苦しみだけでも辛いだろうに、他人の無念まで背負っていたとは。労わりたかったが、言葉をかけても無意味だ。
その代わり、体で示した。決して諦めず、労わり、慈しみ、そして愛して、連れ添う。そうやって、永い永い時が流れていった。
とある日の事だ。クニモリは、夜中に目が覚めた。
気が付くと、あんなに毎日暴れていた真悠子が、おとなしく縁側に座っている。そして、月や星の光が差し込まないはずのこの結界の中に、白い光が差し込んでいるではないか。
「お前、真悠子……」
「……変な月。私、月が好き。でもこんなの、初めて見ました」
「……うむ、おかしな形だが、しかしとても美しい光だ」
クニモリは真悠子の隣に座った。空を見上げると、とても細いまっすぐな亀裂が、おそらく満月なのであろう外界の強い月の光を届けていた。
静かな闇に差し込む一縷の光に照らされながら、真悠子は何度もクニモリへ謝罪し、そして感謝を伝えた。
「もうよい、よいのだ。これは某が勝手にやったことだ。お前は何も悪くない」
真悠子によって何度も切りつけられ、傷だらけになった体も、今だけは痛くない。ついに泣き出した真悠子を優しく支えながら、クニモリは、今までの苦労が報われるのを感じた。
だが一日、二日と経っても、真悠子は成仏しない。真悠子も申し訳なさそうにするばかりで、クニモリには原因がどうしてもつかめなかった。空の亀裂もあれから一向に広がらない。
きっと、真悠子の心にはまだ、大きな闇があるのだ。
ある日二人で食事を取りながら、クニモリは聞いてみた。
「辛いことがあるなら、何も我慢することは無い。某に話すのだ」
「うん、けど、私も、よくわからなくて……。ごめんなさい」
「また謝罪させたな。悪い事をした」
「そんな、全然……」
真悠子が正気を取り戻したことで彩り豊かになった食事風景を眺めながら、クニモリは必死で考えをめぐらせた。だが思い出せない。永い年月の中で、大切なものを忘れてしまったのかもしれない。
「また考え事ですね?そんな風だと、味がわからないでしょう……。ご飯はちゃんと味わってくださらないと」
「おお、すまぬ、すまぬ。うむ……」
「私の事だってことはわかってます。私が、ちゃんと思い出しますから……」
「すまんな……」
「あなたこそ、謝ってばかりですよ。ふふ」
「これは一本取られた、ははは」
だがクニモリの悩みは、真悠子をどう成仏させるかということだけではなかった。
真悠子が正気を取り戻してから数日、自分の中で、今の生活が何物にも代え難いものだということが、真悠子がどうしようもなく大切だということが、このところのクニモリにとっては、一番の悩みだった。
真悠子を失いたくない気持ちが、日に日に大きくなっている。クニモリは、自分の張った保険、結界が恨めしくて、悔しくて仕方が無かった。
だがその気持ちは真悠子も同じだった。クニモリとできる限り永く連れ添いたいと、今のままで居たいと、そう願っていた。
けれどそれに気が付いたとき、成仏できないその理由にも気が付いてしまった。
愛した人との間に、子がほしい。そしてその子を腕に抱きたい。二つの気持ちが鬩ぎ合い、幸せで、それでいて苦しい毎日だった。
一ヶ月ほど経っただろうか、ついに終わりの兆しがやってきた。真悠子は驚いた。クニモリとは、体を重ねて愛し合うような行為はしていない。
それをしなければ、ずっとクニモリと共に居られるはずだった。
「某と、お前の、子、か……?」
「そうみたい。でもどうして?」
ある日クニモリが気が付いたのだ。真悠子の体に二つの魂があることに。小さいが強いその魂は、真悠子が妊娠したという証だった。
本人達は知る由も無かろう。真悠子とクニモリが生前から溜め込んだ、二人の間の絶望と苦悩による邪なる物が、愛情によって変質し、形を取った。そして赤子として宿ったのだった。
「しかし、はは、某の子、とは、世の中には不思議な事があるものだ。いや、今の世だからこそかもしれぬな……」
「どういうことですか?」
「いや、気にするな、この世の変化というものを感じているのだ」
きっとこの子を胸に抱いたとき、成仏し、消えて無くなるのだろう。真悠子にはそれが分かったが、だがそれ以上に、やはり、子が出来たことが嬉しかった。今度こそ幸せを掴むんだと、強く心に誓った。
体を労わりながら、絶対に流産しないよう、細心の注意を払った。クニモリも、それにあわせて行動した。
一月、また一月。約九ヶ月ほどの時間は今までにない速さで瞬く間に流れ、お腹の子は、人の子であればそろそろ出産だろう大きさとなった。
つわりが特に激しくなった、ある夜。
結界の割れ目から、申し訳程度に光が差し込む夜。聞こえるのは真悠子の叫び声を孕む呻きと、結界が崩れ始めるかすかな音。クニモリには分かった。これで終わりなのだと。真悠子にも分かった。
ついに終わるのだと。
息も絶え絶えに、真悠子が語りかける。尋常ではない苦しみも、長い人生で数々の苦しみに耐え抜いた真悠子なればこそ、正気を保てていた。
「クニ、モリ、さん」
「うむ」
「うっ……!うう!」
「大丈夫だ。某はここに」
「ありがとう、ありがとう」
何か伝えたいことがあるのだろう事は、クニモリにも分かった。しかし真悠子は、あまりの苦しみに上手く言葉を使えないでいた。
言葉が出てこないのはクニモリも同じだった。いつか来るとは思っていなかったものの、まさかそれが今日だとは、今だとは、予想だにしていなかった。心の準備などは出来ていない。
伝えたいことは沢山あるはずだったが、どれもこれも、言葉として浮かんでこなかった。
せめてもと手を握った。クニモリは何も力になってやることは出来なかったが、その無力な自分を恨むのではなく、今はただ、真悠子とその子の無事を願い、想っていた。
無論真悠子に死は無い。だが以前のように狂うことはあるだろうし、子はどうか分からない。
二つの魂を感じながら、手を取り、ただ祈り、真悠子が叫び声を上げるたび体を硬直させ、冷や汗を流し、そうして流れてゆく永遠に感じたほどの数時間。その後。
子は、無事生まれた。
産湯で優しく洗いながら、クニモリは子の姿をゆっくりと観察した。真悠子とおそろいのような白い肌。
大きなケモノの耳と尻尾が、人の体についている。黒い髪には、こめかみの上あたりに、クニモリの毛皮と同じような金色の毛が生えている。肺呼吸は無事に始められたようで、赤子は激しく声を上げていた。
「真悠子、無理をするな」
真悠子が体を起こそうとしているのを目にして、声をかけた。しかし真悠子はそれを聞き入れることなく起き上がると、焦点の合わない目線のまま、クニモリの手に抱かれた赤子を切望した。
「子……!私の子!私にそれを渡せ!」
「落ち着くのだ真悠子」
「寄こせぇ……返せ、返せ、返せ!」
悪霊化がはじまっているのだろうか。真悠子は、明らかに正気ではなかった。
「今のお前には渡せぬ」
動けぬ真悠子の前で赤子を優しく絹で包むと、そのまま腕に抱き、クニモリは真悠子に対峙した。赤子も、真悠子も、救うのだ。それが自らの勤めであり、願いだった。
「私のものだ!」
「お前のものではない」
「私のものだ!お前のものではない!」
「もちろん、某のものでもない」
「うー!うぅ……」
真悠子は苦しんでいた。自分の中で渦巻く赤黒いものと戦いながら、クニモリから伝わる、優しく暖かいものに助けを求めた。子が欲しい、子が欲しいと叫ぶ魂が、全てを傷つけようとする。
渇望していたものを目の前にして落ち着けというのは、この女には酷だった。しかし、他でもない、愛するクニモリの言葉は、しっかりと耳に届き、真悠子の悪霊化を押し止めていった。
「すみません……」
「落ち着いたか。よかった」
クニモリは赤子を真悠子に優しく抱かせた。真悠子の腕に、大切な命の重みが伝わる。真悠子は涙を堪えられなかった。両腕一杯、こぼれそうな幸せを抱きしめた。
「あぁ……ああぁ……!ああああぁ……!」
真悠子の声と共に、崩れかかっていた結界が、瞬く間に消え去った。暫く感じていなかった生の風が、真悠子を、クニモリを包み込む。虫たちの大合唱が、真悠子の声をかき消すようだった。
細い月からは、強い白銀の光が伸び、二人の姿をはっきりと照らし出した。外の世界が、二人の物語の終わりを告げている。
クニモリは、崩れ落ちてしまいそうな真悠子を支えるようにそっと肩に手を回し、頭を優しく二、三度叩いた。
「うぅ~ああ……うあぁ……」
声を出して泣き続ける真悠子の隣で、クニモリも静かに涙を流した。胸からこみ上げる熱が、目から外へと流れ出ていった。
クニモリはそれでも、真悠子が再び落ち着きを取り戻すため、あくまで優しく、二人を抱擁し続けた。
◆◇◆
「……はい。この子、お願いね。ついていられなくて、ごめんなさい」
下半身が消え去り、腹から上だけが残されたあたりで、真悠子はやっと落ち着き、クニモリに赤子を預けた。元の穏やかな、それでいて引きつった下手な笑顔は、クニモリを余計寂しくさせた。
「出来ることならば、お前とずっと共にありたかった」
「それは、初めから不可能なことですから」
「そう、だな……」
「話が出来たことすら、奇跡のようなものです」
「ああ、そうだった。お前ははじめ、某を見ることも出来なかったのだな」
「ええ、こんな奇跡、こんな幸せ、私にはもったいない……」
再び涙ぐむ真悠子。うっすら少しだけ残された肩は、震えているようだった。
「いや、そんなことは無い。お前の苦しみを考えれば、この程度では割には合わんだろう」
「愛しています……」
「某もだ」
「やっと言った。ふふ……」
そして、真悠子は消え、クニモリと、赤子だけが残された。
「そうか、伝えていなかったな」
腕の中の赤子は、すでに寝息を立てていた。クニモリは、子を目覚めさせぬよう優しくゆりかごへ寝かせ、そっと、ゆっくりと外に出た。
相変わらず虫たちが騒がしく鳴いている。クニモリは、胸いっぱいにつまった様々な思いをぶちまけるように、その恐ろしく強大な霊力を一瞬だけ解き放った。
その瞬間、辺りは、神聖な、太陽のような温かみに包まれた。
変化によって淀み始めた世界も、クニモリを中心に、結界が存在した範囲……クニモリの力の限界範囲までだけ、切り取られたように浄化され、元の清らかな空間に戻った。
(誓うぞ、真悠子よ。某はきっとこの世界を、元の清らかなものに戻して見せよう!この子が安心して生きてゆける世界を。
全てのものが安らかに生きる事のできる世界を、きっと取り戻して見せる!たとえ、我が友、××××が居なくとも、たった一人でも。)
「友よ……。お前の名を、今この場で某が口にするわけにはいかんな」
一時的に清らかになった世界では、月の光が、いっそう輝いたように思えた。
「月……。そういえば、真悠子も、お前も、月が好きだった……」
クニモリは、赤子に視線を戻した。相変わらず、静かに寝息を立てている。月に照らされ、その可愛らしい顔が、より美しく映えていた。
(名前を決めてやらねばな)
「月……の……」
月に照らされた赤子の顔をじっと見て、考えをめぐらす。可愛らしく、美しいこの子の名は、何がよいだろうか。
「そうだな、うむ……」
クニモリは、あらかじめ真悠子と相談しておくべきだったと後悔した。クニモリには、人のような名づけはできない。
「えい、悩んでも仕方が無い。月姫、お前の名は、ツキヒメだ」
名づけの瞬間、赤子は穏やかな光に包まれた。神たるものの作り上げたシステムに、組み込まれた証だ。この子は、これから、この世で生きてゆく。運命はこの子に、幸せな生をくれるだろうか。
「神よ、おこがましいことは百も承知の上、お願いしたい。どうかこの子だけは……いや、これは全ての親が望むことか。……それにあの怠惰な神が、どうにかしてくれるとは思えん」
クニモリはため息をつくと、神に祈ることを止め、改めて空を仰ぎ、もう一度真悠子と友に誓った。
大妖怪は、父となったのだ。この命は、なんとしてでも、自分の手で守り抜かなければならない。他人任せにはできない。正義は、愛によって少しだけ色を変え、クニモリの中へと戻った。